第72話.義兄VS暗殺者
「――俺の妹に何をしている」
私はぎこちなく顔を上げていく。木肌に手を這わせて、こちらを冷然と見下ろしているのは――見間違えようもなく、カルナシア王国の守護者として名高いノア・リージャスである。
「お、お兄様……?」
震える唇で、その名を呼ぶ。
まだ授業中のはずなのに、どうしてノアがこんなところにいるんだろう。頭が混乱するものの、少し考えてみればすぐに分かった。
あのカフェテラスでの会話を踏まえて、ノアは私の動向を見張っていたのだ。ロキの立場を憂慮していた私は、いずれ必ず彼と接触しようとする。その瞬間を今か今かと待っていた……。
だが目の前に立つノアは、それだけでは説明がつかないほどの怒気をまとっている。
それは余波を食らっているだけの私すら、身体が小刻みに震えだすほど凄絶なものだ。でもノアの殺意にロキは微塵も動じず、私を抱き寄せながら小首を傾げた。
「なにって、あったかいから抱きしめてるんだけど……あれ? その銀髪……もしかして"カルナシアの青嵐"?」
「…………」
ロキの問いかけに、ノアは答えない。その代わり、彼がすらりと抜いたのは腰の長剣だ。
当事者とは思えないほどのんびりしていたロキだったが、膨れ上がる殺意に反応したのか、そこで私の肩を抱きながら一緒に身体を起こさせる。さらにノアの怒気が増したようだったが、ロキは気にせず私に話しかけてくる。
「アンリエッタ。早く離れたほうがいいと思うよ」
「な、なんで……」
「たぶんおれ、この人のこと殺しちゃうから」
「えっ……」
私は息を呑む。そう告げるロキの目に嘘はなかった。これからノアと本気で殺し合いになることを想定しているのだ。
私が立ち上がれずにいると、ロキは自ら離れた位置へと向かう。そんなロキを睨み据えながら、ノアが吐き捨てた。
「抜かせ。血を流すのはお前のほうだ」
「んー、どうかな。けっこういい勝負だと思うけど」
周囲を木立に鎖された空間で、二人が向かい合う。
空気が張り詰め、耳が痛くなるほどの静寂が場に満ちていき――頭上の枝先から落ちた一枚の葉が、地面に触れた刹那。
先に地を蹴ったのはノアだった。
まさに神速の突き。一息に距離を詰めて突きだされた長剣の切っ先を、ロキはコートの中から抜いた短剣の刃で受け流す。金属同士がぶつかり合う激しい音が、きぃん、と木立に響く。
だがノアは突きを防がれるのを承知の上で、続けざまに蹴りを放っていた。
バランスを崩しながらも避けたロキの胴あたりに、薙ぎ払うような長剣の一撃が迫る。彼の身体が真っ二つに切断される瞬間が脳裏に浮かぶほどに、精度が高い攻撃だ。
しかしロキは猫じみた敏捷さで後転飛びをして攻撃を躱すと、背後の幹に両足をついて着地する。その隙に追撃しようとしたノアは、顔に向かって投擲された短剣を返す刀で弾いている。
二人はお互いに距離を取り、再び向かい合う。
「……へぇ。まぁまぁやるみたいだね、青嵐」
無感動に言いながら、ロキは瞬きのあとには両手にそれぞれ形の違う短剣を握っている。下段に構え直したノアは無言を返すだけだ。
目にも留まらない攻防を見ているだけしかできない私は、顔を青ざめさせる。本人たちの認識通り、ノアとロキの実力は拮抗しているのだろう。つまり本気で戦えば、どちらも無事では済まないということだ。
まだお互いの刃は血で濡れていないが、それも時間の問題に思えた。極限状態の集中が永遠に続くはずがない。どちらかが一手を誤ったとき、必ず血が流れる。そのときは、刻一刻と迫っているように感じられた。
でも、どうすればいいんだろう。私はその場に蹲ったまま、必死に頭を回転させる。
以前、暗殺者とラインハルトの間に割って入ったようにはいかないだろう。そもそも目の前で繰り広げられる戦闘の速度についていけないので、その隙がないのだ。
悔しさが込み上げてきて、唇を噛む。私がカレンなら、本物の花乙女だったなら、きっと強い魔法を使って二人の戦いを止められるはずなのに……。
その間にも、ノアとロキはじりじりと動きだそうとしている。歯噛みする私の胸に甦ったのは、昨夜の出来事だった。
――今はお嬢様にお仕えするのが、とても楽しくて、大好きな時間なんです。
笑顔でそう語っていたキャシー。彼女は、こうも言っていた。
――ですから、お嬢様。早くノア様と仲直りしてくださいね。
大好き……仲直り……?
