第31話.近づいた距離
買い物を終えて屋敷に戻ってくると、玄関前には一台の馬車が停まっていた。
どうやらノアが帰ってきているようだ。もう護衛の仕事は終わったのだろうか。馬車を降りて玄関に向かうと、なぜか出てきたノアとばったり出会す。
「あ、お兄様! 護衛のお仕事、お疲れ様です」
ノアに何か言われる前に、先手を打つ。
「実はお兄様にお土産があるんです。王都のお店で、おいしそうなタルト・シトロンが売っていたものですから。もちろん、ダレス卿の分もあります」
これこそ、私がノアに用意したプレゼントである。
掲げるように見せるケーキボックスの中身は、タルト・シトロン――すなわちレモンタルトだ。今はレモンの旬とはかけ離れているように思えるが、王都でも屈指の人気店『果実のささやき』では、品種改良された冬レモンを使ったタルトが販売されているのだ。
ふふん、どうよノア。気の利く妹にお見それした?
私がわくわくしながら待っていると、それまで黙っていたノアからは予想だにしない返事があった。
「いらん」
「えっ」
嘘。なんで? 大好きなタルト・シトロンだよ?
面食らう私を、ノアがばっさりと斬る。
「甘いものは好きじゃない」
その回答に、私は固まる。というのも今さらになって、重要なことを思いだしたのだ。
そうだ、そうでした。ノアがタルト・シトロンを好きになるのって、カレンと一緒に『果実のささやき』に行ってからじゃない!
街中を歩いていると、ラインハルトの警護帰りだというノアに出会うカレン。甘いもの好きなカレンにこれなら甘さ控えめみたいですよと勧められて、ノアは渋々、カフェでタルトを食べることになる。
帰り道、いつも以上に口数の少ないノアに「タルト、おいしくなかったですか?」とカレンが不安そうに問うと。
――初めて、好物らしい好物ができたな。
そうノアが独り言のように呟き、空白だった彼の好物の欄にタルト・シトロンの文字が追加される……という心温まるイベントは、もちろん発生前である。だってカレン、まだいないから。
つまりここにいるノアは、まだ一度もタルト・シトロンを食べたことがないのだった。
うわぁ、どうしよう。完全にやっちゃったよ。穴があったら入りたい気分になりながら、私はなんとか取り繕おうとする。
「でも、あの、このケーキは甘さ控えめなので、甘いものが苦手なお兄様でも食べやすいと思います。きっと病みつきになります。だから……」
言いながら、ケーキボックスを持つ手をゆっくりと下げてしまう。カレンを真似る私の言葉は、どこまでも上滑りしていて空虚だった。後ろに立っているだろうシホルやキャシーも言葉を差し挟んでこないから、それくらい痛々しかったのだろう。
リージャス家の食卓には、滅多に甘いものは出なかった。正しくは、アンリエッタの食事には出てもノアには与えられなかった。そのせいでノアは甘いものに興味を持たず、学園でも口にすることがなかったが、そんな彼の認識をカレンが変えるのだ。私の言葉で、ノアが心変わりするはずがない。
好感度を上げたいからって、余計なことはするもんじゃないな。私が悄然としていると、これ以上は聞いていられなかったのか、ノアが低い声で言う。
「これから王城に戻る。今は荷物を取りに戻ってきただけだ」
タルトを食べている暇なんかないと、言外に告げられている。私はなんとか作り笑いを浮かべた。
「そう、ですよね。それではお兄様。どうかお気をつけて」
ぺこっと頭を下げて、ノアの真横を通りすぎようとする。
そのとき、聞き間違いかと思うほどに小さな声が私の耳朶を打った。
「だから、取っておけ」
「え?」
「帰ったら食べる」
思わず立ち止まって、ノアを見上げる。
私が沈黙しているせいか、横目でこちらを一瞥したノアは仏頂面で繰り返した。
「帰ったら食べる、と言った」
「そ、それでしたら。お兄様の分は、厨房で冷やしておいてもらいますね!」
ようやく再起動した私が大慌てで言えば、背を向けたノアが何かを呟く。
「次は……」
その続きは、声が小さすぎてうまく聞き取れなかった。
ノアはもう振り返ることはなく、まっすぐに馬車へと向かう。
「お疲れ、お嬢さん」
シホルはひっそりと小声で言うと、笑ってノアの後ろについていった。
そんな二人を見送って、私はううんと首を傾げる。タルトを食べてもらえるのは嬉しいけど、ノアはなんて言いかけたんだろう。
もしかして――次は一緒に食べよう、とか?
浮かび上がった考えを、苦笑して打ち消す。あのノアに限って、それはあり得ないか。
「それじゃあキャシー。タルトは食後にでも一緒に食べましょう」
不思議そうにするキャシーに、私はぱちりとウィンクした。
「大丈夫よ、お店でたくさん注文したでしょ? あなたの分と、他の使用人の分もあるから」
「アンリエッタお嬢様……!」
キャシーの表情がぱぁっと明るくなる。うんうん。やっぱり女の子はスイーツ好きが多いよね。
いろんなことがあったけど、最終的にはいい休日、といえなくもない一日だった。







