1-4 地底の叫び
「おい、警報が鳴っているぞ! 所長、何が起きているんだ!
あ、照明が消えたぞ! 皆落ち着け!
まずは全員ヘルメットと懐中電灯を出して装備しろ!」
「教授、まずはあなたが落ち着いてください。 私たちは大丈夫ですから」
深い山の中での停電は、人々に大きな恐怖心を抱かせる。
「所長! これは外部からの給電が落ちた事を知らせる警報が鳴っています。
今確認しましたが、観測機器はバッテリーの1次補助電源に切り替わっておりますので問題ありません。
まもなく自家発電機が動き出すはずですので、照明も発電機の2次電源に切り替わって復旧するはずです」
もう一人の職員が、所長に現在の状況を知らせた。
「坑内の換気はどうなっている? ん? 坑外にある送風ファンが停まったか……
ということは、新鮮な空気は取り込めていないな」
この観測施設を管理している所長は、通気パイプから換気音が聞こえなくなった事に気が付き、電源が坑内にある発電機に切り替わった事で、ここがやがて酸欠になる事を心配していた。
この施設は、坑道外部にある送風機から坑道を通した通気パイプにより、坑内の一番奥にあるこの施設に新鮮な空気を吹き出している。
この施設を空気で加圧する事で、坑道を通して外部に排気が行われるように設計されている。
従って、外にある送風ファンが停止すると空気の循環が止まり、人間が出す二酸化炭素や非常用の発電機の排気ガスが施設内に滞留してしまう。
いつもであれば2名しかいないこのコントロールルームであるが、今日は東京の大学から教授とゼミの学生が何人も観測員として来ており、そのお客さんにより、いつもより多くの酸素を消費し、二酸化炭素が排出されている。
普段であれば、これくらい人が増えても全く問題ないはずであるが、今回は初めて非常用発電機が動くと言う停電状態であり、所長はお客さんの事を心配していた。
「外の事務棟との連絡はまだつかないのか?
観測装置は正常に動いているし、今すぐに危険と言うことは無いと思うが、この状態が続くと健康上良くないので、全員避難できる準備を始めてくれ」
ここは、岐阜県飛騨市の山奥、神野町の山の中にある施設。
宇宙から降り注ぐ素粒子であるニュートリノを視覚化し、壮大な宇宙での出来事までをも観測しようという、地下深くに作られた施設、カミノマンダラである。
そこは鉱山の深いトンネルの奥にあった跡地を利用し、その鉱山の奥に巨大な水槽を作り上げ、宇宙から飛来する素粒子であるニュートリノを観測する施設だ。
山の奥深くの地下にあるのに、ここはなんと宇宙観測の最先端施設なのだ。
ここの地形を立体的な空間として見ると、この施設は山の中心となる位置に作られている。
確かにここは山の頂上である地上からは1kmの深さの地底深くとはなるが、実際には山裾にある坑道入り口から山の中をほぼ水平に移動しているだけで、地表となる山の高さの方がどんどん上に昇っている。
この山の中心から全方位を見ると、そこは山の土の中に1km以上潜った場所。 山と言う巨大な帽子をかぶり、施設はその帽子の中心に閉じ込められた状態だ。
そして、その頭にかぶっている山の土石や岩盤が重要で、それらはニュートリノ以外の宇宙線を減衰させるフィルターとなっている。
宇宙から降り注いだ非常に小さな素粒子であるニュートリノは、それ自体は電荷を持たないため、物質の原子空間を通過する際でも、原子の持つ電気的引力の影響を受けない。
進行線上に、偶然他の原子がない限り、ニュートリノはそのまま物質の中を素通りして行く。
例えるならば、宇宙空間に浮かぶ大きな星を通り抜けていく、とても小さな彗星みたいなものだ。
ニュートリノ以外の電荷をもつ宇宙線は、物質の中を通過する際、他の原子と電気的引力が作用し引き寄せられて衝突する。
山の表面から1km以上ある岩盤や土砂の層を通過していく事で、ニュートリノ以外は途中に存在する原子と衝突を起こす可能性が非常に高く、山の地下深くに有る観測施設に到達するまでに宇宙線は激減している。
先ほどの例であれば、彗星に星の引力が影響するのであれば、星の空間を通過する際に、いずれどこかの星の引力圏につかまり衝突してしまう。
施設の観測槽のタンクで使用される水は、施設内の濾過装置で作られた不純物を限りなく濾過した超純水が用いられている。
観測施設にまで到達したニュートリノは、その観測槽の大量の水の中を進行中、経路上にある水の原子核に偶然に衝突すると、ニュートリノはそこで荷電粒子を放出し、光を発し分解する。
放射線と衝突する際に発光する特性を持つ物質はシンチレーターと呼ばれる。
病院にあるレントゲン装置は、X線によってレントゲン写真が写っているわけではなく、写真乾板に塗布されたり、重ねられたシンチレータが発する光でレントゲン写真を感光させている。
