30 出国
「……ずっといてくれたのですか?」
いつの間にか自分の腕を枕にしてベットに突っ伏して眠っていたらしい。
少年の声で目が覚めた。
「あら、おはよう。起きたのね。体調はどうかしら?」
顔色は良さそうだ。兎の耳も立ち上がっている。
「はい、だいぶ良いと思います。もうだるくもありません」
「ちょっといいかしら?」と言ってエヴァは少年の額に手を当てる。
「本当ね、もう熱は下がったわ。良かった、お薬が効いたのね。でも、今日はもう少しゆっくりして体を回復させましょうね」
微笑みかけると、ちょうど少年からおなかが鳴った音が聞こえてきた。
「お腹が減ったのね。食事は食べられそう?」
真っ赤になって頷いた少年に、ふふと微笑むと席を立った。
「滋養のある、体に優しい食べ物を持ってこさせるわね。嫌いなものはある?」
ヴィクターは首を振った。
「ちょっと待っていてね」
その言葉にこくんと頷く様子が可愛らしかった。
「リリー様、おはようございます。昨夜、体調を崩した男の子の熱は下がりましたわ」
厨房に寄って男の子の朝ご飯の用意をお願いしてから、リリーへ報告をしに行った。
「よかったわ。エヴァ様はずっとついていてくださったの?ありがとうございます。眠っていませんよね。どうか部屋で一度休んでください」
「少し、私も寝ちゃったの。だから大丈夫ですよ」
「無理をしないでくださいね。それと、レイモンド殿下がもうそろそろ出発するかと思います」
「あら、ご挨拶に行かないと。レイモンド様達はどこにいらっしゃるかしら?」
レイモンド達を見送ろうと厩舎へ行くと、ちょうど馬に鞍をつけ、荷物を括りつけて出発の準備の真っ最中だった。
「エヴァちゃん、来てくれたの?子供達の世話をしてくれていると聞いたよ。ありがとう。助かるよ」
「今からご出発ですか?」
「そうなんだ。早く帰れとせっつかれていてね。ここには薔薇園もあるし、もう少しゆっくりしたかったんだけどな」
げんなりした様子でレイモンドは苦笑いをした。
「エヴァちゃんはルーカスと一緒に子供達とロダン公爵家へ行ってくれる?子供達も君に懐いていそうだし」
「懐いているかしら。でも子供達が可愛いので、一緒は嬉しいです。でもルーカス様も騎士団長であれば早く帰らなければいけないのでしょう?」
「ふふふ、まぁそこは今回貸しを作ったから、おいおい倍にして返してもらおうかなって思ってるよ」
にっこりと笑いながら言ったレイモンドは、瞳に真剣さを滲ませて尋ねてきた。
「エヴァちゃんはロダン公爵家に行った後どうしたい?」
「……具体的なことはまだ何も決めていなかったです。まずは王都で住む場所を探したいと思います。街で暮らしていけるよう仕事も探したいですし……レイモンド様?」
笑いを堪えているような顔をしているレイモンドが、ついに耐えきれなくなったのか声をあげて笑い出した。
「ふふふ。エヴァちゃんが街に住んで仕事?」
笑うほどおかしいこと?
