第五章 10 忘れることなんて
真魚ちゃんから聞いた、彼女が「目を閉じた」理由。
それは、いじめを受けていたこと。
そして、それが原因で人間不信になってしまっていたこと。
このようなことをわたしたちに言うのは、きっとものすごい勇気が必要だったんだろう。
そしてわたしたちは、更に真魚ちゃんの出生を探るために、彼女の生まれた隣町の病院へ行くことになった。
「いったん、水谷さんのところに戻りましょう。しばらく戻らないことも予想できるから、何日かいなくなるかもしれないことも伝えましょうか」
「そうだね、それに……わたしもちょっと疲れちゃった」
まだ夕方、日が沈む時間でもないとはいえ、今から向かうには流石に遅い。それに、かなりの距離を歩き続けたことで、身体はすっかり疲労していた。
日が沈み始める道を歩く。見慣れないはずだった町並みが、すっかり自分達の住む町の町並みだと思え始めてきている。
この町にいるのはあくまで一時的なことだし、ずっと住むわけじゃない。それでも自分の中で、この町が「自分達の町」になりつつある。
リアさんやリリスさんにとっては、神楽坂町だって自分達の故郷ではないだろう。でも、わたしがあそこを離れる時には、まるで自分達の故郷を離れるような顔をしていた。
神楽坂町に住んでいたことが、家族といたことが、だんだん過去の出来事になってきている。
何だか、少しだけ怖いな、と思ってしまった。それと同時に、わたしの中にある感情が芽生え始める。
「……お家に、帰りたい」
気づけば、わたしの頬には涙が伝っていた。
「どうかしたの?」
「わたし……怖いんだ。自分の故郷を忘れちゃうのが。あそこに住んでたことが、過去のことになっちゃうのが」
「……私たちも最初はそうだったわ。何度も旅を繰り返す間に、住んでいた国に帰れないことに絶望したりもした」
「リアさんもなの?」
「私にはパートナーがいたから。何年も前の話だけれどね。……彼女のことを忘れるのが怖かった。でも、私は忘れることができなかった」
パートナー。その存在は、初めて聞いたような気がする。
「…忘れることなんて、簡単にできないのよ。たとえ忘れたいと思ってもね」
そう言った後、リアさんは顔を伏せて。それ以上は何も語ることがなかった。
少しだけほっとしたけれど、それと同時に何かモヤモヤするような感情も浮かんだ。
「あの口下手は。まさかそのことも話していなかったのですか」
「そのこと?」
「前にパートナーがいたことですよ。とっくに話しているものかと思っていましたよ」
「芽衣は芽衣だもの。わざわざ話すことはないという判断よ」
「本当にあなたという人は。人の心がわからないというわけではないのですけどね、元々こういう性格だから気にしなくても良いですよ」
「あー、うん……そういうことじゃなくって……」
前のパートナーの存在が、気になって仕方ない。しかも、彼女はそのパートナーのことを忘れられないと言っていた。
結局、今のわたしの存在って、リアさんにとってはなんなんだろう?
新たなモヤモヤとした感情が、胸の中に渦巻き始めた。
水谷さんのところに戻ると、わたしはそのまま畳の上に寝転がって起き上がれなくなってしまった。
「芽衣さん、もしかしてお疲れですか?」
「うん……そうみたい。わたしインドアだから、あんまり体力ないみたいで」
「身体能力は上がっても、なかなか体力まではつきませんからね。油断してその結果動けなくなった吸血鬼も多いそうですよ」
「あはは……多いんだ……」
「とにかく今日は休んでください。晩御飯は食べられそうですか?」
「うーん……ちょっとだけなら。流石に食べないっていうのは悪いかな、って思うし」
「そうですね。ではわたくしはこれからお風呂をいただくので、芽衣さんはゆっくりしてください。でも眠らないようには気を付けてくださいね」
「うん……ありがとね」
とは言っても、正直今すぐにでも眠ってしまいそうというのが、本音なのだった。
ぱちっ、と目を開く。
言われていたのに、うっかり目を閉じて眠ってしまっていたみたいだ。
スマートフォンの時計には、「21:00」と表示されてる。帰ってきたのが大体18時くらいだから……
「もしかして…3時間くらい…寝てた……!?」
「あら……おはよう」
いくら疲れてるといってもこんなに寝てしまうのは自分でも予想外だった。
ぼんやりとしていた意識が覚醒してくる。目の前にはわたしを愛おしそうに見つめるリアさんの姿が。
「起きるまで見守っていたのよ。あまりにも気持ち良さそうに眠るものだからつい、ね」
「それなら起こしてよーー……」
ところで。少しだけ気になったことがある。
「なんだか、吸血鬼になってからうっかり寝ちゃうことが増えたんだけど……これって皆そうなの?」
「そんなことはないわ。ただ半吸血鬼の場合、身体能力が体力についていかなくてうっかり疲れが溜まってしまうことはあるみたいね」
「そうなんだ……今日うっかり動きすぎちゃったかなぁ」
「そこまで六月さんのことをどうにかしたいと思っていたのね」
「……うん。藍さんみたいなことにはなって欲しくないし、それに。ここで出来た友達だから」
「そう。なんだか少し羨ましくなるわね」
少し羨ましい、そう言ったリアさんの表情は、よく読み取れなかった。偶然、長い前髪が彼女の顔を覆っていたからだろうか。
「そうだ、後でリリスが夕食を持ってきてくれるそうだから、食べ終わったら綾香さんのところまで持っていって」
「うん、わかった」
この時間になっても、まだ待っていてくれたんだ。
窓から見える景色には、うっすらと月が浮かんでいた。
だいぶ細いけれど、それでもぼんやりと光を放つ月が。
改めてその月を見つめる。そういえば、あの夜。わたしが一度"命を落とした"夜には、大きな月が出ていたような覚えがある。
皮肉なほどにきれいで、赤黒い血にまみれた自分の姿も、地べたに晒してしまうような光を放っていた。
思えば、本当に遠くに来てしまったと思う。あまりにも、失ったものが多かったとも思う。
真魚ちゃんには、せめてまた目を開けるようになってほしいと、欠けた月を見ながら、わたしは強く思った。