近年では感光フィルムを使わずに電子乾板を用い、直接その光の量を電子量に変換している。
水をシンチレータとした時、荷電粒子との衝突で発せられるエネルギー波は青い光の波長となり、それはチェレンコフ光と呼ばれている。
原子炉で見られる、あの青い光こそがチェレンコフ光だ。
ウランなどの核燃料から放出される放射能が、周りの冷却水の原子と衝突して青い光が発せられている。
ニュートリノの通過により観測槽に青い光が発生した際、水の周囲に配置した大量の超高感度光センサにより、その一瞬発せられる弱く青い光の明るさを観測している。
もし通過途中で水の原子核にぶつからないと、ニュートリノはそのまま観測槽を通り抜け、場合によってはそのまま地球をも透過してしまう可能性すらある。
ニュートリノが水の原子核に衝突する確率をすこしでも高くするために、なるべく大量の超純水の中を通過させている。
また、ニュートリノが衝突を起こし、僅かな光が発せられても、それはほんの一瞬で消えていくので、それを人の目で正確に観測する事は不可能である。
その一瞬のチェレンコフ光は、極限まで感度を高められた、光センサの一種である光電子倍増管により観測している。
真空管センサである光電子倍増管は、それ自体では単に入射する光の強弱しかわからない。
それを巨大な水槽の内面に隙間なく並べることで、水槽内で発光する位置を立体的・連続的に計算し、宇宙空間のどの方向からニュートリノが飛んできているのかを調べることが出来る。
カミノマンダラは、ニュートリノしか入ってこない場所に置かれた、放射線を見ることが出来る巨大な霧箱のような装置である。
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今回、異常な太陽活動発生の知らせを受け、太陽から発せられた太陽風が到着する際、どのような挙動や現象が発生するのか観測する為に、コントロールルームでは観測作業の真っ最中であった。
この施設の所有者である東京の大学からは、担当教授やその生徒が観測員としてやって来ている。
太陽風が地球に近づくと、この施設にも地球の裏側からのニュートリノが届き始め、ニュートリノの到来がセンサ観測データとして、何台か設置されている壁の大型モニタに表示されていた。
巨大な観測水槽は、坑道よりも低い高さに作られている。
もし、何かの原因で巨大水槽が崩壊した場合でも、タンクが坑道より低いことで、水が坑道に溢れださないように配慮してある。
タンクを排水する場合も、ポンプで吸い上げて配管を通じて外に排出できるように設計されている。
これだけ大量の水が坑道内に一気に放出されると、施設や坑道にいた人はまず助からない。
巨大水槽に取り付けられたセンサのデータは、通信により坑外に作られた施設のデータ記録サーバで蓄積され、さらに東京の大学の研究室に送られ、リアルタイムにデータ解析されている。
観測中に異常が検出された場合であっても、いつでも装置の点検や緊急のメンテナンスなどが行えるように、水槽の上に設置されたコントロールルームではモニタリング作業を行っている。
なので、こんな山の中にまで教授たちがわざわざやって来る必要はないのだが... と所長は思っていた。
そして、なぜ先ほど教授が焦っていたかと言うと、坑道の外に設置されているデータ記録サーバとの通信が途絶えたからだ。
全体的な記録は膨大な量となる為に、坑内では解析は行わずに、外のデータサーバで行っている。
短時間であれば、坑内の一次キャッシュサーバにバッファリングすることが出来るが、今記録中の最大サンプリングレートではすぐにログデータが溢れてしまう事になる。
今回は、これまでに経験したことが無い太陽活動の発生ということなので、絶対に連続したデータ記録を途中で止めたくなかったのだ。
ここの施設はこの教授が指示して設計されたもので、何重にも電源バックアップ体制が取られており、いかなる場合であっても観測機器を停電させないように作られていた。
今回のように世界中で注目を浴びている現象のデータ観測の失敗は、国から受けている補助金である巨大な研究費の存在に疑義を生むことになる。
ここのデータは連続性こそが重要であり、一部でも記録喪失が混ざってしまうと、長い時間をかけて行ってきたこれまでの観測の信頼性を失ってしまう。
観測中であるので施設内は少し薄暗くしてあり、そこに警報の強い赤い光の点滅と耳障りな警報音は神経を逆なでする。
人に不快感を与えて注意を促すことが警報の本質なので、まあそれはいたしかたない。
巨大な観測水槽の内側の壁には、弱い光を電子的に増感する巨大な光電子倍増管が隙間なく配置され、観測水槽は外部から余計な光が入らないように密閉されている。
観測水槽の内部のセンサに対して、コントロールルームの室内の明かりは影響ないのだが、観測中は念のためになるべく暗くしている。 気分かな?