「ダメでしたか?」
「いや、ダメではないけど、ルーカスが許さないんじゃない?」
「ルーカス様から薔薇園のお手伝いのお話をいただきましたが、すでに庭師の方がいらっしゃいますよね。まずは、その方に認めてもらわないといけないので通いで勉強させていただこうかと思っていました。それに生きていくためにお金がも必要ですし」
けらけらと笑っているレイモンドを横目で見つつ、誤解されないよう覚悟だけ伝えておく。
「それに、レイモンド様は勿論、ルーカス様もダキア皇国の皇子様です。私によくしてくださることを感謝しておりますが、ダキア皇国ではちゃんと身の程を弁えまえて生活していきますので、ご安心ください」
言外にこれ以上は甘えはしないと匂わせて、にっこりと笑ったエヴァをレイモンドがまじまじと見つめる。
「ティフリス王国では辺境伯令嬢、ダキア皇国では公爵家の孫だよ。しかも暗殺者に狙われているかもしれないのに。そんな子を市井に置いておけないよ」
「でも……」
「エヴァちゃんのことはルーカスに任せるよ。僕としてもせめて暗殺者の件が片付くまではルーカスの目が届くところにいてほしいかな」
宮殿に滞在をと言うことだろうか。思わずエヴァは目を伏せた。
「……ご配慮を頂きありがとうございます」
「じゃあ、また王都でね」
「はい、どうぞお気をつけて」
万が一宮殿で暮らすことになった場合は、使用人の部屋にでも置いてもらおうと思った。
「ちゃんと休めたか?」
エヴァがレイモンド達の出発準備を眺めていると、ルーカスがやってきた。
「はい、少し寝ましたから大丈夫です。ルーカス様、お借りしていたマントをお返しします。とても温かったです。ありがとうございました」
ぎゅっと抱きしめるように持ち歩いていたマントをルーカスに手渡す。
「子供は?」
「ヴィクターの熱は下がりました。他の子達は今のところ体調は良さそうですよ」
「そうか、兄上は今日出発するが、俺やエヴァ、子供達は明日出発しよう。まずロダン公爵家に向かう」
ついに明日、お祖母さまとお祖父様に会えるんだ。
緊張が顔に出たのだろう。
ルーカスは赤い瞳を柔らかく細めると、何も心配しなくていいと微笑んだ。
レイモンド達の出発を見送ったエヴァがヴィクターの元に戻ると、朝食を平らげすっかり顔色がよくなっていた。
「もう熱も下がったし、ひとまず安心ね。明日出発するみたいなの。これから、みんなと同じ部屋に戻るけれど無理しないでね」
頬を赤らめながら嬉しそうに頷いたヴィクターが可愛らしくて、ついエヴァも笑顔になってしまう。
ヴィクターと一緒に男の子の部屋へ戻ると、皆がヴィクターを待ち構えていたように取り囲んだ。
ヴィクターの丸い尻尾がブンブンと動いているのが見えて、エヴァも嬉しかった。
リリーと一緒にアーサーの執務室へ出発前の挨拶を兼ねて訪ねた。
「アーサー様、リリー様、滞在の間、お二人の采配をとても頼もしく思いました。これからも辺境伯領や領民をよろしくお願いします」
「私はクラウス様の考え方ややり方を模倣しているだけです。ですが、引き継いだこの地をしっかりと盛り立てていく努力を惜しまないことをエヴァ様に約束します」
アーサーはエヴァの目を真っ直ぐに見つめながら、決意を伝えてくれた。
エヴァの胸にあったもやが晴れていくようだった。父と母がやってきたことは、無駄ではない。引き継いでくれる人がいた。
「レイモンド殿下から、両国の輸出入についての条約が決まったと聞いております。きっと今後はさらに両国を行き来する人や物が増えるでしょう。国境の警備をしっかりと行い、もう二度と犯罪に巻き込まれないように、そして訪れるダキア皇国国民と友好的に接することができたらと思います。もっと開かれた辺境伯領にしたいのです。今回、獣人の子供達に接する使用人達の態度を見てそう思いました」
アーサーの言葉がエヴァの心の中に染み込んでいく。
辺境伯領からこの国は変わっていくかもしれない、漠然と感じた。
「クラウス様とエリザベス様のお墓のことは心配なさらないでください。私たちがしっかりと守っていきますから。エヴァ様の近況はお手紙で教えてくださいね」
リリーがエヴァの手を握り、泣き笑いのような微笑みをくれる。
「エヴァ様のお部屋は空けたままにしますので、いつ帰ってきても大丈夫ですよ。ここはエヴァ様の実家なんですから。遠慮なんかしないでくださいね」
「リリー様、ありがとうございます」
エヴァは嬉しさで目頭が熱くなった。
(二人のおかげで心置き無くダキア皇国へいけるわ)
アニーに頼んで隠しておいたダキア皇国の本は、図書室に戻すことにした。リリーもダキア皇国の物語に興味があるのだという。
アーサーとリリーと話しているうちに、胸につかえていた懸念が次々に消えていった。
出発の日の朝、両親の墓へ最後の挨拶を済ませたエヴァは、ロジャーやニック、アニーとの別れを惜しんだ。
