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アリーチェと幸せのありか

作者: 稲荷寿司


〇〇〇 起



「はぁ……つまらないですわ」

 


 もっぱら灰色の雲が広がる空を見つめる一人の美少女–––アリーチェは、食卓に頬杖をついたまま、そう呟いた。


 お城に来てから早一週間。最初の三日間はよかった。実家よりも豪華な食事を取ることに新しさを感じた上、いつもと異なる室内に彼女の心は踊った。

 しかし、逆に言えば三日間しか持たなかったと言っていい。四日目には飽きが始まった。出される食事が豪華だとはいえ、古くから親しんだ料理ばかりでおもしろくない。広い王城とて、三日間歩き回ったせいで目新しい場所はほとんどなくなってしまっている。


 有力貴族の箱入り娘だったアリーチェは、つまらない日常を脱しようと、刺激を求めてこの城にやって来た。それなのに、実家にいた頃と変わらない感慨を自分が抱いていることに、彼女は再びため息をつく。

 


「あ、アリーチェ姫! い、一緒に町へ出かけないか!?」



 そんな彼女に恋慕を抱く者がいる。このシバニア国の王子である。

 事の発端は王族貴族の出席するパーティーだ。彼はアリーチェを一目見た瞬間、彼女のことが好きになった。いわゆる、一目惚れである。


 しかし、それも無理はないことであった。アリーチェは国一番の美貌を持った少女なのだ。惚れてしまう者は少なくない。

 赤い宝石のようなまんまるな瞳。端麗に整った顔のパーツ。平均より少し長めの四肢。絹糸のような輝きの金髪は、いかなる人も思わず触れてしまいたくなる繊細さを備えている。

 それこそ、物憂げに頬杖をついて空を眺めていれば、声を掛けずにいられなくなるくらいに彼女は綺麗だ。


 王子の恋を悟った側近たちは気をきかせて彼女をこの城に招き入れた。当然、王族からの誘いを断る理由はアリーチェの実家にはなかった上、日常からの脱却を待ち望んでいたアリーチェはその誘いに食いついた。

 そんな経緯があって彼女はここにいる、のだが……。

 


「いやですの」



 冷たい返答が示すように、アリーチェにとって王子など興味の範疇(はんちゅう)にありはしない。

 面白いか、楽しいか、興味のそそられる体験ができるかどうかーーーようするに、退屈しないかどうかが、彼女にとってなによりも大切なのである。


 なにも、最初から王子に興味がなかったと言うわけではない。初めは王子に興味を持ち、誘いに乗った。彼女は満足した。しかし、回数を重ねるごとに彼女の満足度は減少していった。なぜなら、散策のコースが毎回同じ場所だったからだ。

 役職上、仕方がないとも言える事柄なのだが、アリーチェには関係ない。王子は失格の烙印らくいんを彼女に押されている。


 そんなわけで、王子が誘っても、アリーチェの口からは冷たい拒否しか飛び出さない。


「そ、そんなぁ……」すげない返答に王子ががっくりと肩を落すも、そんなことおかまいなしといった様子で鼻を鳴らすアリーチェ。


(どうせまた同じことを繰り返すんですわ! ああ、つまらない!)


 頰を膨らませる彼女は心中で悪態をつく。

 アリーチェはただただ、つまらないことが嫌いなのだった。



「「「はぁ……」」」



 王子が拒否されるのを隠れて聞いていた側近らの口から、ため息が落ちる。

 複数人から発せられるその合唱はアリーチェに丸聞こえだ。

 王子と自分のやり取りを盗み聞きするこの側近らの対応も、彼女には気に入らない。



「どうしてだ……? どうしてなんだ? この前は一緒に行ってくれたじゃないか? なにがいけないんだ!? 教えてくれ!」



 残念がるアリーチェを見て、王子はなぜ自分が彼女のお眼鏡にかなわないのか、その理由を聞き出そうとする。

 女性の側からすれば、それを当事者に聞くのかと揶揄されそうなものだが、この誠実さは王子の良い点であった。


 まあ、彼女にとってそんなことはどうでもいいのだ。



「私は、つまらない人が嫌いですの! 王子! あなたはつまらない人ですのっ!」


「ぐあっ……!? そんな……!」



 アリーチェは立ち上がると、一息に言ってのけた。

 胸に鋭い剣を突き立てられたかのように、小さく呻いた王子は膝から崩れ落ちる。暗に嫌いだと述べる彼女の一言は、王子の心を抉りとったようだ。


 アリーチェはそれ以上意識を王子に割かない。

 彼女は椅子に座りなおすと、再び空を眺めながら、願う。



(はぁ…………誰か私を非日常に連れて行ってくれる方はいらっしゃらないかしら……)



◯◯◯ 起2



 ある日、アリーチェはとある話を耳にする。

 城内で何か面白い事件でも起きていないかと散策している時。劇場のように高い天井を備える廊下である話し声が反響してきたのだ。

『姫に聞かれてはなりませんので、ここで言いますが』という側近と思われる老人の前置きを聞いて、アリーチェは即座に耳をそばだてた。



『厄介なことになりました。あのわがままなことで有名な隣国の王が我が、国の姫を欲しているとの情報が耳に入ってきたのです』


『えっ!? それは本当か!?』


『ええ、ルドマニカに送り込んだスパイからの情報です。真偽のほどは間違いないでしょう。最悪、誰か盗人を送ってくるやもしれません。姫がこのままでは危険です。姫には城の中で一番安全な場所で生活してもらおうと考えているのですが、いかがいたしましょう』


『うむ……早速適切な部屋を充てがうために会議を開こう』


『承知いたしました』



 二人の談合を盗み聞きしたのを王子たちに知られないようにするため、アリーチェはその場を早足に、けれども、スキップでもしてしまいそうな軽やかな足取りで立ち去る。


(隣国の王様が私のことを欲している……? 誰かが私のことをさらいにくる……?)


 非日常のお出ましにアリーチェは歓喜した。


 自室へと戻ったアリーチェは、ベットに飛び込む。



「ああ、いったいどんな方がいらっしゃるのかしら?」



 耳を押し当てたふかふかの布団からは、早鐘を打つ心臓の音が聞こえた。


 その日の夜、王子の側近からお城の一番高い場所にある部屋で生活するようにアリーチェは言いつけられた。

 今まで自室として与えられていた部屋より、ひと回りもふた回りも小さな部屋だった。しかし、それでも彼女は喜んでその部屋に入った。

 寝台から見える夜空に浮かぶ星粒たちは、小さいながらも精一杯に輝いている。まるで、アリーチェの期待そのもののようだった。


〇〇〇


 日々に期待を滲ませながら数週間を過ごしたある日の夜。普段なら寝ているような時間帯。何者かが窓を解錠し、静かに開けた。

 柔らかいベットに腰掛けながら、夜空の星を眺めていたアリーチェ。彼女は今か今かと誘拐犯を待っていただけに、開かれる窓の音にすぐさま反応した。

 駆けつけ、開かれた窓に首を突っ込んで、叫んだ。



「私を攫いにきましたのー!?」


「のわぁ!? 」

  

