二十七 追憶
結構重めの回想です。
アウリール・ロゼッテはマレの神官の家に生を受けた。
物心ついた時から、アウリールは医術に興味を持っていた。
都市から遠く離れた、医師もいないような地方の神官には、医術の知識も必要だった。患者に治療を施す父の仕事ぶりを見たり、家にあった医学書に目を通していたことが、アウリールの将来を決定づけた。
アウリールは王都の医科大学に入学し、次席で卒業した。そして、二十歳の若さで第二王子の侍医に抜擢されるという栄誉を得た。
しかし、宮廷に上がったアウリールを待っていたのは、人形のように美しいが、誰にも心を開かない、冷めた目をした少年――当時九歳の第二王子シュツェルツだった。
王子との初対面で、アウリールは悟った。彼は、身体よりも心を健やかに育てる必要があると。
第二王子であるがゆえに、シュツェルツは誰にも顧みられていなかった。
父王メルヒオーアは政務と女遊びに忙しく、子どもたちには無関心。母王妃であるマルガレーテは、シュツェルツの病弱な兄、王太子アルトゥルばかりを溺愛していた。
国王夫妻の仲は冷え切っており、家族の団欒など望むべくもなかった。唯一、アルトゥルは、弟に年子の兄としての愛情を抱いていたが、母の愛を得られないシュツェルツにとって、その優しさも酷い侮辱に映ったようだ。
シュツェルツが熱を出しても、両親は顔を見せず、王子の看護をするのは、アウリールと女官たちの仕事だった。
シュツェルツが、自ら他人に働きかける時は、ごく限られていた。幼い子どもにしては巧みな言葉で女官の気を引き、自分の機嫌を取らせるのだ。
何と寂しい王子だろう、とアウリールは強烈な悲しみとともに思った。このまま育てば、王子がどんな大人になり、どんな人生を送るのか――それが、ありありと想像できたからだ。
誰からも愛されず、誰も愛さない、虚飾に満ちた空しい人生。そんな生を、まだ幼い王子に送らせてはならない、と、アウリールは思ったのだ。
アウリールは、辛抱強く王子に接することにした。無視されても、冷たくあしらわれても、毎日、笑顔で話しかけ、シュツェルツの体調を気遣った。
半年もたつと、シュツェルツは感情をぶつけてくるようになり、初めは苛立ちを、一年がたつ頃には怒りを表すようになった。その時期を超えると、シュツェルツはアウリールのことを「味方」だと見なしたようである。
本でしか遊び方を知らなかったというチェスを、アウリール相手にするようになり、勉強で分からないところを訊いてくる。本来なら職務の範疇ではないことでも、アウリールは丁寧に対応した。
シュツェルツと接していくうちに、アウリールは彼の性質を深く知ることになった。同年代の少年と比較しても早熟な聡明さと、鋭い刃物にも似た誇り高さである。
この方には、刃の鞘となる者が必要だ、とアウリールは思い、自らがその役を務めようと、心密かに誓った。
二年がたつ頃には、シュツェルツはどこにいくにもアウリールを連れていくようになった。それに伴い、十一歳になったシュツェルツの周囲では、新たな変化が起こり始めた。
まず、シーラム人を母に持つ、二十歳のエリファレット・シュタムがシュツェルツづきの近衛騎士となった。シーラムの王女を祖母に持つシュツェルツにとって、エリファレットは興味深く映ったようだ。
自分から話しかけ、シーラムのことや、彼の家族のことをさかんに知りたがる。実直なエリファレットは、幼い主君の質問に嫌な顔ひとつせず答え、親交を深めていった。
そして、シュツェルツの衣装係として、女官のベアトリーセ・ヴェレが新しく仕えるようになった。
まだ十六歳のベアトリーセは、艶やかな褐色の髪と黒い瞳を持つ、可憐な少女だった。彼女は心優しく、他の事務的な女官たちとは違い、シュツェルツに対して親身に接した。
ベアトリーセと出会って、シュツェルツは少し変わった。ベアトリーセを目にすると、落ち着きがなくなり、しきりに彼女の話題ばかり持ち出す。何より、他の女官たちに構う頻度が極端に減った。
殿下の初恋がいよいよ始まったか、とアウリールはエリファレットと話し合い、ほほえましい気持ちになった。
しばらくすると、シュツェルツの機嫌は極度に悪くなり、アウリールを避けるようになった。業を煮やしたようなその態度の意味を、アウリールが問い詰めると、シュツェルツは泣き出しそうな顔で言った。
