第73話.曖昧で温かな時間
その日の放課後。
実際は待たせることもなく職務を終えたノアと、私は馬車に乗っていた。
しばらく会話はなかった。私は何から話したものか悩んでいたし、ノアも似たようなものだったのかもしれない。
そろそろ話を切りだそうかと思ったところで、ノアが口火を切った。
「すまない、アンリエッタ」
何を謝られているのか分からずに無言で見返すと、ノアは抑揚のない声で続ける。
「俺が不用意な真似をしたことで、お前の足枷になった」
それで、なんの話なのか分かった。
噴水広場での一件は、間もなく講師であるノアの耳にも入っていたのだろう。あの場は一応私が収めていたため、口出しはせず経緯を見守ってくれていたのかもしれない。
「それなら事実無根なんですし、お兄様が謝るようなことではありません。でも……そうですね。私も驚きました。まさかお兄様が、頭を撫でてくれるとは思わなかったので」
少しだけ話題をずらして、軽く微笑む。
以前褒めてほしいとお願いしたときは、不器用な褒め言葉をかけてくれたノア。私が頼んだわけでもないのに頭を撫でてくれたのを、ずっと不思議に思っていた。
するとノアは、小さく鼻を鳴らす。
「お前にとっては、慣れた感触だったんだろう。あの男にも撫でさせていたからな」
その指摘に、ぎょっとする。
「あ、あの男ってエルヴィスのことですか? 迷宮図書館でジェネリック・エルヴィスしてもらった件については、髪を撫でてはもらいましたが、頭を撫でるという感じじゃありませんでしたけど……」
早口で弁解しかけた私は、あっ、と口元を押さえる。
今のって、よく考えたらエルヴィスじゃなくてロキのことだったんでは――と思ったときには、ノアは矢のような視線で私を射貫いていた。表情筋の硬いノアの瞳は、言葉よりずっと雄弁だ。
「す、すみません。今のはなんでもありません!」
その迫力に圧された私は平謝りをする。まずい。なんでは分からないけど、ノアを怒らせてしまったようだ。
「と、いうか……! 初めてじゃありませんでしたよね? お兄様は、前にも頭を撫でてくださった気がします!」
私が無理やり話題を取り繕うと、ノアのまとう冷たい空気が再び一変する。
「……覚えているのか?」
静かな声で問われた私は、頬に手を当てながら目を泳がせる。
「えっと、単なる夢というか、あれは私の勘違いだったかもしれないんですが……《魔喰い》との戦いのあと、おんぶしてくださったときに、大きな手が頭を撫でてくださった気がするんです。あれはお兄様の手だったのかも、とか……」
現実味がなさすぎて夢だと思うことにしていたが、実際に頭を撫でられた今となっては、あれはノアの手で間違いないような気がする。皮膚が硬く分厚くて、私よりもずっと大きくて、安心感を与えてくれる手……私の近くに、そんな手を持つ人は他にいないのだ。
石を踏んだ馬車が、がたんっ、と揺れる。私が乱れた横髪を耳にかけていると、正面に座るノアが小さな声で呟く。
「……そんなことは、忘れておけ」
眉を寄せるノアの白い頬には、ほんのり赤みが差しているようだった。
もしかして、これは……照れている、のだろうか?
ノアがそんな反応をするとは思わず、私は何も言えなくなってしまった。
だけど、残りわずかな時間を沈黙して過ごすわけにはいかない。私には、ずっとノアに訊ねたいと考えていたことがあるのだ。
「お兄様。ひとつだけ、伺いたいことがあるんです」
「なんだ」
私は乾いた唇を舐めて湿してから、意識的に息を吸う。そして花舞いの儀のあとから、ずっと付きまとっていた不安の一端を口にした。
「お兄様は、私が花乙女に選ばれたことをどう思っていますか?」
声の調子を落として、そう問いかける。
フェオネンだけじゃない。両親に冷遇されてきたノアもまた、花乙女という存在に並々ならぬ感情を抱いている人物だ。
ノアルートではカレンとの距離が近づくにつれ、複雑な胸の内を明かしていた。花乙女という肩書きへの執着、憎悪、嫉妬。それ以上の乾いた感情……。
だから今のノアには少なからず、私に対して思うところがあるはずなのだ。
でも、それを知るのがどうしても怖かった。花舞いの儀の前日にお互いの思いを言葉にしたことで、ノアとの関係は改善しつつあったのに、その距離がまた遠のいてしまう気がしたからだ。
狭い車内を沈黙が満たす。
車輪の音。二人分の息遣いの音。その合間から、答えが戻ってくる。
「分からない」
それは理路整然としたノアらしからぬ、ひどく曖昧な物言いだった。
「複雑だ、と言ってしまえばそこまでかもしれない。だが、それが理由でお前を嫌うことは……ない」
今までになく、歯切れの悪い返事だった。だけど、だからこそ、偽りのない本音であり――真剣に考えてくれたのだと伝わってきて、じんわりと胸が温かくなる。
「こんな答えでは、不服か」
「いいえ。じゅうぶんです」
私は微笑む。ノアは笑みこそ浮かべたりはしなかったものの、目を細めて私を見つめていた。
やっぱり、正面切って話さないと分からないことがあるんだな。そう噛み締めていると、ノアが小さく咳払いをして話題を変える。
「それとアンリエッタ。例の暗殺者の件だが」
「は、はい」
姿勢を正していると、お小言が始まった。
「お前の身に差し迫った危険がないことは分かった。だが、暗殺者などと親しくなりすぎるな。そもそも二人で会おうとするな。もし何かあったらどうするつもりだ」
どうしよう。ノアが過保護なお父さんみたいになってしまった。
私は対応に困りつつ、頬に手を当てる。
「でも、それなりに親しくならないと味方にできませんし……」
「なら、明日からお前には《銀翼鷹》をつける」
えっ、監視役ってこと?
《銀翼鷹》というのはノアの従魔だ。上空から私を見張らせる、ということだろうけど、そこまでしなくても……。
しかし、今日はノアからたくさん譲歩を引きだしている。私も一度くらいは聞き分けよく頷いておくべきだろう。
「はい、分かりました」
「それで、今も俺のことは嫌いか」
「……えっ?」
「嫌いなのか」
私を凝視してくるのは、憮然とした面持ちだ。
まさか、とは思うけど……ノアは、さっき私が叫んだことを気にしてるの?
ロキの話題を出したのも、この問いを私に差し向けるためだったのか。そう気づくと、私はほんのちょっとだけ、目の前の義兄がかわいく思える。そんなことを口に出したらそれこそ斬られそうなので、事実を伝え直すに留めた。
「ちゃんと言ったじゃないですか。大切なお兄様です、って」
ノアはほとんど聞き取れないような小声で、そうか、と呟く。窓の外には、数日ぶりに見る伯爵家の大きな門が迫っていた。