「あら?」



 突然の登場に驚く声が、すぐ下から響いた。彼女がそこに目を向ければ、そこには全身黒服の男がいる。

 鉤爪が石枠に引っ掛かっているものの、彼は石枠に片手を引っ掛けるのみだ。おそらく、窓を開ける際に鉤爪から手を離したのだろう。

 


「あなたが私を攫いにきたのですわね!」



 そんな状態の彼へ、顔を接近させて、問いかける。

 唐突に姿を現したアリーチェに驚いていた彼は、落っこちそうな状態にも関わらず呆然とした。

 当然である。男は彼女を拉致しにきたのだ。普通、見知らぬ人が近づいてきたら、怯えるなり、不気味がるなりするはずだ。それなのに、彼女は近づいてきたうえ、正面と向かって「私を攫いにきたのですわね!」と臆せず告げたのだ。拉致する側の心理としては、呆然としない方がおかしい。

 通常の反応をことごとく裏切る眼前の少女に、脳の処理が追いつかない。



「なにをしているんですの! 早く手をとるんですの!」



 あろうことか、アリーチェは侵入者を助けようと手を差し伸べていた。


 時間をて、男が機能停止から回復したものの、拉致犯を助けようとする彼女のよくわからない行動に、男は困惑するしかない。

 けれども、眼前の手は『早く手を取れ』とでも言いたげに伸ばされた。

 男は結局その手を取る。引き上げられ、彼はそのまま室内に入った。



「私はアリーチェといいますわ! あなたの名前はなんですの?」



 状況を全く分かっていない言葉に男は訝しげな視線をアリーチェに向ける。



「あんた、今の状況わかってるのか? 隣国のわがままな王に命じられた一人の男が、攫いにきてるんだぞ?」


「ああ……! やっぱりそうですのね……!」



 なぜか目をキラキラと輝かせるアリーチェに男は少し引いた。


 そこで扉がノックされる音とともに、アリーチェを呼ぶ声が扉越しに響いた。若々しい声は、王子のものである。

 姫をしゃがませ、さらに彼女の口を押さえつつ、男はベットの影に隠れた。部屋の真ん中に置かれたベットは、扉側から見た場合に生じる死角に二人を隠している。

 突然の行為に驚いたアリーチェは暴れようとしたが、唇に人差し指を押し当て『静かに』とジェスチャーする男を見て、それをやめる。

 男の心配とは裏腹に姫は大人しくなった。



「姫? もしかしていない……?」


 

 やがて、何度呼んでも返答がないことを訝しげに感じたのか、控えめに扉が開かれる。毛の長い絨毯のせいで、足音は全く聞こえない。だが、男は王子の気配を敏感に感じていた。

 心臓が普段のテンポを乱し、汗腺が開いて、汗が滲む。男は必死に息を潜めた。



「………………………………だれか側近に聞いてみるか。姫の部屋を一人で歩き回るなんて、なんだか気持ち悪いと思われそうだし」



 王子は長い沈黙の末にそう呟き、部屋から出ていった。扉が閉じられたのち、数十秒経ってから、男は大きく息を吐く。



「なんだかドキドキしますわね!」



 興奮した声で、彼女はそう話す。

 同感ではあるが、誘拐されている人がそれを言うのか、と突っ込みたくなるところではある。

 手荒な真似をしたくないと心から願っていた男にとって、アリーチェを縛ったり、気絶させたりする必要がなさそうなのは思いがけない幸運ではあるのだが。


 「これからどうしますの!?」と、アリーチェは未知に好奇心を刺激された子どものように男へ問うた。

 男の心に強く湧き上がったのは、本当に拉致されていいと思っているのだろうか、という感慨である。

 拉致されれば酷い目に会う。それは常識だ。

 彼女の無垢な表情は、『常識を知りません』と言っているも同然だった。


(まあ、その方が都合はいいんだけどさ……)


 男は不憫な面持ちをしたまま、心内そう呟いた。


 さて、男はいつまでもここにいるわけにはいかない。彼は拉致犯なのだ。おそらく、王子が側近に姫の居場所を聞き、それがわからないとなれば、大捜索が始まるのは目に見えている。

 隠密おんみつにこの任務を完了させる。それが男の望むところだ。

 だから、感傷を断ち切り、行動を開始する。



「きゃっ! きゅ、急にどうしましたの!?」



 アリーチェを肩に担ぎ上げた男は、言った。


「今から、あんたをルドマニカに連れて行く」


 男は先程侵入で使った窓へと歩き、引っ掛けてある鉤爪が改めて取れないことを確認すると、アリーチェを担いだまま外に出た。

 月光に輝く頭髪は風に仰がれ、まばらに広がった。夜の風はアリーチェの肌を撫でている。

 肩に乗せられた彼女は空中にロープで吊るされているのとなんら変わりない。本能により恐怖は湧き上がり、引きつった喉から音が漏れた。



「しっかり掴まってれば落ちたりはしないさ。あと、暴れたりしなければな」



 男はそう言うと、空中に背を向ける。視線が地上に投げ出されたアリーチェは、悲鳴をあげる。

 ロープを握る力を弱くするのと同時に、男は壁を蹴った。

 それに伴い、体は重力に従って下に落ちる。いちエイレル程度進むごとに男がロープを再度握れば、速度は落ち、足が壁に接地する。

 これらの動作を繰り返し、アリーチェを抱えた男は少しずつ下へ降りていく。


 肩に担がれている彼女は、男の足が壁に接地するたびに呻いた。



「あのっ……ぅぅ、カルロさん……んっ!」


「すまないが後にしてくれ」


「っ……! そんな……!」



 一時的に停止した男はそう断ると、瞬く間に降下作業を再開する。

 王子が姫の世話係に居場所を聞くのは時間の問題であったし、喋りながらでは手元が狂うかもしれない。

 そんな理由で彼はアリーチェに取り合わなかった。


 それが、重大なシグナルであるのに気づかないままに。



「おろろろろ……」



 地面まであと数エイレルというところでアリーチェの口から男のローブに虹がかかった。

 虹が衣服について喜ぶ人間は、世の中にほとんどいない。

 そして男も例外なく、虹が衣服に付着して喜ぶ人間ではなかった。



「なっ!? おま、吐くなよ! ああっ俺のローブがっ!」



 声が城に響く。否、響いてしまった。

 やがて、やまびこのように返ってきたのは、「姫が攫われてるぞ!」という叫び声。

 男がはっとしたところでもう遅かった。

 乗っている屋根の周りには兵士がわらわらと集まり始めている。



「ちくしょう……! こんなはずじゃなかったのに!」



 ぐったりしたアリーチェを担いだ男は暗闇に愚痴をこぼして逃げた。

 