「みんな元気でいてね」
「お嬢様もどうかお元気で。いつでも帰ってきてくださいね。ここにお嬢様の居場所があることを忘れないでください」
ロジャーの言葉に素直に頷けるようになったことが嬉しかった。
「ルーカス様、今回私はどこに乗ればいいのでしょう?」
エヴァは今日は乗馬服を着ていない。動きやすいワンピースドレス姿だ。
荷造りを手伝ってくれたグレタが選んでくれたから、今日はルーカスの愛馬のロシュに乗ることはないと思っていた。
──子供達と一緒の荷馬車かしらね
子供達はエヴァに少しずつ表情を見せるようになってきた。心からの笑顔がまだ無理でも、氷が溶けていくように少しずつ表情が柔らかくなってきたような気がする。リリーの采配のおかげで、ここでの滞在は悪くなかったのだろう。
熱を出していたヴィクターもすっかり元気になったようだ。目があった時にニコッと微笑むと、はにかんだような顔を見せてくれるのが可愛らしい。
「エヴァは俺とロシュに乗ってくれ」
「でも、私は乗馬服を着ていないですよ」
「子供達の乗った荷馬車に付いていくので、速度は出さないから大丈夫だ。また、ロシュと俺と一緒は嫌か?」
端正な顔に少し拗ねたような不安げな表情が浮かんだ。
思わず、首をブンブンと横に振る。
──それはずるい。
そんな顔はずるい。期待したくないのに。
自分は特別なんじゃないかって勘違いしそうになる。
少し顔を赤らめたエヴァを見て悪戯っ子のように笑うと、上機嫌でルーカスはエヴァをロシュに横乗りさせた。
「アーサー殿、世話になったな。互いの信頼が損なわれない限り、いつでも力になろう。ダキア皇国第二皇子ルーカスの名においてここに誓う」
「ありがたいお言葉です。こちらもティフリス王国辺境伯として恥じない行いをしていきます。どうか我らのエヴァ様のことをよろしくお願いいたします」
ルーカスは威厳が伝わる声音で高らかに、馬上からアーサーへ言葉をかけた。
地に跪いたアーサーの姿と馬上のルーカスの姿は双方の力関係を雄弁に物語っている。
ルーカスの言葉『互いの信頼が損なわれない限り』とは、アーサーがダキア皇国を敵に回す行為をしなければ攻め入らないと暗に匂わせたことは、エヴァにもわかった。そして、アーサーもそれを承知した上で答えたのだろう。
戦になれば、国境を預かる辺境伯領地は前線となり、領地領民への負担は計り知れない。アーサーの人柄、リリーの采配が大国の皇子の信頼を勝ち得たことは、今後辺境伯としてやっていくアーサーにとって大きな後ろ盾になるに違いない。
それを見越した上でアーサーに声をかけたルーカスの思いやりに感謝した。
辺境伯領の皆に見送られ、振り返っては手を振り返すエヴァにルーカスが後ろから柔らかな声音で話しかけた。
「エヴァは愛されているんだな」
「ずっとあそこには私の居場所がないと思っていたのですが、ちゃんとあったのだと気が付きました。近すぎて見えていなかったんですね。居場所は誰かに作ってもらうものではなく、自分が作っていくものだってやっと分かった気がします」
ぎゅっと両手を握りしめて、息を吸い込んだ。
「だから、庭師として呼んでくださったルーカス様のご厚意はありがたく思っています。けれど、あくまでもそれはきっかけであり、自分が行動して居場所を作っていくものだと今はわかっています。だから、私はダキア皇国でも居場所を作れるように頑張りますね」
エヴァは前に広がる辺境伯の地を目に焼き付けるように見つめた。
後ろに跨っているルーカスが、はぁと大きく息を吐くと、エヴァの肩の上に後ろから頭を乗せてきた。
「ルーカス様?」
頬に柔らかな金色の髪が触れてくすぐったい。
「エヴァは強いな。俺に……もっと甘えていいのに」
「十分甘えていますよ」
近い距離感に胸の鼓動が早くなる。
「そうか……」
もう一度ため息をついたルーカスが顔をあげて吹っ切ったような明るい声で告げた。
「俺も誤解を解くべく頑張るとするよ」
「誤解?」
耳元で聞こえた言葉の意味がわからず尋ねたが、後ろからは笑い声しか聞こえなかった。
「それでは、我々の護衛はここまでとなります。くれぐれもエヴァ様のことをよろしくお願いいたします」
「心配するな。任せておけ」
国境まで見送りにきたアーサーに再度念押しされたルーカスは頷いた。
「エヴァ様、我々はいつでもエヴァ様のことを歓迎いたします。何かあれば頼ってください」
「アーサー様、お気遣い頂きありがとうございます。辺境伯領地と領民をよろしくお願いいたします」
アーサーはエヴァの目を見てしっかりと頷いた。ここ数日で顔つきがだいぶ変わったように思う。きっと、ルーカスやレイモンドとのやりとりで自信をつけていったのだろう。
安心してダキア皇国に旅立たせてくれるアーサーに感謝の気持ちでいっぱいだった。




