ある日の出逢い
今宵、ご紹介するお話は、梅雨に咲く花…紫陽花を巡るお話です。昔、昔それはもう花咲か爺さんほどに昔のお話。
ところで、紫陽花の花言葉をご存知ですか?
いくつかあるのですが、今宵の物語を飾る花言葉は、 一家団欒、家族の結びつき。
はたして、紫陽花がどう家族を結びつけるのか…ぜひ、雨降る夜に、ほうじ茶でもすすりながらご一読ください。
では、物語をのぞいてみましょう…。
「もし…もし…今夜一晩、泊まらせて下さい。山を越えてやっと村を見つけたら、お庭の紫陽花がとても綺麗で、足が向いてしまって」
温和そうなじい様が戸を開けると、じい様は目を見開いて止まってしまった。
そのおなごが、じい様の幼くして亡くなった一人娘を成長させたかのような姿だった。
優しいことで有名なじい様。娘に先立たれ、その後を追うように妻に先立たれ、一人寂しく暮らしていたが、誰にでも優しく、少しも弱みを見せずに笑っているじい様。そんな人が、珍しく素顔を見せた刹那だった。
ああ、この人も…娘は、悲しそうにふわりと笑った。
じい様は、右手でおいでおいでをすると、左手で家の奥に手を伸ばした。
「ばあ様の部屋だったけど。」
と、じい様は妻の寝室だった部屋に案内し、自分は居間に寝ることにした。
おなごは、ばあ様の部屋に荷物を置くと、居間に戻ろうと扉を開けた。
するとじい様は、部屋に背を向け、囲炉裏に釜をかけ終わってるところだった。
囲炉裏に火を焚くじい様の曲げた背中には、嬉しそうな、哀愁のような、なんともいえない姿が影を落としていた。
おなごは、背を向けるじい様になるたけ笑みを浮かべ、驚かさないようにつとめてポツリとつぶやいた。
「お爺様、何から何までありがとうございます。そういえば、今日はまともに食べていませんでしたわ」
そう言ってじい様の隣に座り、空になってた ちょこ に、酌をした。
「あぁ、すまんのぉ…」
じい様は、酒の存在をすっかり忘れていた様子で、年甲斐もなくはにかんだ。
「もしよろしければ、私にも頂けませんか?」
そういって、おなごは無邪気に微笑んだ。
せめてもの宿泊費と言わんばかりの態度に、じい様は一度だけ背を向けて涙をこぼした。
囲炉裏の火を落とし、煌めく星空に照らされたおなごは姫のように美しかった。そして、ばあ様の部屋へと吸い込まれていった。両の手を手前に重ね、小さな歩幅で背を丸めて姿を消すおなごの姿を見ながら、じい様はたとい今日が自らの終わりの日だとしても、構わないと思った。それほどまでにおなごの背は美しかった。
じい様は、居間で布団に入り目を瞑る。そして、当然のように昔の記憶が夢に出た。
ばあ様は、紫陽花の苗を植え、何度か花が咲いては枯れるうちに死んでしまった。
ばあ様は、娘に先立たれた悲しみを癒すかのように、梅雨にしか咲かぬ花である紫陽花をあえて植えたのだった。
なぜ紫陽花を植えたのか、とじい様に問われると、ばあ様は薄く微笑んで、これは私の分身なのよ。と言った。じい様には、よく意味が分からなかったが、それ以上詮索してはいけない気がして、そうか、とだけ言って畑仕事を労るようにばあ様の肩に手を置いた。
すると、ばあ様はさめざめと泣いてしまった。まだ、娘のことで心が整理できぬのであろうと、じい様は黙って微笑んだ。
雀の囀ずりに目を覚ますと、ばあ様の部屋で僅かな布の擦れる音がしていた。じい様は部屋の襖を開けずにおなごに声をかけた。
「ずいぶん早起きじゃな、着替えたらこっちに来なさい。話があるでの」
「はい、お爺様」
声だけで返事をして、髪を結ったおなごは、正座をして襖を少し開け、お辞儀をした。
「おはようございます。朝日が気持ちいいですね」
おなごは、季節はずれのひまわりのような笑顔を向けた。
じい様は、うなずきながら微笑んだ。