◯◯◯ 承



「ふぅ……。ここまでくれば、こっちのもんだ……」



 なんとかシバニア国の兵士らを巻いた男は、息も絶え絶えに勝利を宣言した。

 二人は森の中にいる。背の高い木々が月明かりを吸収しているせいで、殆どなにも視認できない。

 だが、男は特別目が良かった。月のわずかな光を頼ることで、彼は暗闇の中を進んでいけた。

 追手もまさか、明かりも点けず山へ入っていったとは思わないだろう。


 しばらく進むと、拓けた場所に到着する。月明かりが鬱蒼とした森から出てきた男を祝福した。

 眼前にはむき出しになった岩肌と、そこにぽっかりと空いた洞穴がある。

 これからここで少し仮眠し、早朝にはルドマニカへと再出発する心づもりだ。


 中に入ると、彼はアリーチェを地面に下ろす。

 彼女の顔を見て男は驚いた。なんと、気持ち良さそうにすやすや眠っていたのだ。

 まったく喋らなくなっていたのはどうやら疲れて寝てしまったのが原因だったらしい。

 繰り返しになるが、男にとってその方が都合がいいわけではあるのだが。



「………………」



 男はしばし沈黙した。

 月明かりに照らされる彼女の肌は白く、幻想的な空気を醸し出している。

 要は、優しい光の粒を今にも生み出しそうな光景に、男は見惚れていた。

 彼女の寝顔が、意図せず網膜に焼きつく。



「はっ! 気持ち良さそうのに寝やがって! まったく……」



 自分が長いこと彼女を見つめているのに、気づいた男は、そう(うそぶ)いた。


 言口の端についた虹をハンカチで拭ってやったあと、自身のローブをそのハンカチの汚れていない面で拭う。そうして汚れきったハンカチを少し離れた地面に捨て、男も眠りについた。



〇〇〇



 まだ太陽が昇り切っていないような時間帯。アリーチェが目を覚まして最初に見たものは地面だ。眠りについた時と同じ間隔で視界が揺れているのを感じ、瞬間的に今背負われていることを悟る。

 『朝ご飯はまだ?』そう聞こうとして、彼女はまだ彼の名前を聞いていないことに思い至った。



「おはようですわ! えっと…………そういえば、あなたの名前を伺ってませんでしたわね」


「起きたか」



 名前を暗に聞くアリーチェに対して、男は素っ気なく言葉を返した切りだ。しばらく彼女が待っても、ただ黙々と歩くばかりの彼に、アリーチェはむっとする。



「ねえ、なんて言いますの? ねえねえ! 聞いてるんですのよ!? 私の問いに答えてくださいまし!」



 わざとらしい大きな声でアリーチェは男の鼓膜を大きく震わせる。うるさいことこの上ないが、彼は我慢した。

 自分の名前を言いたくないからだ。彼とアリーチェは、誘拐者と被誘拐者の関係だ。それにもかかわらず、彼女へ変に情が移ってしまうのを、男は避けたかった。


 彼はルドマニカの王へと、彼女を渡さねばならない。そこに情など、不要である。

 だからこそ、彼は顔をしかめるにとどめる。


 それに、喋るという行為は存外に労力を要するもの。つまり、いくら名前が聞きたいからといって、喋り続けるのは不可能だろう。

 そういう打算があったのも、アリーチェが生み出すうっとしい喧騒けんそうを堪えた理由だった。だったのだが。



「ねえ、ねえ! 聞いてるんですのっ! ねえねえねえ!」



 アリーチェのぐずり方はとどまることを知らなかった。

 さらに、彼女は口を男の耳元に密着しそうなぐらいに近づけると、



「名前ぐらい、おーしーえーてーくーだーさーいーでーすーのーっ!」



 とどめと言わんばかりに、発声練習じみたお願いを始める始末。

 おぶっている男からしてみれば、たまったものではなかった。



「あーもううるせぇな!? 耳元で騒ぐんじゃねぇっ!」



 彼はついに折れてしまう。そう叫んだあと、小さな声で不満げに「カルロだ」と名前を口にする。

 内心、こんな性格じゃあなけりゃなあ、と思わずにはいられない。



「素敵な名前ですのね!」


「そうか? どこにでもある名前だと思うが」


「なんだか自由気ままな浪人みたいですわ!」


「それ、褒めてないだろ」


「褒めてますわ!」



 名前を彼女に伝えたのを皮切りに、会話が溢れた。

 その数秒後、割り込むように轟く重低音が彼女のお腹から場を支配した。



「………お腹が空きましたわ」



 一拍の間を置いて、アリーチェが簡潔(かんけつ)に訴える。腹の虫が凄まじい鳴き声を披露(ひろう)したにもかかわらず、気にした様子はなにもない。



「そうかい」



 (あき)れるカルロの返事もまた、簡素な相槌だった。というのも実はカルロ、食べ物を持っていない。

 侵入に際して一番重視されるものは身軽さである。一日二日であれば、パフォーマンスは落ちるにせよ、活動できると考えていた彼は、身軽さを大切にしたために携帯食料を持ってきていないのだ。

 昼食を我慢し、早々にルドマニカまで直行すると言うのが彼の計画だ。


 そういう訳で、「朝ごはんはまだですの?」と問いかけるアリーチェに対し、彼は沈黙を貫くつもりだった。

 が、そうは問屋が卸さない。「ねえ、カルロさん、早く朝ごはん食べましょうよ?」朝食があると信じて疑わないアリーチェは、耳元で問いを重ねる。



「………」



 沈黙の視線が彼の肌をピリピリとひりつかせる。それもそのはず、ジト目の視線がカルロに突き刺さっている。

 また耳元で騒がれてはたまらないと、仕方なく真実を告げることにする。



「………………飯は目的地に着いてからだ」


「それって、いつになりますの?」


「今日の昼」



 衝撃の事実がアリーチェの脳天を貫いた。

 彼女の中途半端に開いた口から零れ落ちるのは「え……うそ……ですわよね?」という嘆願にも似た確認の言葉だ。

 「いや、嘘じゃない」そうカルロが答えた瞬間、アリーチェは数秒硬直し。



「嫌、いや、イヤですわーっ! 朝ごはんがないなんてー!」



 勢いよく、ぐずりだす。

「朝ごはんがないなんて許しませんわー!」そう叫びながらカルロの背中をぽこぽこ叩き始めるアリーチェに、彼は胡乱(うろん)げな目で心中ぼやく。


(だから言いたくなかったのに……)


 耳元で叫ばれないように話したのに、これでは本末転倒もいいところだった。

 避けられない運命だったかもしれないが。



「まったく……仕方ねぇなぁ」



 いつまでも騒ぎ続けるアリーチェに、カルロがまたしても折れる。ともなって響くのは「やりましたわーっ!」という彼女の歓声。

 カルロと対照的に、心が弾んで落ち着かない様子のアリーチェ。今まで豪勢な食事しか食べた経験がなかった彼女は、今回の食事がどんなものなのか、存分に期待しているのだった。



〇〇〇



 食料を確保するために、小川に足を踏み入れているのはカルロだ。体勢を低くし、水面に映る大きな魚の影にいつでも飛びかかれるよう、気を張り詰めている。

 その雰囲気が伝わっているのか、あるいは、ただ飯にありつけることを予期しているだけなのか。息を飲んだ様子のアリーチェは川岸から彼の姿を見つめている。

 太陽が雲から顔を出した刹那(せつな)、カルロの手は、残像を生み出した。

 跳ね上がる水飛沫。空から光を受けた水滴は、一つ一つが宝石のようにきらめく。


 水の中から出されたその手にはーーー



「やったぁぁぁぁ!」


「……!」



 片腕ほどもある、大きな魚。それが、カルロの手に収まっていた。喜びを口にしつつその大物をアリーチェへと見せつける。

 だが、依然として彼女の緊張感は解けていない。獲物を捕えたにも関わらずだ。


(どうしたんだ……? さっきまで大はしゃぎしてたはずなのに……)


