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 その日はそのままキース・ビー警部補がヒューとエドガーを借り受け、用を頼んだということでテレグラフ・エージェンシー社に欠勤届を出してくれた。

 が、翌日もヒュー・バードは出社しなかった。エドガーは初めて一番走者の位置で配達をしてチップとプレミアム便のボーナスを独占した。

 その次の日。出社時刻よりずっと早くエドガーはヒューを誘いにソーホーのヒューの自宅へやって来た。いつもとは逆のパターンだ。

 ノッカーなどついていない、元厩舎を改築した小屋の一階。名を呼んでドアを叩くとくぐもったヒューの声が返って来た。

「鍵は掛けていない。入って来いよ」

 ヒューは居間の大きなテーブルで本を読んでいた。

 制服を着ていないヒューはひどく大人っぽく見えた。エドガーの全く知らない誰かに見える。また遠くへ行ってしまったのか。エドガーは悲しくて胸が張り裂けそうになった。あの背中をせっかくここまで追いかけて来たのに。漸く追いつけそうだったのに。

 その上、制服を着ていないヒューは退廃的で酷薄で悪辣で妖艶で――兎に角、こんなのは良くない、全然気に食わない。

「早く用意をしろよ、ヒュー」

 何のことはない。いつもはヒューがエドガーに言うセリフだ。だが立場が入れ替わった、それだけで棘のようにヒリヒリして響く。

「聞いてるのか? 早く制服に着替えろよ」

 のろのろとヒューは本から頭を上げた。

「よう、エド。良かったな、昨日はチップもボーナスもたっぷり獲得できたろう? これからは毎日そうなるぜ。俺はもうテレグラフ・エージェンシーは辞めるから。メッセンジャーボーイとはおさらばだ」

 低い声で言った。

「一番走者はおまえに譲る。可愛い妹のためにも、うんと稼げよ、エド」

「譲られるなんてまっぴらだ!」

 両足を踏ん張ってエドガーは叫んだ。

「何度言わせる。僕は堂々と君を破って勝ち取ってやるつもりだ。それとも、ホントは怖いのか? 僕に追い抜かれるのが? だからその前に尻尾を巻いて退散か?」

 ヒューの顔が強張(こわば)る。

「なんだと?」

「君がこんなに弱虫の根性無しだとは知らなかった。たった一度謎を外しただけで泣きべそかいて、弱音を吐いてお外へはもう出たくないよ~とはね」

「おい、エド、誰に向かって言ってるんだ? まさか、おまえ、本気で、俺にそんな口をきいてるのか?」

「だって、本当のことだろ。見損なったぜ、ヒュー」

 息も継がずにエドガーは一気に言った。

「君のお父さんは全身全霊を掛けて若妻と小さな娘を地獄から救い出したんだろ? その息子の君だって――いや、君だからこそ、君ならできる! 今現在苦しんでいる娘たちを助け出すために全力を出せ!」

 椅子の背に背中を預けてヒューは肩を竦めた。

「俺には無理だよ。つくづく思い知った。自分の限界や現実ってやつをな。だいたいメッセンジャーボーイ風情に何ができる?」

 暗く微笑んで、

「ほらな、これが大人になるってことさ、エド。半ズボンをはくのを止める時が来たんだ。テレグラフ・エージェンシーの制服はもう俺には似合わない。潮時だ。俺は卒業する」

「それが泣き言だと言ってるんだ! ヒュー、忘れたのか? 大人になっても未だトンビ(インバネスコート)を着て鹿撃ち帽(ディアストーカー)を被ってる人もいるんだぞ! 憧れのヒーローになるのを諦めないキース・ビー警部補は、泣き言は言っていない」

 もう止まらない。考えるより先に言葉が口から(ほとばし)る。

「弱虫ヒューめ。いいとも、これから先、一生部屋に閉じ籠ってエルダーフラワーの木の皮でも燃やしていろよ」

「おい、それはどういう意味だ?」

「あの木の皮を燃やすと悪魔が見えるんだろう? 最高に素敵だな! 弱虫で腑抜けの君にお似合いだ。ローラースケートを捨ててじっと座っておとぎ話に従っていればいいや。今回の娘たちを連れ去った悪魔の正体も見えるかもしれないぜ」

「言いやがったな、チビの癖に! 誰が弱虫で根性無しで腑抜けだ?」

五月蠅(うるさ)い! ちょっとばかり背が低くても弱虫よりはましだ!」

 次の瞬間、ヒューが飛びかかって来た。胸倉を掴まれて床に引き倒されるエドガー。だが、負けていない。持ち前の俊敏さで一回転して上を取る。組み敷かれたヒューの、下からの容赦ないパンチが炸裂して横面を(したた)かに張られた。エドガーも遠慮なく殴り返した。

 結局、メッセンジャーボーイである以前に両方とも生粋のロンドンっ子なのだ。二人は盛大にそれを証明した。売られた喧嘩は買う。相手が音を上げるまで締め上げ、とことん殴り合う――

