第二章 1 わたしの日常は少しだけ変わった
6月の下旬、毎日雨が降り続け、道には紫陽花が咲くこの頃。
じめじめと湿った空気が全く嫌というわけではないけれど、この頃にしか見られない景色というものもある。
それに、雨の音の中で本を読むのは好きだ。何より……。
「(陽が射してないのは、楽なんだよね…)」
そう、心の中でひっそりと呟く。
わたし、咲坂芽衣は"吸血鬼"だ。正確には、吸血鬼から血を与えられて半分吸血鬼化した存在らしい。
2週間近く前、わたしは目の覚めるような出来事を経験した。
突然、何者かに襲われて、殺されてしまったこと。
とてもきれいな人に、助けられて"吸血鬼になった"こと。
他にも色々あったけれど、全ての思い出が鮮明に思い出せるほどに頭に焼き付く出来事だった。
吸血鬼になって、わかったことがいくつかある。
まず、定期的に吸血の衝動には襲われるものの、それを抑える手段はある、ということ。
けれど、時々急に喉が渇くような感覚には、まだ慣れない。
サプリメントを飲めば済むと言われても、もしそれがなかったら…なんてことを考えてしまうと、やっぱり少しだけ不安になってしまう。
次に、日光は意外と平気だ。そんな、よく言われるような「日光を浴びると灰になる」なんてことはない。
けれど、あまりに日差しが強いと肌が焼けてしまうような感覚に襲われることはあるから、やっぱり少し日光は苦手なのかもしれない。
あと、昼間少しだけ眠くなることが増えた気がする。
反対に、夜はついつい目が覚めちゃうから、ついつい寝るのが遅くなっちゃうことがあって、これが意外と大変。
いくら吸血鬼といっても、睡眠はとっていないとやっぱり動けなくなるらしい。
あれから、わたしの日常は少しだけ変わった。
逆に言えば、ほんの少ししか変わらなかった。でも……。
今、動いているこの心臓は。動かしている手足は、景色を見ている目は、音を聞いている耳は。
本当は、もう動かなくなっているようなものなのかもしれない。
わたしのことを助けてくれた、わたしに命をくれた『その人』に、今日もありがとうと心の中で呟きながら、わたしは日常を送っている。
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大きなテーブルを囲みながら、わたしに向き合うように座る女の人が2人。
2人とも、わたしなんかではとても及ばないほどに綺麗な人だ。
一人は腰まで届くほどの長い髪を揺らしながら、見ていると吸い込まれそうな真紅の瞳でわたしの方を見つめている。
もう一人は、少しウェーブのかかった金色の髪を手で弄りながら、ブックカバーをつけた文庫本に目を通していた。
わたしの命の恩人である"吸血鬼"と、わたしのことを何かと助けてくれる"吸血鬼"。
もし、今までのように生活していたら、こうやって一緒に同じ部屋で話をすることなんて絶対になかっただろう。
「キマツテスト?」
「この国の学生が最も憂鬱になるものらしいですよ。わたくしは学校というものに通ったことはないですから詳細までは知りませんが」
「芽衣、キマツテストとは一体何なのかしら?」
赤い髪の吸血鬼…カメリアさん…わたしはリアさんと呼んでいるその人が、覗き込むようにしてわたしの方に顔を近づけた。
自分の顔が火照っていっているのを感じる。顔が、顔が近い……
「えーっとね……簡単に言うと、今まで勉強して学んだこととか、覚えた言葉とか、そういうのをどれだけ持ってるのか、チェックされちゃう…っていう行事…かな?」
「面倒なことをするものね」
一見、冷淡な反応を返すリアさん。
自分も火照っていた顔の温度が、もとに戻ったような気がするけど、リアさんはこういう人、人…と言っていいのかな?だった。
「しかし…それにしても」
金髪の吸血鬼…リリスさんが本を読む手を止め、口を開く。
「まさかわたくしの家が、芽衣さんの勉強部屋として使われてしまうことになるとは。何があるかわかったものではありませんね」
「あはは…だってここ、結構落ち着くし。それにわたしの部屋、どうしても誘惑が多くって…」
「別に構わないですよ。何百年も生きていると正直退屈することも多いので。吸血鬼でもにぎやかな方が嬉しいものですよ?」
わたしたちは普段、別々の場所で生活している。
リアさんは高層マンションの上の階に1人で、わたしは2階建ての一軒家に、妹の葉月ちゃん、お母さんと一緒に。
そして、リリスさんは1階建ての小さな民家に、いつも1人で住んでいるらしい。
本棚と簡素な家具が置かれているだけのこの家は、確かにずっと住んでいると「退屈」しそうだな、と、少しだけ思う。
「そういえば、リリスさんって今何読んでるの?」
「今ですか…そうですね。少しこの国の人間が何を考えているか、
というのを本から読み取ろうかなと。芽衣さんは「新書」というのを読んだことはありますか?」
「新書…お父さんの部屋にあったのを、ちょっと読んだくらいかな?」