 そんな様子に不信感を抱いたカルロは魚を脇に抱えて「アリーチェ?」と呼びかける。



「ああぁぁぁあっ!?」「えっ……?」



 異なる感情が川に落ちる。

 驚愕に悲嘆を加えたような絶叫と、それに無理解を示す呟き。


 魚を捕らえていたと言えるのは、つい数秒前までの話。

 急に暴れ出したその魚はするりとカルロの手中から脱出。水面に滑り落ちた。

 カルロの時が止まる。

 アリーチェは深いため息をつく。



「あなた、間抜けですのね」


「そこまで言うことないだろ!?」



 冷たい水の中、食料を確保するために頑張っている人に投げかける言葉がそれなのかと、腹を立てて言い返す。

 が、アリーチェも黙っていない。



「毎回捕まえるのに毎回逃しちゃうなんて、バカですわ!」


「なっ……おまえっ……!」



 そう吐き捨て、彼女は顔をそっぽに向けた。カルロは怒りで震えだす。



「そこまで言うならやれよ! やってみろよ! 先に獲った方が勝ちな!」


「望むところですわ! こんなもの、ちょちょいのちょいで終わらせてやりますの!」



 靴と靴下を川岸で脱いだアリーチェはきめ細やかなその足を川の中に入れる。

 あっという間に熱を奪っていく流水に顔をしかめつつも、カルロを下してやろうと息巻く彼女にためらいはない。

 青空の下、魚を取ろうとする二人の耳に、心を落ち着かせる小川のせせらぎが、小鳥の鳴き声が、聞こえているだろうか。

 いや、聞こえていないに違いない。二人とも互いに離れた場所で、目を爛々と輝かせながら水面に映る魚の影に夢中になった。



 勝負が始まってはや数時間。



「やりましたわー! これで私の勝ちですわね!」



 勝負に決着がついていた。

 アリーチェは見事に魚を捕獲。陸まで持ち帰り、カルロとの勝負に決着をつけた。

 敗北に涙するカルロ。



「なぜだどうしてだ……! どうしてなんだ、俺!」



 手中に魚を収めた回数はカルロの方が多かった上、彼女が魚をとらえた回数は片手の指で数えられるほどに少なかった。

 しかし彼は負けたのだ。アリーチェの言葉どうり、彼はどこか抜けているのかもしれない。


 アリーチェのからかいを切っ掛けに言い合いが始まるのも早々、二人のお腹が、さっさとその食べ物をよこせと言うかの様に怒鳴る。



「…………一時休戦ですわね」


大変遺憾いかんだがそうしよう」



 太陽は、すでに彼らの真上で輝いている。それを見上げ、予定では城で料理をもてなされている頃なのになぁ、とカルロは心中で呟いた。


 あったはずの未来に思いを馳せた後、「よし、それじゃあ、枯葉と枝木を集めるぞ」とカルロはアリーチェに指示した。だが、



「え、そんな、まだ食べれませんの?」



 アリーチェは、絶望したような表情を浮かべる。

 しかし、彼はそれを意に介さない。腕を組んで、淡々と「生で喰うわけにもいかないだろ」と返す。

 アリーチェのいた国にもカルロのいた国にも、魚を生で食べる風習はない。火を通さず生のまま食べるのは、野蛮人の行いだとされている。


 わかってはいたはずだが、いや、わかっていなかったかもしれないが……、彼女が喚き散らすのにそう時間はかからなかった。



「お腹空きましたの! もう我慢できないですの! 嫌ですの! 無理ですの! 今すぐ食べれなかったら死んじゃいますの!」



 彼女の悲痛な訴えが昼間の森に木霊した。


 お城では、人に命令すれば大抵のことは通る。しかし、ここは森の中だ。彼女に仕える者もいない。わがままが通るような場所ではない。食べ物は自分で確保しなければ、誰も取ってはくれないし、調理も火起こしも何もかも、自分達でしなければならない。


 そのことを受け入れているカルロは彼女の無理なわがままを聞き、アリーチェをしかろうとして–––すんでのところで思いとどまる。


 (城で平穏に暮らしていたのに、そこから連れ出したのは俺だ……。俺は、何か言える立場じゃない)


 そうかえりみて、彼は彼女を諭すにとどめた。

 アリーチェはおかまいなしに泣きじゃくっていたが、根気よく諭し続ける優しい声に、やがて泣き止んだ。


 食事の準備として、落ち葉と枝を集めた。アリーチェは目を泣き腫らし、時折しゃくりあげていたが、しっかりと作業をこなした。

 落ち葉と枝を集め終わった頃には、ふくらはぎ、太もも、腕など、いたるところの筋肉が腫れてしまっていた。

 しかし、まだ食事にはありつけない。火起こしも調理も残っているからだ。



 ◯◯◯

 


 食事の準備ができた頃には、もう日は沈もうかというような時刻になっていた。空は太陽によって真っ赤に焼かれ、浮かんでいる雲も例外なく赤で染色されている。


 焼き魚を刺した木の棒をカルロは「ほら、喰え」と言いながら、アリーチェに手渡す。

 こんがりと焼きあがった香ばしい香り。じゅうじゅうと熱された油が奏でる音楽。それらが彼女にだらしなくもよだれ(すす)らせた。


 ようやく食事にありつける喜びに顔を明るくさせる彼女は、一思ひとおもいに魚のお腹へ食らいついた。

 口いっぱいに頬張った焼き魚を、大きな動きで咀嚼(そしゃく)した後、



「うぇっ! ぺっ! ぺっ!」



 彼女はそれを吐き出す。顔は苦虫を噛み潰した時のように歪められていた。

 その様子を見つめるカルロは「はらわたは取ってないぞ」と遅すぎる警告を発する。

 すると、



「ふふ、ふふふ、あはははは!」



 もう堪えきれないといった様子で彼女は吹き出す。

 てっきり、先に言ってくれなかったことに対して、立腹するものと思い込んでいたカルロにとって、この反応は意外だった。


 その後も笑い続けるアリーチェをカルロは訝しげな目で見やるが、止まらない。



「急にどうしたんだよ? 何か変なものでも入ってたのか?」



 問いかけてから、彼女の笑い声がおさまるのに数十秒かかった。

 そうして、ようやく呼吸が落ち着いたアリーチェは言うのだ。



「私、今、楽しいですわ!」



 その笑顔は、ともすると人生で一番の笑顔だったかもしれない。野原で元気いっぱいに咲く花の様な顔で、瞳は光に照らされる宝石の様に輝いていた。

 自ら光を放つかのような笑みを浮かべる彼女にカルロの心拍が初めて跳ねる。



「カルロと川に入って、冷たい思いして、とっても疲れましたわ。もちろん落ち葉を集めるのだって、枝を集めるのだって大変でしたし、おまけに今口に入れた魚は苦かった。でも、どうしてでしょう。私、今、とっても楽しいですの!」



