第59話.闇の従魔
「……お前は、いやなのか?」
「えっ……と」
私は意味もなく、自分の横髪に触れながら目を伏せる。
「あの、別にいやというわけでは……」
なくてですね、と行き着く先も見えないまま弁解しかけたときだった。
三階にいるというのに、私の頭上に黒い影が伸びてくる。怪物が巨大な顎を開くようにして、その深く濃い影が私の顔へとかかった。
「――え?」
何も反応できないまま、闇に呑み込まれかけた瞬間。
「アンリエッタ!」
異変に気づいたラインハルトが私を抱きしめて、一緒に床に倒れる。
それと入れ替わるようにして、室外に躍り出ていたのはシホルだった。得体の知れない黒い影を躊躇なく剣の柄で殴りつけながら、共にバルコニーの向こう側に転がり落ちていく。
「シホル!」
ラインハルトの手を借りて起き上がりながら、私は慌てて叫んだ。
手すりから身を乗りだすようにして目を凝らすと、三階から落下したシホルの姿が闇の中にぼんやりと見えた。
「お嬢さん、怪我はない?」
シホルは敵に視線を固定したまま、確認してくる。今まさに正体不明の敵と向かい合っているのは自分だというのに、私の心配をしているのだ。
「大丈夫! 私も殿下も、大丈夫だから!」
目の前の敵に集中してほしい。そう伝える前に、ゆらゆらと揺れる影がシホルに襲いかかる。
ぐわっ、と闇に覆われた太い腕のようなものが伸び、シホルの喉笛を掻き切ろうとする。
シホルはその鋭い攻撃をステップで躱しながら、鞘から剣を抜く。お返しというように一気に距離を詰めて、敵に肉迫した。
しかしシホルが剣の切っ先を突きだした瞬間、敵の姿は霧のようになって掻き消えてしまった。
「えっ? 今のは……」
私は目をこする。何かの見間違いかと思いきや、シホルが声を張って説明する。
「こっちの攻撃が当たる直前に霧散した。たぶん闇属性の魔物だ」
シホルは魔物を牽制しつつ、光魔法を詠唱する。
「【コール・ルーメン】――彼の者を取り巻く闇を払い、姿を示せ!」
中級光魔法。シホルの足元に、対応する魔法陣が浮かび上がる。
だが、魔物の様子に変化は見られない。光と闇はお互いが弱点属性に当たるが、一方が圧倒的な力量を持つ場合はその法則は適用されず、魔法が弾かれてしまうのだ。
「あー、やっぱりダメか。おれ、光魔法苦手なんだよなぁ」
シホルがぼやく。
光と闇の魔法は使い手が限られている。おそらくシホルは初級光魔法までしか使えないのだ。今のは一か八かで唱えてみたのだろう。
「それなら、オレが!」
とすかさず名乗りを上げるのは、炎魔法の次に光魔法を得意とするラインハルトだ。
「【コール・ルーメン】! 彼の者を取り巻く闇を払い、姿を示せ!」
階下に向かって、ラインハルトが威勢良く魔法を放つ。だが、結果は同じだった。
「なっ……」
絶句するラインハルト。光魔法にはそれなりの自信があったからだろう。
しばらくの睨み合いに飽きたのか、ゆらゆらと輪郭を揺らしていた影がシホルに接近する。
「危ない!」
だが、繰りだされた魔物の腕はシホルの髪を掠めただけだった。というのも、魔物が攻撃の直前に姿勢を崩したからだ。
でも、影なのに転ぶなんてことがあるのだろうか。疑問に思っていると、さらりとラインハルトが解説してくれた。
「影のように見えるだけで、あれは実体のある魔物なんだろうな。詠唱は聞き取れなかったが、おそらくシホルは足元に土魔法を仕込み、それを魔物に踏ませることで体勢を崩させた。光魔法で周囲を照らさないのは、罠の存在に気づかれたくなかったからだな」
なるほどと頷いていると、闇の中でもシホルがうっすらと笑ったのが分かる。
「今のに引っ掛かったか。最初に殴りつけたときもそうだったが……やっぱり攻撃の瞬間は、実体化せざるを得ないみたいだな」
彼は早くも、攻撃の糸口を掴んでいるようだった。
「シホル殿!」
「加勢します!」
そこに、騒ぎに気づいた王城の騎士たちが明かりを手に集まってくる。
だが駆けつけたタイミングが悪かった。隙ができたと見て取った魔物が、ものすごい勢いで逃げていく。庭園の花壇から木々へと飛び移り、そのまま一気に遠くへ……。
何人かの騎士がそれを追うが、シホルは剣を収めていた。月明かりしかない夜闇の中で、あんなにすばしっこい相手を追うのは困難だと判断したのだろう。
足元に風魔法をまとわせたシホルが、ひょいひょいと壁を伝って三階まで戻ってくる。
先ほど飛び降りたバルコニーから彼が姿を現したとたん、私は無我夢中で飛びついていた。
「シホル、大丈夫!? 怪我は!?」
シホルは私の剣幕に驚いたようだったが、降参するように両手を上げてみせる。
「大丈夫。怪我ひとつしてないですって」
「良かった……」
ホッとした直後、身体がぐらりと傾く。そんな私を、慌てて手を伸ばしたシホルが支えてくれた。
「お嬢さんっ?」
「ご、ごめんなさい。力が抜けちゃって」
ていうか……今、とっさにシホルのことを呼び捨てにしちゃったかも?
謝ろうかと思ったが、シホルは小さく微笑むと、私の肩をぽんぽんと優しく叩く。きっと普段から、こんな手つきで弟妹に触れているのだろう。
「ごめんね、心配かけて。おれ、なんともないよ」
「は、はい……」
頷き返すと、シホルが私の肩から手を離す。
彼は忙しなく、ラインハルトの護衛騎士たちと話し始めた。魔物について詳しい情報を共有しているようだ。
会話が一段落すると、次はラインハルトが話しかける。
「さすがだな、シホル」
「あの魔物、まったく殺気がありませんでしたから。こっちが逃がしてもらったようなものです」
自身の功績を誇るでもなく、シホルがあっさりとした口調で答える。
「あいつ、なんだと思う?」
「少なくとも、ただの魔物ではないですね」
シホルの言わんとするところに、ラインハルトはすぐ思い至ったようだった。
「何者かの従魔、ということか」
「間違いないかと。いくつか候補の魔物名は浮かびますが……何しろ姿が見えませんでしたから、断定はできません」
「狙いは、俺と考えるべきか。あるいはアンリエッタを……?」
「それは…………」
シホルとラインハルトは、まだ何か話している。私はその会話の断片を拾いながら、首を傾げた。
闇属性。それに、姿の見えない従魔……?
何かが記憶を刺激した気がするが、その正体は判然としなかった。
◇◇◇