「きゃあー! 何やってるの、あなたたち!?」

 突然の悲鳴。

「やめなさい! なんてこと? 信じられない」

 絶叫の主は姉アンジーだった。腕にかけていた籠を床に置いて駆け寄る。

「私の弟とその友人は紳士だと思ってたのに……喧嘩なんて! こんな野蛮な真似をするなんて!」

 弟と友人は秒速で相手を放し、立ち上がった。

「ご、誤解です、アンジー。僕たち、喧嘩なんてしていません」

「そ、そうさ、これは、そう」

 ヒューは目をキョロつかせて、

「悪魔払いのやり方を実演して見せてただけだよ。エドがどうしても知りたいって言うから。こんな風に殴らないと体に憑りついた悪魔は消え失せない――」

「そうなんです。断じて喧嘩じゃありません。ヒューは僕のかけがえのない大親友ですっ」

「そうなの? 嫌だ、脅かさないでよ。私はてっきり殴り合ってるのかと思ったわ」

 姉は安堵の息を吐いた。

「そうよね、あなたたちが――私の弟と親友がお互いに暴力を振るうわけないわよね?」

 澄んだ瞳、天国の青(ヘヴンリー・ブルー)がまっすぐに少年たちを見つめている。

「相手が男だろうと女だろうと、人を殴るなんて最低の行為よ」

 恥ずかしくて消えてしまいたくなる二人。なんとか話題を変えようとヒューは試みた。

「それはそうと、今日は何の用さ、姉さん?」

「そうだった、最高のお土産よ! 見て、この間の写真が出来上がったの!」

 アンジーの顔がパッと輝く。

「私、待ちきれなくて写真館に毎日覗きに行ってたの。そしたら、今日、仕上がったって渡してくれたわ。勿論、ヒューの分ももらって来たわよ、ほら!」

 いつもは奥様特製のお菓子が入っている籠からポートレートを取り出すアンジー。

「素晴らしい出来(でき)よ。皆、よく写ってる……ウフフ、私、来る途中で何度も足を止めて見入ってしまったわ」

「忘れてた、あの偽フランス人の写真館の写真、もう出来上がったのか」

「僕の分まで取って来てくれて、ありがとうございます、アンジー」

 美しく装丁された二冊のポートレート……!

装丁(カバー)もこの色を選んで正解ね! 凄く華やかで高級感に溢れてる。何処に出しても恥ずかしくない、それこそ、百年後の人たちに見せても胸を張れるわ」

 アンジーは薔薇色のポートレートを抱きしめた。

「そりゃ、サマセット家のお嬢様たちみたいに本革ではないけれど、布張りで充分、最高よ! 一生の宝物になったわ!」

 次にアンジーはエドガーをポートレート同様にギュッと抱きしめた。

「ありがとう、エドガー。あなたが言い出してくれたおかげよ。あなたが提案してくれなきゃ、私たちはこんな素敵な写真を持つことはできなかった!」

「え、いえ、そんな、僕……」

 おかしい、アンジーの抱擁はヒューの殴打(パンチ)より破壊力がある。エドガーはクラクラした。

 気絶寸前のエドガーを放してアンジーはそそくさと言う。

「じゃ、私は帰るわ。今日は、お屋敷をこっそり抜け出したから長居できないの、ごきげんよう!」

 ドアの前でアンジーは一度だけ振り返った。指を振って、

「いいこと? 二人とも、喧嘩はダ・メ・よ」


「と言うわけで――一時休戦だ」

 ブスっとしてヒュー。それを受けてエドガー、

「OK、アンジーほど美味しくはないだろうけど、お茶を淹れて来るよ」

 エドガーがお茶を持って戻るとヒューはテーブルの上にポートレートを置いてじっと見入っていた。正確に言うと、閉じたままのポートレートを。

「どうかしたの? 写りが気に入らない?」

「違う」

「だったら、開いて中を見なきゃ。なんたってポートレートの本命は中身の写真だもの。外側を撫でても何にもならないぜ」

「おまえ、さっき言ったよな?」

 ヒューの声は冴え冴えとしていた。


 ―― エルダーフラワーの木の皮を燃やしてみるかい?

   言い伝えでは悪魔が見えるんだろ? 今回の娘たちを拉致した悪魔の正体(かお)が見えるかもしれないぞ。


「あー、あれ? も、勿論冗談だよ。と言うか、あの時はカッカッしてたから、売り言葉に買い言葉ってヤツ」

 自分の吐いた罵詈雑言を思い出してエドガーは慌てた。ここは潔く頭を下げる。

「でも、悪かった。僕は言い過ぎた、謝るよ、ゴメン、ヒュー」

「怒ってなんかいない。いや、むしろよく考えたら、おまえの指摘は的を射てる」

「え?」

 お茶には手も出さずヒューは制服を着始めた。

「な、なんだかわからないけど、でも、やっとその気になったんだね、良かった! 君が仕事に復帰してくれて嬉しいよ!」

 先刻とは別人のようにテキパキと指示を飛ばすヒュー・バード。

「おまえの家用のポートレートはここに置いとくといい。預かっておくよ。今は一刻を争う。出社前に寄りたい処があるんだ」

「じゃ、そうする。せっかくの宝物を持ち歩いて()くしたくないものね」

 ローラースケートを肩に、颯爽と風を切ってヒューは玄関から飛び出した。

「グズグズするな、行くぞ、エド!」

 こうして――

 ヒューが(あわ)ただしく向かった先は意外な場所だった。



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