「あぁ、おはよう。もう少しで粥ができるから、こっちにいらっしゃい」
「はい、なにからなにまでありがとうございます」
おなごは、襖をとじ、じい様と囲炉裏を囲んだ。
じい様は、粥を取り分けながら口を開いた。
「この村から見える山を越えると、街がある。これから働いた方がなにかと都合がよかろうし、土地勘のある儂が案内するから行ってみないか?」
そう提案するじい様に、おなごは小さく頷いた。
じい様は、以前都に行った時に家の金を持っていき、蓄えを小判1つに換えた。
その小判を、じい様はお守りに入れた。
老い先短い自分より、先の長い娘っ子にやったほうがよかんべえ、とでも考えてるのか、慈しむような微笑みをうかべていた。
二人は、旅支度をして家を後にした。
村で行き交う人に、「やあ、じいさん。ずいぶん若い奥さんだね」などとからかわれながら、じい様は「なにを言っとるか」とほがらかに笑うと、半歩後ろを歩くおなごはクスクス笑った。「そんなんじゃありませんよ、私にこんな優しいお爺様、もったいないです」と返すと、大抵の若者は「じいさんに春が来たぞー」などと笑い飛ばし、老人は悔しがった。
そんな微笑ましいやりとりをして村を出ると、険しい山登りが始まった。
「この山道はちと急での、ぼちぼち休んで日が暮れた頃には抜けられるから、日が落ちる前に抜けねばならん。女と年寄りでは悠長に歩いてられんから、しっかり着いてくるんじゃよ」
と、肩で息をしながらじい様が先導した。
おなごは、山頂まで後ろからじい様の背中に片手をやって、転ばないように気配った。「すまんのう」と苦笑いするじい様に、おなごは「このくらいしかできませんで」と、汗をかきながら微笑んだ。
ようやく山頂を越え、山下りが始まって間もなく、数人の若い男が前に立ちはだかった。
「山賊だ!ここはなんとか静めるから、早くお逃げ」
とじい様は後ろを歩いていたおなごの手を握ってお守りを強く握らせた。
「これを持っていけば大丈夫だから」
と、小声で言っておなごの背を押すようにして早く逃げるよう促した。
おなごは、強く握った時の感触でお守りに小判が入ってると気づくと、じい様の押す手を左手で逆に引っ張り、空いた右手を山賊に平手で向け、目を閉じた。
すると、辺りに凄まじい突風が吹き荒れ、その風を浴びた山賊達は、手にした武器を落とし、気の抜けた表情で互いを見やる。
「俺たち、なにやってたんだ?」
突然の言葉に、終始凍りつくように見ていたじい様は、おなごがなにかやったんだとやっと気付き、戦意喪失した山賊とおなごを交互に見た。
すると、おなごの背に紋白蝶のような羽が生えてるのに気付き、じい様は腰を抜かしてその場にへたり落ちた。
「なんだかすまねぇ、俺たちどうかしてたみたいだ」
と、頭領のような男が頭を下げてその場を立ち去った。どうやら、山賊達には見えなかったようだ。
じい様は、もう一度おなごを見ると、やはり羽が生えている。
そして辺りの風が無くなった時、おなごは少し恥ずかしそうな顔をじい様に向け、羽も消えた。
おなごは、じい様の手を引いて立たせると、全てを話す。
まず、私の神通力は感情を司るものです。
感情を受けるのが得意で、先程のように向けられた感情を消し去るのは容易ではありません。
今は力を使い果たし、お爺様のお考えも理解できません。
私は、村でそれは仲の良い夫婦と有名な花屋の一人娘で、産まれた翌年に流行り病で命を落としました。
そして、二人の喪失感が癒えないまま、私が数えで十になる頃、母も病で息を引き取ったのです。
ただ一人残された父は、昔の様相とは似ても似つかないほどに荒れてしまいました。
最初はまるで見舞いのように足しげく通ったお客も、一人、また一人と足が遠のいていきました。
父はまともに商いもせずに酒に溺れ、母が好きだった紫陽花だけを裏庭で育てていました。