打開策が見当たらないままに、次はロキから仕掛ける。弾丸のように走って距離を詰めながら、長剣を構えるノアに肉迫する。ノアもまた、真っ向から迎え撃つ――。
焦りに焦った私はぎゅっと両目をつぶりながら、思いつくままに叫んでいた。
「二人とも! それ以上続けるなら――き、嫌いになりますからね!」
とにかく大声で叫ぶ。頓珍漢なことをまくし立てれば、満ち満ちている二人の戦意が少しでも削れるかもしれない。あるいは、騒ぎに気づいたイーゼラたちが駆けつけてくれるかもしれない。
「嫌いというか、大嫌いになります! 二度とお話もしませんし、目も合わせません! 私……私は、本気なんですからね! 覚悟してくださいね!」
ぜえぜえと肩で息をした私は、先ほどまでのような激突の音が止んでいることに気づく。
恐る恐る目を開けると、まるで流れる時間ごと停止してしまったように――接触の直前で、ノアとロキの動きが止まっていた。
互いが互いに、刃の切っ先を突きつけたまま……ノアに視界を固定したロキが、唇を尖らせる。
「よくわかんないんだけど。なんでアンリエッタ、おれのこと嫌いになるの?」
子どものように拗ねた横顔だった。数秒前まで殺し合いに興じていたのが嘘に思えるほどに、ロキの意識に私の言葉は引っ掛かってくれたらしい。
私は強く拳を握る。畳みかけるなら、今しかない。
「それは、だから――ロキが、私の大切なお兄様を傷つけようとしたからよ!」
ぴく、とそれを聞いたノアの片方の眉が跳ね上がる。
「でもロキだって、もう私の大切なお友達だから……ロキを傷つけるなら、私はお兄様のことも嫌いになる! そういうことなの!」
もう、これで押しきるしかない。
しばらくぶりに吹いた風に、枝葉がさわさわと揺れる。形を変える木漏れ日の下、数秒の沈黙を挟んでから、ロキが戦闘態勢を解いた。
「そっか。じゃあ、今はやめておく」
『今は』という言い回しが気になるものの、二人ともほぼ同時に武器を納めてくれている。息を凝らしていた私は、ようやく身体から力を抜いた。
ありがとう、キャシー。あなたのおかげで、なんとかなったかもしれない……。
私は芝生から立ち上がると、ふらつく足取りでノアのほうへと寄っていく。欠伸を繰り返しているロキのことを気にしつつ、ひそひそと小声で話しかけた。
「お兄様、前にお話しした通りです。ロキは二人きりのときも、私を殺す絶好の機会なのに何もしませんでした。予知夢通り、私がうまくやれば心強い味方になってくれるはずです」
ノアは無言で私を見下ろしてくる。強い緊張を感じて心臓の音が自然と速くなるが、わずかにも視線を逸らしたりはしなかった。
ノアはそんな私に根負けしたように、小さく息を吐く。
「……分かった。しばらくは、様子を見る」
「お兄様……!」
私はぱぁっと顔を輝かせて両手を組む。
良かった。これでノアを説得できた!
心の中で大喜びしていると、ノアは鋭くロキを睨みつける。
「だが、アンリエッタ。お前に何かあれば――いや。俺が危険だと判断した時点で、あの男は殺す」
わざとロキに聞こえるように言っているのだろう。ロキはその言葉には無反応だったが、私のほうを見やるとひらりと片手を振る。
「じゃーね、アンリエッタ。また遊ぼうね」
私が反応するより早く、ロキの姿は掻き消えるように見えなくなってしまう。いつの間にか隠蔽魔法を発動させて、姿を消したのだろう。
ノアは鼻に皺を寄せていたが、私の視線に気づくと少しだけ表情を緩めた。
「訓練場に戻るぞ。他の生徒を待たせてある」
言うなり、何事もなかったように歩きだす。私は広い背中を慌てて追いかけながら、勇気を出して声をかけた。
「お兄様。今日は一緒の馬車で帰りませんか?」
「今日も、寮に帰るんじゃないのか」
意地悪を言うノアに、私はむくれる。
「おいやでしたら、いいです」
しばらく返事はなかった。
やがて、振り返らずにノアが返してきた。
「少し待っていろ。すぐに仕事を終わらせる」








