16 棘
残酷な描写、暴力的な描写があります。
苦手な方は飛ばしてくださいませ。
「辺境伯はこうなることを了承したよ。さぁどうやって楽しもうか」
エヴァは下卑た薄笑いを浮かべるバーク伯爵を睨みつけた。
「絶対にあなたの思い通りにはならない」
お腹に力を込めて、エヴァは近付いてきたバーグ伯爵の顔に自分の頭を思い切りぶつけた。
「ゔ……」
どうやらバーク伯爵の鼻にエヴァの頭が当たったようだ。鼻から夥い量の血が流れ落ちる。
余程痛いのだろう。エヴァの上に覆いかぶさっていた体が離れ、鼻を押さえて床に蹲っている。
エヴァは飛び跳ねるように起きると、扉まで走った。
扉を開けて外に出ようとした時、後ろから腕を引っ張られ、また室内に戻されてしまった。
扉を背にしたエヴァは、鼻から血を流したまま憤怒の表情を浮かべているバーグ伯爵と向き合った。
「気の強い女は好きだが、やりすぎだ。私を怒らせたな」
額に青筋を張らせ、目尻を吊り上げたバーグ伯爵が怒りと苛立ちを含んだ声で言う。
エヴァは伯爵を睨んだまま、気付かれないようにそろそろと後ろ手で扉のドアノブを探りあて、握りしめる。
「悪ふざけはここまでだ」
バーク伯爵との間合いを計る。
一度しかチャンスはない。
(今だ!)
バーグ伯爵がエヴァに向かって一歩足を踏み出し、二歩目を踏み込んだ時に、股を一気に蹴り上げた。
蹲って動かなくなった伯爵を横目で見ながら、扉を開けたエヴァは廊下を駆け出す。
闇雲に走っていると、先ほど通った見覚えのある回廊に出てきた。
(ここを真っ直ぐ走ったらホールだわ)
ほっとして後ろを振り向くと、追ってくる伯爵の姿が見える。
(まだ追ってくるの?)
エヴァは慌てて走り出したけれど、恐怖で足が強張りドレスの裾も邪魔をして思うように走れない。振り返る度に、距離を縮められている気がする。
どうしよう、このままではホールに辿り着く前に追いつかれてしまう。
気持ちばかり焦り、思うように動かない体にやきもきする。
そんな時、夜風に乗った薔薇の花の香りをエヴァは感じた。一気に焦っていた心が静まるような感覚を感じる。薔薇の香りに誘われるように、エヴァは回廊から外へ飛び出した。
青白い月の光が、辺りを明るく照らしている。
いつの間にか靴は脱げ、裸足で王宮の薔薇園に向かって走っていた。
薔薇の香りが濃くなり、薔薇園まで来たとわかった。
「俺によくもこんな仕打ちをしやがって……」
後ろから怒気を孕んだ声が聞こえてくる。
(もう追いつかれてしまった)
薔薇園の中でエヴァは呆然と立ちすくんでしまう。
隠れるところがない。
覚悟を決めたエヴァは、声の方に向き直った。
怒りで赤くなった顔のバーク伯爵が肩で息をしながらエヴァを睨みつけている。
「ふん、逃げ回りやがって。もう許さない。俺をこけにした分は倍にして痛めつけてやる。お前の純潔をいたぶりながら散らした後、隣国へ奴隷として売ってやろう。俺にはむかったことを一生後悔して生きていくんだな」
(お父様、お母様、どうか私を守って)
エヴァは首から下げていた、母の形見のペンダントの赤い石をぎゅっと握りながら祈る。
(どうかこんな卑劣な男に負けない力を貸して)
突然、手の中にある石が光り輝き出した。
それと同時に周りの薔薇の枝が一斉に伸びはじめ、みるみるうちにエヴァを覆い始める。
エヴァは驚きの余り足元がふらついて地面に座り込んだ。
まるで意思を持っているかのような薔薇の枝はドーム状になってエヴァを覆い隠してしまった。
薔薇の枝に囲まれた空間で呆然としていたエヴァは、バーク伯爵が何か叫んでいる声で我に戻った。ぎゅっと握りしめていたままだった手をゆっくりと広げてみると、ペンダントの赤い石はまだ淡い光を放っている。
「綺麗な光……守ってくださったのね。お父様お母様、ありがとうございます」
もう一度石をぎゅっと握りしめ、額に押し当てたエヴァは静かに涙を零した。
バーク伯爵の叫ぶ声が一旦止んだと思ったら、大勢がやってくる足音が聞こえた。
薔薇の枝に囲まれたエヴァには外が見えない。息をひそめて薔薇の枝の中で身を縮めた。
「エヴァ、無事か?」
耳障りのいい優しい低い声音がエヴァを呼ぶ声が聞こえる。
ルーカス様?