「だって、ベアトリーセは君のことが好きなんだよ!」
自分に向けられる女性の好意に、まるで無頓着だったアウリールは驚いた。
シュツェルツの言葉を聞いて、ベアトリーセを意識するようにはなったものの、彼女とは歳が離れていたし、何より恋仲になるのは主君に対する裏切りのような気がして、気が咎めた。
そんなアウリールに苛立ったのか、あるいは何か別の感情が芽生えたのか、ある時からシュツェルツは、アウリールとベアトリーセが恋仲になるよう、行動し始めた。
十一歳の王子に後押しされる形で、アウリールとベアトリーセは心を通わせ、恋仲になった。
一年ほどたち、アウリールがベアトリーセとの結婚を考え始めた頃、忌まわしい事件は起きた。
国王メルヒオーアがベアトリーセを見初め、側妾にと望んだのだ。
ともに逃げよう、とアウリールはベアトリーセに言った。ベアトリーセは、ゆっくりと首を横に振った。ベアトリーセの父親は宮廷で官吏をしており、母や弟妹もいる。彼女が逃げ出せば一家がどうなるかは、言わずと知れていた。
その時、彼女が口にした言葉はアウリールの心を強かに打った。
「あなたに、シュツェルツ殿下が見捨てられるの?」
アウリールは返す言葉を持たなかった。ベアトリーセは、涙で頬を濡らしながらほほえんだ。
「あの方には、あなたが必要なのよ」
アウリールは、ただベアトリーセを抱き締めることしかできなかった。……それが、彼女を間近で見た最後の日となった。
その翌日、悄然としたシュツェルツがアウリールの前に現れた。聞けば、ベアトリーセを側妾にするのをやめるよう、父王に諫言し、追い返されてきたらしい。
「……ベアトリーセが側妾にされてしまうのは、僕の女官になったせいだ」
ぽつりとそう言ったシュツェルツは、大粒の涙を流しながら、アウリールに詫びた。気位の高い王子は、ただの少年に戻って泣きじゃくった。
「いいえ、間違っても殿下のせいではございません」
アウリールは無礼を承知で、シュツェルツをそっと抱き締め、静かに応えた。
泣きやんだあとで、シュツェルツは無理やり笑顔を作って告げた。
「その代わり、アウリールはこれからも僕の侍医でいられることになったよ。ちゃんと父上から――ええと、言質を取った」
シュツェルツが心配したのは、ベアトリーセが側妾になったあとのアウリールの立場だった。
その懸念通り、周囲の誰もが国王の不興を恐れ、ベアトリーセの恋人であったアウリールを避けるようになった。以前と変わらず接してくれるのは、シュツェルツとエリファレットだけだ。
アウリールが今の地位を保っていられるのは、シュツェルツの進言のお陰であることは明白だった。
侍医を辞さず、一生、シュツェルツに仕えようという決心が、アウリールの中で固まったのは、この頃のことだ。
変動は続いた。十三歳になっても一向に丈夫にならず、病気がちな王太子アルトゥルに見切りをつけ、シュツェルツを次期国王に、と望む派閥が、宮廷内で急速に勢力を増しつつあったのだ。
アウリールが宮仕えをするまで、誰もシュツェルツに手を差し伸べようとしなかったのに、勝手なものである。もっとも、シュツェルツは自分を利用しようとするものには敏感で、彼らを冷淡にあしらっていた。
だが、メルヒオーアのベアトリーセへの寵愛と、愛する王太子が廃されるかもしれないという二重の不安が重なり、王妃マルガレーテは、全ての元凶であるとして、激しくシュツェルツをなじった。
完全な言いがかりだったが、シュツェルツは傷ついた。宮廷は揺れに揺れ、シュツェルツが王太子派に命を狙われる事件も起きた。
事態を重く見たメルヒオーアは、友好国であるシーラムに働きかけ、シュツェルツを留学生として受け入れるよう手配した。そして、王族や貴族の子弟が学ぶ、シーラムでも屈指の名門であるラトーン学院への入学が決まった。
国を出ることになり、シュツェルツは悲しむどころか、むしろせいせいとしていた。一時でも、宮廷のしがらみから解放されたからだろう。
十二歳の六月、シュツェルツはアウリールとエリファレット以下、四名の供と一緒に、祖母の故国であるシーラムの地を踏んだ。シュツェルツのラトーンでの生活が始まったのである。