その紫陽花には、母から一際大きな想いを込められ、私、妖精が宿りました。
しかし、その私も、父の荒れ具合にいたたまれなくなりました。
そして、花屋を後にしました。
父は、私が去るとき気がつかなかった。ついに最後まで、私を見つけなかった。それが少し淋しかった。
そんな心配と淋しさだけが唯一の気がかりで、そのまま流れ流れて、この地にたどり着きました。
そして似たような紫陽花を見て、吸い込まれるように庭に足が向いたのです。
じい様は、一通り話を聞くと、おなごの悲しみを一身に受け止め、さめざめと泣いた。
ばあ様の紫陽花が、このおなごを呼んで、こうして目の前に居る。その出自を語るおなごは、生前のばあ様がなにも言わなかったあの時の心を、伝えてくれるようだった。もしばあ様が言葉を紡いでいれば、おそらくこう言っただろう。
紫陽花って、雨にうたれて頭を垂れて土を舐めるでしょ?なんだか、梅雨の鬱陶しい感じを雨に代わって詫びてるみたいで、切ないの。私が、子どもになにもしてやれないまま流行り病で死なせてしまって、この紫陽花が私と同じように頭を垂れる姿が、なんか重なっちゃって。
じい様は、長年の謎が溶けて憑き物が取れたように身軽になった。
じい様は泣きながらおなごを抱き締める。
「感情が読めなくなっても、きっといつか考えをいくらか理解ができる。人がそうしてきたように」
おなごは、今までの気持ちが雪崩のように押し寄せて、初めて堰を切ったように泣き出した。じい様の肩の上で、子供のようにうん、うん、と頷きながら泣きじゃくった。
儂は、子供の頃から紫陽花には不思議な感情を抱いてた。蛇の目傘をしっかり持って、水溜まりに気を付けるとほとんど見えない花。そして、時々見やると雨に打たれて空に変わって儂達に謝ってるような気さえして、なんとも悲しい気持ちになった。お前さんも、そうなんじゃろ?誰に詫びる必要もないことまで詫びて、ただ頭を垂れて生きてきた。そんな生き方に疲れなくても、たった一人の親にさえそのことに気づかれなかったことも、まるで自分のせいのように思うことはないんじゃぞ。儂が見とるから、例え、世界中の皆がお前を見つけんでも、儂が見つけ出して見せるから、もう一人で生きていくことはないんじゃ。
そうじい様が心のなかで呟き、おなごの頭によしよし、とするように手をおく。
「なぁ、おめえ、ワシの娘にならんか?心配しなくても、嫁になれなんて言わんから、人並みの幸せを、普通のおなごとして歩んでええんだから、街さ行ったら、いい男あてがって、幸せにしてやるから、ワシの娘になれ、なぁ」
おなごは、涙を手で拭って、俯く。
「でも、あの家は…」
そう言うおなごの言葉を遮って、じい様はおなごの肩に手を置いて正面から真っ直ぐおなごの目を見る。
「ええんよ、ばあ様は、それは優しいおなごだった。分かってくれるて。また梅雨が来たら、村に帰ろう。そして、また街に帰ればええ。おそこは、ばあ様との思い出が濃すぎる。おめぇを置いたら、息苦しいべ。な、そうするべ」
おなごは、こくこくと頷いた。こういう時に今まで心を覗いて真意を確かめていたが、今はそれもできない。見た目は大人だが、相手の真意を読み取ることは子供のようになってしまい、自分の意思を貫くのが正しいか自信が無かった。
「まずは、どこに奉公するかだなぁ…ワシもなんとか身の回りをこさえねば」
おなごのことを真剣に考えてくれるじい様を、信じて生きていくしかなかった。きっとこの心優しいお爺様は、自分のことに心を砕き続けてくれる。時間をかけて自分を育て直して、恩を返していこうと決めた。
「はい、お爺様」
「なにいってんの、おめぇはもうワシの娘なんだから、ととさんでええんよ。」
「うん、ととさん…」
山を抜けると、金色に輝く夕陽が眩しかった。