何となく手が出しにくい…というか、高校生が読むものじゃないような気がしたので、
実はちょっと読んだくらいでやめているのは、リリスさんには秘密にしておこう。
「あなたのお歳には少し早いかもしれませんが、意外と面白いですよ。今読んでいるのは『賢い人間はこうやって生きる バカにならない30の方法』というタイトルですね」
「あはは……」
インパクトのすごいタイトルに、思わず苦笑い。ものすごく言い切るタイトルだなぁ……。
「意外と正鵠を射ているようなことも書いてありますが、これを書いた人は随分と良い性格をしているような気がしますね。
特に、『強い人間には出来るだけ媚を売れ』なんて、そもそも『媚を売る』という言い方が随分と口が悪くてお育ちがお察しです。」
「そういう視点でその本を読んでいるあなたも大概だと思うのだけど」
「うるさいですよリア。こういう本は話半分に読んで、参考にする部分以外は笑い飛ばすというのが賢い使い方です。」
多分そういう本を読んだとしても、わたしはそういう視点では見ることはない気がする。
「…そういえば芽衣。借りた小説、それなりに楽しめたわ。返すわね」
リアさんが1冊の本をわたしに手渡してきた。一人の若者が旅に出て、その間に自分のしたいこと、やりたいことを見つけに行く、というファンタジー小説だ。
時々、リアさんはわたしの読んでいるような本に興味を持って、こうやって何冊か貸しているのだ。
彼女の好みはまだよくわからないけれど、いつも楽しんでくれたらいいな、という形で、こうやって物語のおすそ分けをする。
「ありがとう!後でまた感想聞かせて」
「そうね。ただ1つだけ気になった所があるのよ」
突如、穏やかだった視線が鋭くなる。もしかして、何か気に入らない所でもあったのかな…?
「主人公が自己犠牲という選択肢を取ったことに、私は納得がいってない。そこ以外は面白かったわ」
「自己犠牲…?もしかして、自分の命をかけて、最後の魔法を使って封印されていたドラゴンを倒した場面かな?」
その小説では、主人公は人々を救うために持てる力の全てを使い、最後の敵であるドラゴンを倒すことになる。
力を全て使い切っては主人公は死んでしまう。何とかヒロインのおかげで主人公は助かったけど、一歩間違えば死んでしまうような場面だった。
「自分が死ぬことで全てが解決する、なら死ぬ道を選ぶ、なんていうのは無駄なことよ。生きていなければ人は誰かを幸せにすることは出来ない。
誰かの為に死ぬなんていうことは、その後の責任を負いたくないための逃避でしかないわ」
そう話すリアさんの眼差しは、とても真剣だった。たとえ小説の登場人物であっても、見過ごせない何かがあったように、見えた。
「でも、最後主人公は助かったから、もしかしたら助かる道、っていうのを考えてたのかなぁ、って」
「だとするならば、彼は相当賢い人物ね。けれど、私にはそうは見えなかったわ」
「そっか……でも、ありがとね。リアさんがそこまで真剣に読んでくれたの、すっごく嬉しいよ」
昔から、わたしは本を読むのが好きだった。それ以外に興味がないんじゃないか、って言われるくらいだったわたしは、時折孤立することだってあった。
だから、こうやって同じものを読める人が増えるのは、とっても嬉しい。
「それにしても……」
リリスさんが読んでいた本を閉じ、リアさんの方を見る。
「リアも随分変わりましたね。前は人間が考えた空想なんて興味ないわ。なんて言っていたのに」
「その話は芽衣の前ではやめなさい」
妙に似ている物真似の後に、リアさんが肩をすくめて顔を赤くしたのが見えた。
「そもそも、芽衣がこうして私に本を貸してくれているのだから、真剣に読まなければそれは失礼というものよ。そのくらいは考えて頂戴」
「はいはい。恋は盲目というものですか。遅めの青春を過ごせているようで何より」
「リリスっ!!」
そう叫んだ彼女の目には涙が溜まっていたように見えた。もしかして、この人はわたしが思うよりちょっと……随分と可愛らしい人なんじゃ?
「芽衣さんもありがとうございます。わたくしも芽衣さんがいてくれたおかげで毎日が賑やかになりましたから。」
「わたしに…ですか?」
「ええ。ですから……リアのことをこれからもよろしくお願いしますね。
ちょっぴり強情ですけど、積極的に人に危害を加えるような吸血鬼ではないので」
リリスさんはそう言って、わたしに笑いかけてくれた。
最初に彼女を見たときは、どこか遠い世界の、それこそ物語の中にしかいないような人だと思った。
けれど、それはもしかしたら大きな間違いで、でも、考えてみれば当然のことだ。
"吸血鬼"であってもあるいは別の亜人であっても、わたしたちと同じように思い悩み、生きているんだ。
そう思いながら、また帰路につく。
いつものように晩御飯を食べ、いつものようにまた眠って朝を待つ。
変わらぬ日常が、これからも続くと信じて。




