一 王宮からの使者
(あれが、わたしの「初恋」だったんだろうなあ)
春の山肌を軽快に歩きながら、マルヴィナはしみじみと思った。
あんなに優しい男の子には、後にも先にも会ったことがない。せめて、ちゃんと名前を聞いておけば良かったと思うが、後の祭りだ。
実はあのあと、初恋の君に会いたくて、マルヴィナは貴族の集まりに参加をしたのだ。友達が欲しい、と叔父ドゥーガルドにわがままを言って。もちろん、もしかしたら、あの男の子も参加しているかも……という、涙ぐましい思いが根底にあったからだ。
結果は散々だった。
貴族の館でのパーティー当日、大人たちと子どもたちとで部屋が分けられると、男の子たちがマルヴィナを指さして言ったのだ。
――知ってるぞ。お前、反逆者の孫なんだってな!
男の子たちからは、やーい、反逆者、反逆者とはやし立てられ、女の子たちからは、ひそひそ噂話をされながら、冷たい視線を受ける。耐え切れず、当時七歳だったマルヴィナは盛大に泣いた。
騒ぎを聞きつけたドゥーガルドは、一目で事情を察し、きょとんとする招待主に一礼だけすると、即座にマルヴィナを連れて館を出た。
今になって思えば、親である大人たちが、子どもたちに「あの子には近づくな」と吹き込んでいたのだろう。
道理で、パーティーに出たい、とマルヴィナが言い出した時、ドゥーガルドが渋い表情をしていたはずだ。王宮で迷子になったおりの、大人たちの冷たい視線の理由も判明した。
帰りの馬車の中で、ドゥーガルドは泣き続けるマルヴィナの頭に大きな掌を乗せ、一族の事情を話してくれた。
マルヴィナの祖父は、第二王子でありながら、周囲の人間に担がれ、次期国王に指名されていた第一王子と対立し、戦を交えた。結果、敗北した祖父は、第一王位継承者に刃を向けた大逆の罪に問われ、処刑されてしまう。
残された祖母と幼かった父は、命こそ取られなかったものの、父は王族公爵の位を継ぐ権利を剥奪され、以後、王子と名乗ることは許されなかった。国王の温情により、伯爵位と辺境の領地だけが残され、父と祖母は社交界とは無縁に、ひっそりと暮らしたのだという。
――おじいさまは、悪い人だったの?
泣きやんだマルヴィナが訊くと、ドゥーガルドは考え込む表情をした。
――確かに、兄君の地位を奪おうとしたのだから、良い人ではなかったのかもしれないね。けどね、マルヴィ、もしお前のおじいさまが戦に勝っていたら、今頃お前は王女さまとして、皆にちやほやされていたはずだよ。もし、そうなっていたら、おじいさまを表立って悪く言う人なんていなかったはずだ。人の世なんて、そんなものさ。根っからの悪人なんて、いないんだよ。
十四歳になったマルヴィナは思う。おじいさま、どうして大人しくしていてくれなかったの、と。
祖父が周囲の雑音なんかに惑わされず、第二王位継承者に甘んじていれば、自分はともかく、父や祖母が苦労することはなかったはずなのだ。ドゥーガルドは話してくれないが、母が嫁いでくる時にも一悶着あったであろうことは、想像に難くない。
ちなみに以前、ドゥーガルドに「お母さまの弟で苦労したことは?」と恐る恐る尋ねてみたら、「ないよ。昔から国王陛下に目をかけていただいていたから」とのことだった。王都で順調に出世しているようだし、さすが叔父である。
マルヴィナは三歳の時に、はやり病で両親を亡くしているが、ドゥーガルドや乳母たちのお陰で、不自由を感じたことはない。最近は、忙しくなってきたドゥーガルドと離れがちで、それをほんの少し、寂しく思うことはあるけれども。
マルヴィナは歩いていた足を止め、近場にある大きな木にもたれかかった。新緑の季節の木漏れ日を浴びて休んでいると、リスを少し大きくしたような白毛の動物が、足元にやってきた。
「リオ、おいで」
マルヴィナはしゃがみ込み、手を差し出す。リオは、ぴょんと掌に飛び乗ると、腕をよじ登り、肩に乗った。
リオはカゼヨミイヌという、れっきとしたイヌ科の生き物だ。成犬でも女性の両掌ほどの大きさにしかならず、前脚と後脚の間にある皮膜で木々の間を飛び回る。姿や移動法はリス科のモモンガやムササビに近いが、野生のイヌ科である以上、肉食で気性が荒いと言われる。
リオは仔犬の頃、何らかの理由で親とはぐれていたところを、マルヴィナに拾われた。本当は野生に帰すべきなのだけれど、すっかりマルヴィナに懐いてしまったので、こうしていつも一緒にいる。
「あ、あの花! この前は咲いていなかったのに」
マルヴィナは、リオを肩に乗せたまま、地面に咲き誇る花の前まで歩いていった。マルヴィナはこうして、山や野を歩き、動植物を観察するのが好きだ。例の事情で社交界から隔絶されていたせいで、一人遊びをすることが多くなり、身についた趣味ともいえる。
もちろん、館には同年代の使用人の子がいるし、お忍びで村の子どもたちと遊ぶこともあった。だが、一人の時間が大切になってくる年頃の少女としては、自然観察と読書がもっぱらの楽しみなのだ。
「この花、何て名前なのかしら。帰ったら、調べてみないとね」
うきうきしながらリオの鼻先を撫でると、マルヴィナは山歩きを切り上げ、館へと足を向けた。
*
山すそから南東に歩くと、中くらいの瀟洒な館が建っている。マルヴィナの暮らす伯爵邸だ。父が亡くなったあと、マルヴィナは叔父の後見の下、伯爵位を継ぎ、この館の主となった。
植物図鑑を開くことばかり考えて、門に駆け寄る。「お帰りなさいませ」と、門番が鉄扉を開けてくれた。
「ありがとう」
応じながら、おや、とマルヴィナは心の中で小首を傾げる。門番の表情が、いつもより落ち着きなく感じたのだ。
門を潜って初めて、マルヴィナは気づいた。館の敷地内に見慣れぬ馬車が止めてあるのだ。馬車に近づいてみて、ぎょっとする。漆黒に黄金が配置された、豪奢な馬車に描かれていた紋章が、天馬だったからだ。
(これって、王室の紋章……!)
どうしよう、わたし、何かやらかしたのかしら、と、マルヴィナは思った。マルヴィナが最後に王宮を訪れたのは、ちょうど一年前、王妃の国葬の時だ。社交界から遠ざかっているとはいえ、国王への忠誠を示すため、大切な式典には必ず出席しなければならないのである。
できるだけ大人しくしていたつもりだが、何か国王の不興を買うことをしていたのかもしれない。宮仕えをしている叔父に、迷惑がかかっていないといいけれど……。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
既にポーチに立っていた壮年の執事が、そわそわした様子で出迎えてくれた。
「ただいま。……ええと、何事?」
マルヴィナの質問に、執事は小声で答える。
「実は、お嬢さまにお会いになりたいと、王宮から使者の方がおいでになっております。わたくしには何も知らされておりませんので、仔細はその方よりお聞き下さい」
ということは、使者はよほど重要な用事があって、館を訪れたのだろう。しかも、自分に会いたいとは。伯爵位を継いでからずいぶんたつが、今までそんなことは一度もなかった。
(うーん、怖いなあ)
若干、逃げ腰になりつつ、「分かったわ」と返事をして、マルヴィナは執事が開けてくれた扉の向こうに、足を踏み入れた。