「俺だ、ルーカスだ。エヴァ、聞こえるか?」
「ルーカス様?」
「エヴァ、この中にいるんだな?」
「はい」
「そうか。うるさいのを片付けてくるから、少しだけそこで待っていてくれるか?」
安堵のこもったルーカスの声に安心して、張り詰めていた気持ちが緩む。
「わかりました」
「また声をかける。側にいるから心配するな」
そういうとルーカスはどこかへ向かったようだった。
外の音がぼんやりと聞こえてくる。
何か喚くような声が聞こえたと思ったら、大勢の足音と一緒に声が遠くなっていく。
しばらくすると、また薔薇の枝の外からルーカスの声が聞こえてきた。
「エヴァ、もう大丈夫だ。出てきていいぞ」
「ルーカス様、どうやって出ればいいのかわからないのです」
棘のある薔薇の枝がしっかりと絡み合っているのがわかる。エヴァを守ってくれた枝を切るのは忍びない。
どうやってここから出ればいいのだろう。
「外はもう安全だから、そこから外へ出たいと念じてみろ」
「はい、やってみます」
エヴァは石をぎゅっと握りしめて念じる。
(私を守ってくれて本当にありがとうございます。ルーカス様が来てくださいました。もう安全だそうです。どうか私を外に出していただけますか?)
手の中で淡く光っていた石がまた明るく光り輝き出した。
薔薇の枝がするすると解け、元に戻っていく。エヴァを覆っていた枝があっという間に無くなった。
何事もなかったかの様に、元の薔薇園の様子に戻ると手元の石も光を失った。
座り込んでいるエヴァの前に立っていたのは礼服を着たルーカスだった。
ルーカスはエヴァを覆っていた薔薇の枝がなくなると、エヴァの前で跪き、硬い表情で覗き込んできた。
「エヴァ、怪我は?血の匂いがする」
思わずルーカスの視線の先をみると、首元から胸元にかけて血がついている。
「これはバーク伯爵の血です。……お母様のドレスが汚れてしまいましたね」
がっかりしながら自分のドレスを見下ろす。胸元には血のシミがいくつもできている。庭にしゃがみ込んでしまったから、裾も土で汚れているだろう。
「顔を叩かれたのか?」
顔をあげたエヴァを見たルーカスが、悲痛な声で尋ねながら腫れた頬に手をそっと当てる。
「そういえば叩かれました」
逃げることに必死で痛みを忘れていたが、気がついてしまうとジンジンとする痛みと熱を感じ始める。
「来るのが遅くなってすまなかったな」
泣きそうな顔のルーカスをぼんやりと見つめた。
(なんでルーカス様が泣きそうな顔をしているの?)
「ルーカス様が助けにきてくださって助かりました。ありがとうございます」
ヘラヘラ笑った顔になったかと思うと、エヴァの瞳からポロポロと涙が落ちた。
「あれ……すみません、泣くつもりなかったのに……止まらない」
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
ルーカスの言葉に込み上げてくる涙を止めることができなかった。
跪いていたルーカスが、自分の上着を脱ぐとエヴァの肩にかけて優しく囁いた。
「さ、行こうか」
上着からふわっとルーカスの香りがする。見上げると不安そうな表情のルーカスと視線がぶつかった。
「エヴァに俺が触れても大丈夫か?」
状況から何があったのか察知しているのだろう。
一瞬考えたエヴァは、こくんと頷いた。
泣き笑いのような顔をしたルーカスが、エヴァを横向きに抱き上げると歩き出した。
「ルーカス様?私歩けますよ」
予想していなかった状況にエヴァは慌ててしまう。
ルーカスの腕がさらに力を込めてエヴァを引き寄せたのがわかった。
「靴を履いていないだろう。エヴァを抱き上げて歩くくらいなんともない」
心地よい振動にだんだん意識がぼんやりとしてきた。
色々聞きたいことがあるのに、段々と口を開くのが億劫になってくる。
エヴァの様子に気づいたルーカスが口元をあげて囁いた。
「目を瞑っていていいぞ。またゆっくり話そう」
「ルーカス様、イヤリングを送ってくださってありがとうございます」
「ああ、とても良く似合っているな」
ルーカスは満足そうにエヴァの耳元を眺めた。
ぼんやりとしたまま、エヴァはルーカスの端正な顔を下からじっと見つめる。
「どうした?」
「もう会えないと思っていたので、ルーカス様にもう一度お会いできて嬉しいです」
柔らかく微笑んだエヴァはそのままぷっつりと意識を失った。