 夕日はすでに山に隠れ、光はここに届かなくなっている。だが、それでも問題ない。焚き火は二人を暖かく照らしているのだから。



◯◯◯



 夜が明けて、そろそろお昼かという時刻。朝に出発していたカルロとアリーチェはルドマニカに到着した。

 お城の道中に立ち並ぶたくさんの露店はアリーチェの興味と空腹を刺激する。



「カルロさん! 私、これが食べたいですわ!」


「駄目だ、さっさと城まで行くぞ」


「じー」


「………………………………だーっ! わかったよ! 買えばいいんだろ! 買えば!?」



 またわめきそうだったので、仕方がなく食べ歩きができる野鳥の串焼きをアリーチェに買い与えると、それに、夢中になっている間にカルロはお城へと急ぐ。



「到着だ」



 大きな鉄状の扉を前に、カルロは呟く。最後の一欠片を頬張ろうとするアリーチェを放置して、手早く王から受け取った書類を門番に見せる。

 そうして、通過の許可を受けると、門をくぐり、二人は入城した。

 廊下を渡り、階段を登り、王室を目指す。

 キョロキョロと首を回すアリーチェが鼻を鳴らして呟いた。



「案外ショボイですわね。私が住んでいたお城の方がずっと大きいですし、ずっと綺麗でしたの」


「おい、口は慎んでくれ」



 天井の高さはそれなりに高いが、アリーチェのいたお城ほどではない。また、きらびやかさもそこそこといったさまだ。外装に劣らず装飾の乏しい城内部の印象はとても美しいとは言えない。


 状況を考えず、思ったことを口にするアリーチェに、カルロは念を推すべき事柄を思い出す。



「王さんは短気な上に、怒らせれば歯止めが効かない。いいか、絶対に失礼なことをするんじゃないぞ」


「わかってますわ!」



 歩きながら、そうアリーチェに言う。

 彼女が明るく元気な返事をしたものの、カルロの心配は絶えない。もっと前々から口すっぱく言うべきだったかもしれないとも、彼は思った。


 王室と廊下を隔てる大きな扉の前まで二人はやってきた。

 城に入る時と同じように、門番に身分を証明するための書類を見せ、要件を伝えると、しばらくして大門は開かれる。荘厳そうごんに感じられる金属音が廊下に轟いた。


 赤いカーペットが長々と続く先には玉座があり、---王がいる。

 外見で特筆すべきなのは(へそ)のあたりまで伸びる白い髭に、切れ長な鋭い目だろう。

 玉座に腰掛けていた王は、アリーチェの姿を認めるなり、その双眸を細める。

 王との距離が数エイレル程のところまで二人は歩き、カルロはひざまずく。



「王の命に従い、姫をさらって参りました」


「ふむ、素晴らしい仕事だ。傷つけず、縛りもせず、よくぞここまできたものだ。其奴そやつがかのアリーチェ姫である証拠を見せてみよ、と言いたいところだが…………その必要はなさそうだな」



 王は頭から足の先まで、見る人が見ればゾッとするような視線でアリーチェを見た。

 嫌悪感からカルロは顔を歪めたくなるが、普段通りを装うしかない。



「ふむ……、おぬし、わしの専属工作員とならぬか?」


「工作員、でございますか?」



 突然の提案にカルロは目を瞬かせる。

 大金を受け取り、王とおさらばするつもりだっただけに、その勧誘に対して何事かと言いたかった。しかし、それははばかられた。



「どうだね?」



 薄く微笑んだ笑み。表面こそカルロの自由を尊重しているように見えるが、その実、選択肢に自由はない。

 この火山を噴火させれば、どうなるかわからないのだ。

 


「……………ありがたきお言葉です。是非、貴方の工作員として仕えさせていただきます」



 故にカルロの行動は決まっていた。瞳を閉じ、心で溜息を着いた後、王に従う。


 為されるがままにしておくことは、この城で生きていくために必要なことだった。



「私はどうなりますのー?」



 だからこそ、だ。

 質問に回答する王へアリーチェが放った言葉に、カルロは目をかざるを得なかった。


「アリーチェ姫よ。誇りに思いなさい、貴方は今日から私の第ニ十二人目の妃だ」


「二十二人目!? 頭のネジが飛んでいるんじゃありませんの!?」


「バカ! ええと、これは、決して貴方様のことを貶めようとしているのではなく、その、そう! 頭のネジが飛んでいるというのは姫の故郷で使われる賛美の方言でして……! ですから……」



 カルロは彼女の迂闊さに頭を抱えたくなった。

 深く刻まれたしわが怒りでさらに濃くなる。カルロの弁明もなにも、聞こえていないに違いない。

 まもなく、王は噴火するかのように切れ長の目を一気に見開き、玉座を殴りつけ、立ち上がる。

 そして、絶叫した。



「連れて行け! 地下牢だ!」



 その叫び声に反応し、王の側で控えていた近衛このえ騎士がアリーチェを連れて行く。

 助けを求めたカルロは、近衛騎士に連れ去られて行く彼女の姿をただただ見送った。とばっちりなどごめんだった。

 それに、絵に描いたような美人のアリーチェであれば、王は簡単に彼女を殺したりしない、という打算も働いた。



「カルロ、助けてくださいですの!」



 必死に救済を願ってくる彼女のルビーの瞳から、カルロは視線をそらす。それに伴い発せられた彼女の息を飲む音は心を強く打ったが、それだけだ。

 やがて、扉が閉じられ、アリーチェの声は見事に遮断された。



○○○



 「王への不躾な態度を反省しろ」と言われ、牢屋に放り込まれて数日。アリーチェは感傷に浸る。

 地下牢はとても暗い。森で過ごした夜はなにも見えないほど暗かったが、ここはそれに勝るとも劣らない。

 暗澹あんたんたる面持ちの彼女は、牢屋の闇に溶けてしまいそうだった。



「カルロさんに、私は、嫌われてしまいましたの……?」



 心細さから呟かれた心配に、応えてくれる者はいない。

 アリーチェはカルロのことが恋しくなった。



「いえ、カルロさんなら、私のこと、きっと助けてくれますわよね……? でも、あの日、カルロさんは…………」



 救いに来てほしいという願いと、来てくれないのではないかという不安。

 その二つがアリーチェの心を掻き乱していた。



 同時刻、シバニア国の城の広場で。



「僕が助けに行ったら、彼女は喜んでくれるだろうか?」



 刀身に映る自分を見つめながら、王子は問うた。



「王子、心配は無用です。きっと喜んでいただけると、私は確信しております!」



 王子の心配を拭いさるため、隣に立っていた側近そっきんは告げる。

 側近そっきんは姫と王子が仲良くなるチャンスになるかもしれないと意気込んでいた。



颯爽さっそうと姫の窮地きゅうちを救った王子に、間違いなく姫はおれになられるでしょう! 王子はこう言ってください。『愛しの姫よ! 私が来たからにはもう心配いらないっ!』と。それに姫は答えるのです!『きゃー王子様! 素敵ですわ! 私と結婚してくださいまし!』とっ!」