室内照明は自家発電に切り替わっているのでそれなりに明るい。
しかし、このまま換気が止まっている場合、避難と言う事になりそうなので、観測机の下にしまわれていたヘルメットを取り出し、そこに装備してある懐中電灯のスイッチを入れライトの確認を行う。
点灯確認したライトをいったん消して、全員ヘルメットをかぶったまま観測が続けられている。
停電から1時間近く経過するが、非常用発電機は低い騒音をたてながら回り続けているので、未だに停電は復旧しないようだ。
原因は不明ではあるが、これだけ長時間停電すると言う事は、何かが外で起きていることは確かだ。
たとえ電力会社からの電源が停電したとしても、外の施設には坑内よりも大型の非常用発電機が据え付けられているので、坑内が長時間停電するとは考えられないからだ。
モニタを必死で見つめる教授には申し訳ないが、現場責任者の所長としては、これ以上電気の復旧は待たずに、生命優先として全員退避する事を決定した。
「外部との連絡はまだ復旧していないな?!
発電機が動き出して既に1時間くらいに経過するので、現在観測室内の酸素濃度の低下とともに、二酸化炭素が増加が表示されているな!
教授! 計測は発電機が停まるまで、このまま自動で続けられますので、外部からの空気が停まった状態では、坑内の安全性は保障されませんから、とりあえず人間は避難します。
では、これより非常避難を宣言し、脱出行動を実行します。
皆そろっているか点呼! 全員、坑内バスが停まっているピットにまで移動してくれ。
では、全員坑外へ脱出するまでヘルメットを装着の上、ヘッドライトを点灯しろ!」
坑内に有る発電機からは、観測ルームと観測に必要な機器にしか供給されていない。
観測に直接関係がない坑道内の照明は、非常発電機に切り替わっても暗いままである。
照明用に光量が高いLEDは消えているが、供給電源が切れたことで内蔵された非常用LEDが光っており、小さな光は出口の方向を点々と示している。
ヘルメットにライトもあり、壁の非常用LEDをたどることで、ピットまでなんとか坑道を歩いて行く事が出来そうだ。
「さらば! 私の施設よ、また会う日まで!」
「教授、感傷は後にして、今は急いでください」
「所長、ちょっと待ってくれ。 いま施設のエマージェンシーレベルをS対応に変更したから。
よし、これでいいだろう」
「教授、何ですかそのレベルは。
施設管理者として、私はそんな対応レベルの事は聞いていませんが」
教授は答えてくれそうにないし、答えを待っている時間すら惜しいので、教授を引っ張って全員避難へと移って行った。
坑道の坂道を上ると、広場にあるピットに、2台の車両が止められていた。
9人乗りの2台のバンに分乗し、所長と施設職員が2台の専用バンを運転して、全員が出口を向けて避難を行う。
本来であればトンネル自体が奥から加圧されており、排気ガスは少しずつ外に排出されるのでガソリン車でも問題ないと思うのだが、ここの車は排ガスが出ない、電気だけで走る専用EVミニバンだ。
外に向けてバンが走り出すと、途中から壁にある非常用のLEDすら切れてしまっている。
非常LEDを壁の位置として見て、それに沿って走っていたので、バンのライトだけでは黒い壁は見づらくなっていた。
完全に非常LEDが消えてしまったため、黒い壁は見づらく、速度を落としながらバンは走り続けた。
前方から救援の人が入ってきているかもしれないので、注意を促すために、時折クラクションを鳴らしながらバンは走っていく。
硬い壁で反響し、暗い坑道の中を長く響き続けるクラクションは、亡霊の叫び声のようにも聞こえ、とても物悲しく聞こえる。
出口に近づくと思われるので、さらに速度を落とし、ゆっくりと走り続けた。