プロローグ 七年前の戴冠式にて
美しい窓枠にはめ込まれた色ガラスを通して、陽光が光の水たまりを作り出している。その床の中央に敷き詰められた深紅の絨毯の上を、毛皮の縁取りがされた赤いマントをまとった一人の青年が、颯爽と歩いていく。
広間の奥には段差があり、その中心にしつらえられた玉座の前で、黒髪の青年は立ち止まった。玉座の脇にたたずんでいた大神官が、青年の前に進み出る。
大神官の祈祷と、青年による宣誓が行われた。そのあとで、大神官は宝剣や王笏など、王室に代々受け継がれる宝を青年に授ける。最後に、大神官は王冠を恭しく手に取り、青年の頭上に載せた。
「神々の加護を受けた偉大なるシーラム王国、第十八代国王クレメント二世!」
「偉大なるシーラム王国、第十八代国王クレメント二世!」
新国王の誕生! 大神殿の大広間に集った人々が、大神官の宣言に、いっせいに唱和した。
クレメントは、今日から自分のものとなった玉座に、優雅な動作で腰かけた。
*
新王妃の戴冠も終わり、式に出席した人々は大神殿を出ると、王宮に移動を始めた。列席者たちをもてなすために、大広間ではたくさんの料理や酒が用意されている。とはいえ、新国王と新王妃が現れるまでは、まだ時間があるため、回廊では多くの人々が、久しぶりに会った友人知人たちと話の花を咲かせていた。
大人ばかりの人の合間を、一人の少女がおぼつかない足取りで歩いていく。
「――おじさま……どこ――?」
年齢は七、八歳。式典用に結い上げられた金褐色の髪と、エメラルドグリーンの瞳を持つ、はっとするほどに愛らしい少女だ。ピンク色のふんわりとしたドレスが、白い肌によく映えていて、精巧に作られた人形のようだ。
どこまでも続くような長い長い回廊を歩きながら、少女は必死に辺りを見回す。目が合った貴婦人が、すぐにその目をそらし、話し込んでいた女性に、声を潜めて告げる。
「確か、あの子、先代の国王陛下と王位を争った例の……よく、戴冠式に顔を出せたものね」
少女を見下ろす大人たちの視線は冷たい。誰にも助けを求められなくて、溢れ出る涙をごしごしと拭いながら、少女は途方に暮れて立ち尽くす。
「ねえ、君、お父君かお母君を捜しているの?」
突然、声をかけられて、少女はびくりと顔を上げた。
そこには、少女より少しばかり年上の少年が立っていた。少女は一瞬、呼吸が止まる思いがした。
きらきら輝く、少し伸ばしたプラチナブロンドの髪に、金色の長い睫毛に縁取られた、優しそうなサファイア色の瞳。幼いながらも端正な顔立ち。
王子さま、みたい、と思わず少女は思った。
少年が小首を傾げたので、少女はようやく、自分にかけられた問いを思い出した。
「お、おじさまを捜しているの」
「おじ君とはぐれたのは、どこか分かる?」
「あちら。でも、戻ってみたけれど、おじさまはもういなくて……」
「行き違いになったのかもしれないね。ついてきて。心当たりのある場所があるんだ」
そう告げると、少年は手を差し出してきた。離れないでね、とでも言うように。少女は、おずおずとその手を握った。少年は、にこりと笑う。
「君、名前は?」
「……マルヴィナ」
はにかみながら、マルヴィナは名乗った。回廊を歩きながら、少年が尋ねる。
「マルヴィナは、どうして迷子になったの?」
「おじさまが、お知り合いの方と会って、お話を始めてしまったの。全然終わりそうになかったから、つまらなくなって。それで、わたし、お城の探検を始めてしまって……」
「なるほど。大人の話って、長いものね。ところで、おじ君って、どんな方だい? 僕も知っていたほうが、捜しやすいと思うんだ」
「おじさまはね、とっても綺麗な長い亜麻色の髪をお持ちなの。おじさまといっても、まだ若くてかっこいいのよ。それに優しくて、とっても頼りになるの!」
マルヴィナが満面に笑みを浮かべて熱っぽく語ると、少年は苦笑した。
「そう。君のおじ君は、とてもすてきな方なんだね」
「うん。ね、あなたのお名前は?」
今度はマルヴィナが問うと、少年は大きな目をこちらに向けた。
「僕は――」
豪華な装飾がされた、大きな両開きの扉が見えてきた。その前にたたずむ、落ち着かなく辺りを見回している若者の姿を目にしたとたん、マルヴィナはぱっと表情を輝かせた。
「おじさま!」
少年がそっと手を離したのにも気づかず、マルヴィナは主人を見つけた仔犬のように、叔父に駆け寄る。
はー、と長いため息をつくと、叔父はマルヴィナを抱き締めた。
「マルヴィ、良かった……。急に姿が見えなくなったから、心配したんだよ」
「ごめんなさい、おじさま」
マルヴィナが眉尻を下げると、叔父は仕方なさそうにほほえむ。叔父はこの顔に弱いのだ。
「それにしても、よくここが分かったね。誰かに連れてきてもらったのかい?」
そう言われて、マルヴィナはようやく少年のことを思い出した。叔父を見つけた嬉しさと安心感で忘れていたけれど、まだお礼も言っていない。
「あのね、あの子が――」
慌てて振り返ると、もうそこに彼の姿はなかった。
マルヴィナの淡い「初恋」は、こうしてあっけない幕切れを迎えたのだった。