「お、おうっ!」



 側近の言葉に王子はどもりつつも威勢良く返事をする。

 そうしたやりとりを終え、側近が人一人分の高さを持つ台から降りると、王子は正面を向いた。


 そこでは、数万の兵士が王子の指示を待っている。


 姫の居場所を掴んだルバニア王国は、ルドマニカに攻め込もうとしている。



「アリーチェ姫を! 助けに行くぞー!」



 王子は軍勢に叫びかける。それに応える合唱は、この日、シバニア国を震わせた。



 ○○○



 アリーチェ姫を誘拐した功績で、ルドマニカの工作員となったカルロは、王から与えられた自宅にて、仕事の準備をしていた。

 仕事に使用する服装をどれにすべきか、クローゼットの前で彼が選定せんていしていると、ふと、ある一着が目に入る。


 アリーチェを誘拐した時に使用したローブだ。


 カルロの手が自然とその真っ黒なローブをクローゼットから取り出す。

 裏側には、洗っても取れなかった汚れが今もあった。


 忙しさで忘れていたアリーチェのことをカルロは思い出してしまった。王の居室で助けを求めてきた時の彼女の顔。彼女から視線を逸らした自分の行為。それらが心に浮かんで、胸を引き裂く。



「工作員になったことで、仕事には困らなくなったんだ。これでいい。これでいいんだ……」



 自分に言い聞かせた言葉が、誰もいない部屋に響く。


 アリーチェを誘拐する前、彼は失業にあえいでいた。

 内政をおこたる王のせいで、就業環境も就業状況も酷かったため、彼は大金を得ようと、姫の拉致依頼に手を出した。

 大きな国力を持つシバニア国の姫を拉致するのは命を落とすかもしれない博打だったが、彼を止める者はいなかった。独り身だからだ。


 打った賭けに彼は勝った。そう、勝ったはずなのだ。


 丈夫な家を渡されたし、報酬は一生暮らしていけるだけのものをもらった。大嫌いな王の命令に従わなければならないのは癪だったが……。カルロは当初の目的を達成している。


 それだけに、不思議でならなかった。


 彼は手に持っていたローブをクローゼットに戻し、他の暗色系等の衣服をあさりはじめる。

 しかし、思い出してしまったアリーチェの切なげな顔は一向に消えようとしてくれない。意識しないようにすればするほど、彼は苦悶する羽目になった。



「くそったれ……!」



 手に持っていた衣服を床に投げ、ベットに倒れこみ、体に入っていた息を抜く。

 仕事までそれほど時間もなかったが、このままでは準備もままならない。どうすれば胸の痛みがやむのか、カルロには分からなかった。

 とにかく彼は気分を変えるためにベットに身を預け続ける。


 天井を眺めながら、物思いにふけった。



「敵だ、敵襲だぁぁぁ!」



 うねるような思考に割り込んだのは、窓から聞こえてきた悲鳴のような兵士の声。

 穏やかでないそれに、なにごとかと部屋の窓から外を覗いて、絶句する。否、絶句するしかなかった。

 遠くからでも見える、確かな大軍。山と城が隣接しているにも関わらず、堂々と正面から現れたのはやはり、ルドマニカが小国であるが故か。翻る旗のマークを見て、シバニア国がアリーチェを取り返しにきたのだと、瞬時にカルロは理解した。


 そして、次に思い至ったのは、アリーチェともう会えなくなってしまうかもしれないという事実だった。


 自分とアリーチェはもう関係ないはずなのに、このままでは後悔するーーーカルロはそう直感した。

 彼女を助けてどうするのか、どうしたいのか、彼には分からなかったが、危機が迫る状況で、彼はもう、行動せずにいられない。



「カルロ殿! カルロ殿!」



 一階の玄関の扉を叩きながら彼の名を呼ぶのは、おそらく王の要求を伝令するためにやってきた兵士のものだろう。

 しかし、カルロはそれを無視する。背中側が汚れたローブーーーアリーチェを拉致する時に使ったローブに彼は素早く着替えた。腰には短剣及び小道具の詰まった袋を装備した。

 そして、一階に降りて、彼は玄関を飛び出す。



「カルロ殿! 王より伝令……カルロ殿!? 待っていただきたい! カルロ殿ー!」



 伝令しに来た兵士を置き去りに、灰色で無骨な城に向かって彼は疾走した。

 目的地はただ一つ、アリーチェの収監されている地下牢だ。



○○○



「う゛っ!?」



 暗闇から忍び寄ったカルロは、見張りをしている老齢の男を気絶させる。

 力の抜け切った体を今しがた降りてきた階段の下に移動させる。そのまま地面に倒れ伏した男のポケットから牢屋の鍵を取り出し、すぐさま彼は走り出した。



「アリーチェ!」



 カルロは叫んだ。暗闇に自分の声だけが反響する。 



「アリーチェ、アリーチェ、アリーチェ……!」



 彼女の名前を連呼しつつ、広い地下牢を闇雲に駆けずり回った。



「はぁ……はぁ……アリーチェ……! アリーチェッ……!」



 息が絶え絶えになってもなお、カルロは彼女の名前を呼び続ける。

 すると。



「……ルロ?」



 ほんの僅かだが、アリーチェの声が彼の鼓膜を震わせる。振り返れば、そこにアリーチェがいた。



「アリーチェ!」



 即座に彼女を収監する牢に走り寄る。

 彼女は一枚だけの毛布にくるまり、眠気眼を擦っていたが、カルロの姿に目を見開いた。



「カル、ロ……? カルロ。カルロ! 助けに来てくれましたの……!?」


「ああ、まあ、そうなるな……」



 目の前にいる人物が夢などではなく、カルロ本人であることが認知に達すると、アリーチェはすぐに駆け寄った。

 鉄格子を両手で掴んで顔を寄せるアリーチェのほおには、暗闇にもかかわらず、光り輝く雫が伝う。

 カルロは彼女を思い切り抱きしめたくなった。



「待ってろ、今出してやるからな……!」



 カルロは看守から奪い取った鍵の数々を手当たり次第鍵穴に入れた。十、二十と試行回数を重ねて、ようやく錠が解けた。それと同時に牢屋から飛び出したアリーチェは彼に抱きつく。

 数日間会えなかった時間を取り戻すように、カルロも背中に手を回した。



「カルロさん……私、カルロさんに嫌われていたのかもしれないと、思ってましたわ。胸がきゅうきゅう引きつって、苦しかったですの……」



 胸に顔をうずめたままそうこぼすアリーチェの体は、かすかに震えていた。

 肌でそれを感じるカルロはとにかくそれを受け止める。



「そんなわけ、ないだろ……」



 恥ずかしくて、小声でしかささけないカルロだったが、その声は優しく、慈しみに満ちていた。

 心が温かくなるようなひとときに、欠落していたものが充填じゅうてんされていく。その感覚に、アリーチェはずっと身を預けていたいと願ったが、カルロは彼女の肩をつかんで引き離す。



「あっ……」


「行こう。ずっとここには居られねぇんだ。シバニア国の軍隊が、お前を取り戻すために攻め込んで来てるから」



 アリーチェに「いくぞ」と言ったカルロは、彼女の手を取って走り出した。


 城の一階に出ると、自然と耳に入ってくるのは兵士と兵士がぶつかり合うことで生まれる絶叫だ。どうやらもうすでに城内にシバニア国の兵士は侵入してきているらしい。



「くそっ……予想よりも早すぎる!」



 国力が乏しいルドマニカと、大国であるシバニア。攻撃側の戦力が敵陣地の兵士を駆逐するためには、防御側の三倍の兵士が必要などと言われることがあるが、シバニア国の兵士数はルドマニカの兵士数より三倍以上多く、さらに、兵の質でもルドマニカを圧倒している。

 甚大な戦力差ゆえか、あらゆる城内の出入り口から雪崩なだれ込むようにシバニア国の兵士が入ってきていた。

 正規の出入口から脱出しようとしたところで、敵がいるのは必然だ。



「上にしかいける場所はないな……」



 その感想に従い、カルロはアリーチェの手を引いて階段のある方へと走りだした。

 防戦一方で苦しむ兵士達の悲鳴は徐々に近づいてきている。


 走っている最中、希望的観測に従って窓の外に視線を走らせるが、いつ見ようとそこには城を包囲する兵士の姿があった。

 となれば、進める場所はやはり、上階しかない。

 カルロとアリーチェは階段を駆け上がり始めた。


 しかし、出口が兵士の山で塞がれているからといって、このまま階段を登り続けるだけでは逃げきれない。城がどこまでもずっと伸びていればわからないが、そんなことはない。捕まらずにやり過ごすには早く城の外へと出るべきだ。


 思考を燃やしたカルロは、三階まで来たところで、一、二階の屋根を利用して、脱出するのを決意した。

 もちろん城全体が兵士に囲まれているが、最上階に行って万策尽きるよりも逃げ切れる可能性はあった。


 幾分いくぶんかある追っ手との距離を消費して、短剣のつかで窓を破壊したカルロは、ロープのついた鉤爪を道具袋から取り出し、窓枠に引っ掛けた。



「外に出るぞ!」


「はぁ……はぁ……。か、カルロっ、さん……! 少し休憩をっ……! って、ちょっと、ちょっと待ってくださいですのっ! きゃあっ!?」


「そこまで来てんだよ! 待ってられるか!」



 くたくたになって床に座り込んでいるアリーチェに近づいたカルロは、いきなり彼女をお姫様抱っこした。

 突然の行動で、アリーチェの頰に朱が差す。人生で初めてのお姫様抱っこ。軽く握られた片手を思わず口元にいざないつつ、上目遣いでアリーチェはカルロを見やる、


 刹那せつな


 彼はアリーチェを、肩に担ぎ直した。



「へっ?」



 拍子ぬけた声が彼女の口から零れていた。

「しっかり掴まってろよ!」そう注意を促すカルロに、さっきまでときめきを感じてしまっていたアリーチェは、ほっぺを膨らまして、むくれる。

 生憎その顔は彼の死角なのだが。

 彼はむくれたアリーチェを担ぎながら塔の城壁を下りはじめた。それに伴い、振動が彼女を襲う。



「むっ……むっ……むっ」



 仏頂面のアリーチェが、カルロに運ばれて行く。

 頰を膨らませているせいで、聞きなれない奇妙な声が、アリーチェの口からもれていた。



「お前、変な声出して、どうしたんだ?」


「なんでもないですわっ! それに、しかたがなかったですもの!」


「?」



 よくは分からなかったが、以前虹を吐かれたいきさつを思い出し、結局カルロは体があまり振動しないように配慮する。

 心中拗ねていたアリーチェはふくれっ面を保っていたが、実際酔って吐きそうになっていた彼女は、カルロの気配りに少しだけ機嫌を直した。



「いたぞ!」



 シバニア国の兵士達が、今しがた脱出してきた窓から顔を覗かせて言った。

 急がなければ、兵士達に捕まってしまう。だが、追いつかれないように頑張れば、アリーチェの虹に被弾するのは必須だ。



「か、カルロさん、このままじゃまずいですの」


「いや、大丈夫だ」



 不安がるアリーチェにカルロはそう答える。

 彼女が心配がるように危機的状況だったが、彼はいい作戦を思いついていた。

 兵士たちがロープに手をかけた、その時。



「あー、三人もこのロープは耐え切れないかもしれないな〜」



 盛大で白々しい独り言が彼の口から発された。



「おい、あんなこと言ってるぞ!?」


「バカッ! あんなのハッタリに決まってる! いくぞ!」


「おい待て、待つんだ! ハッタリだったとしても万一姫が落ちてしまうなんてことがあれば……!」


「「「(ゴクリ)」」」



 本当はその程度でロープは切れたりしないのだが、シバニアの兵士たちは明らかに動揺している。下手に行動して姫を屋根に落としてしまっては、自国民に槍玉にされてしまうだろう。

 ロープが細く、脆そうに見えることを利用したイカサマがうまくいったことに、カルロは心中でガッツポーズしていた。

 このまま地上の兵士に気づかれることなく、城の外に脱出してしまおう。

 そう思い至ったが、現実はそう甘くなかった。

 カルロが無事に二階の屋根に到着寸前というところで、



「屋根に乗ったぞぉぉぉぉぉぉぉ!」



 三階の窓から、大声が響き渡る。地上にいる兵士たちにも十分に聞き分けられる大音声。

 屋根の上に立ったカルロとアリーチェは一身に大群の視線を浴びせられた。



「みんな私たちを注目していますわねっ! こんなに大勢の視線をあびるなんて、お姫様になった時以来ですわ」


「どうしてお前はそう危機感にかけるんだよ。くそ、逃げるぞ!」


「きゃっ!」



 カルロはアリーチェの手を少し乱暴に取り、屋根の上を走り出す。



「えへへ……!」


「言っとくけど、褒めてないからな」


「ええ、わかってますわ!」



 (こいつ絶対にわかってないな)


 内心でそんなことを思いながら、逃走に集中する。

 背後の追っ手から距離は離れたが、余裕が十分にあるわけではない。兵士は刻一刻とこの棟を取り囲みつつある。この状況から行ける場所は僅かだ。一番逃げ切りやすいところをいち早く発見し、そこに突っ込まなければならない。


 二階の屋根から一階の屋根に降りて、二人で降りられる場所を見つけようと、カルロが視線を走らせていた時だ。

「アリーチェ姫ーっ!」という凛々しい青年の声が、屋根の下からカルロの耳に入った。視線を地上にやり、映ったその姿に、彼は足を止める。

 唐突だったためにアリーチェは彼にぶつかり、何事かと彼女も声の方を向く。

 そこにいたのはシバニア国の王子だった。カルロの動きを止めたのは、声に秘められた真剣さが原因か。



「アリーチェ姫! わたしは、あなたのことを助けるためにこのルドマニカにやって参りました! 必ずあなたのことを救ってみせます! 待っていてください! そして、一緒に国に帰った暁には……」



 カルロのことをガン無視して喋っていた王子は、そこで言葉を区切ると、顔を赤く染めて言った。



「ぼ、僕と、けっこん、してください……!」



 どもった上に、小さくなった声での、告白。

 地位もある。金もある。権力もある。それでいて王子は純粋かつ素直で、おまけにアリーチェに惚れ込んでいる。仕草の端々から如実にそれを感じとったカルロは、絶望していた。

 ーーー人生において、ようやく見つけた軸になるものを、唐突に奪われ、路頭に迷っているような、そんな感覚だ。


 思えば、彼はつまらない憶測を信じていたのかもしれない。拉致されることを微塵も嫌がらなかった、いや、それどころか喜んでいたアリーチェ。彼女が拉致されたがっているのは、きっと、結婚する予定だと噂された王子の性格が下衆げすだからだと、カルロは勝手に思っていたのだ。

 しかし、それは違った。姫の返事を真摯に待つ王子は、自分よりも彼女を幸せにできる人だと、カルロは思った。地位も金も権力もない自分といるよりも、あの真摯な態度で答えを待つ王子と一緒になった方が幸せだろう、と。

 

 カルロが、アリーチェに王子との結婚を勧めようとした時。



「嫌ですわ」



 彼女は短く告げ、そして、言った。



「私、カルロさんと結婚しますわっ!」


「「は?」」



 とんでもないその言葉に、意図せず声が重なった。

 無理解の静寂が流れた。



「その、カルロさんは、私に初めての経験をさせてくださいましたから……」


「恥ずかしそうに言うんじゃねぇっ! 誤解を生むだろ!?」


 

 朱が差した頰をその美しい手で隠しながら、そわそわするアリーチェ。もちろん彼女が言っているのはカルロと一緒に森で過ごしたことについてだろう。

 だが、なぜか恥ずかしそうにしている彼女を見ていると、違う意味が含まれているように感じられても仕方がない。

 王子はどう捉えただろうか?。カルロは内容の齟齬(そご)が生まれていないかと、地上に視線を落とす。


 俯いている王子の顔をカルロからは見れなかった。

 しかし、代わりに耳に届いた。



「殺す……殺してやる……姫のはじめてを……許さない……!」



 怨念おんねんがこもった、呻き声とも取れる言葉の数々が。


 空気が恨みに震える。これ以上入らないくらい水に満たされたコップに、あまつさえ水を注いだ時のように、王子の嫉妬は次々にあふれた。

 尋常でない様子に、カルロの背筋に冷たいものが走った。自然と足を後ろに下げると、王子は敏感に反応した。



「逃げるなぁあっ!」



 (どうも、この調子じゃあアリーチェを返却しても延々と追いかけてきそうだ)



「まったく…………お前があんなこと言うから……」



 そう愚痴をこぼすカルロの口角は、不敵に釣り上がっていた。



〇〇〇



 青空の下、屋根の上では剣戟けんげきの音が鳴り響いていた。



「くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! くたばれぇぇぇぇぇ!」



 そう叫びながらカルロに突っ込んでくるのはシバニア国の王子だ。

 妬みの感情が臨界点を突破しているのか、後先考えない全身全霊をかけた王子の突撃を彼は短剣で受けとめる。

 醜悪に歪んだ面持ちの王子とカルロが相対そうたいする中、背後では、「カルロさん頑張ってくださいですわーっ!」と呑気に声援を送るアリーチェと、彼の逃亡を許さぬよう、包囲しろと王子に命じられた多くの兵士たちが、固唾を呑んで戦闘の行方を見守っている。


 まったく呑気なものだと、カルロは感じざるを得ない。

 短剣で王子の剣を弾き返すと、一旦距離をとる。

 改めて王子の顔を見る。嫉妬と復讐心で黒く染まったその顔は、やはり恐ろしかった。


(一人で戦うのは、正直御免被(ごめんこうむ)りたい)


 こうした一対一の戦いに発展したのは、王子の復讐心が原因だ。王子が激昂した後、背後から忍び寄っていた兵士にカルロは一度捕らえられたのだが、解放された。なぜなら王子がそう指示したからである。

 カルロは初めその意図を掴みかねていたが、次に放たれた言葉で全てを理解した。王子は言ったのだ。『そいつは俺が殺す……! 逃げないようにだけ包囲しろ!』と。

 つまり、王子は直々にカルロを力でねじ伏せ、自らの手で天国に強制送還したい、と考えているらしい。

 

 王子が強い復讐心を持っているのを認めて、彼は逃げるのをやめた。

 逆に現況を利用し、王子を下せば、諦めるかもしれないと思ったからだ。



「姫を、姫を返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」



 しかし、王子と決着を着けるのはたやすいことではなかった。



「ぐっ……」


「カルロさん!」



 強烈な刺突。感情で躍起になっているせいか、ただでさえ速い攻撃がさらに速さを増し、カルロに襲いかかった。間一髪でその一撃を避けるも、態勢を崩した彼は強烈な蹴りに反応できない。


 ようやくカルロを傷つけることに成功した王子が、その顔に愉悦の感情を覗かせた。それを見て、彼は舌打ちをするしかない。

 短剣をしばらく交えて彼が思い知ったのは、わずかに及ばない力の差があることだ。


 したがって、カルロは他の手段を模索し始める。

 現状王子を打倒することができない以上、逃げるべきか。それとも、少ない可能性でも勝利を信じ、戦い続けるべきか。



「カルロさん! 反撃ですの! 反撃しないと負けちゃいますわ!」



 アリーチェは口の周りに手を添え、一生懸命に声援を送っている。

 しかし、カルロはそれに応えることができない。攻撃の嵐。それが小回りが効くはずの短剣を装備した彼に、応答も攻撃も許さないのだ。

 このままでは、敗北の末に、殺されてしまう。


 生きるべき理由を見つけたのだ。すぐに死んでしまうだなんて、自分がそれを許さない。



「どうしたんだぁ? さっきよりも動きが鈍いぞ?」


「チッ……」



 しかし、力の差は疲労に乗じてどんどん露呈ろていしていく。

 鋼と鋼が擦れ合い、耳を塞ぎたくなるような高音が脳を揺った。短剣で王子の攻撃を防御するカルロの歯はきつく噛み締められる。


(戦って勝てないなら、逃げるべきか……? 無理だ。アリーチェと一緒にここから逃げるなんて)


 即座に否定的な見解を自答した。カルロの前と後ろには兵士の垣根が構築されてしまっているし、右か左に進もうものなら地上に真っ逆さまだ。

 打開できない、現状。


 カルロは歯噛みした。

 戦うにせよ、逃げるにせよ、力が足りない。どうにもならない。


 だから、妥協しなければならなかった。


 王子の三連撃をカルロは必死に避け、距離をとると、寂しげな表情をアリーチェへと向けた。

 それがなんなのか、彼女はわからなかった。



「よそ見している余裕があるのかな!? なっ……んだとっ!?」



 続いて、驚愕が王子の口を突く。無理もない。カルロは地上に向けて飛んだのだ。一階からだとはいえ、屋根の上からのジャンプ。着地の衝撃は甚大だ。

 兵士や王子は彼が自暴自棄になったのだと思った。骨を折り、出血し、動くこともままならなくなると皆が思った。


 しかし、彼は見事に着地の衝撃を前転して受け流した。

 屋根の上に分厚すぎる包囲網を構築したために、地上に兵士の姿はない。

 悠然とした様子で体の砂埃を払いつつ立ち上がるカルロ。



「カルロさん!」



 その背中に、アリーチェは呼びかける。彼は顔の半分を彼女に向けた。

 遠くからでもわかる、寂寥(せきりょう)感が溢れていた。



「…………………………じゃあな」



 長い沈黙の末に呟かれた、短い別れの言葉。

 アリーチェはそこで、ようやく彼が一人で行ってしまうことを悟った。

 呆然としていた兵士をかいくぐり、屋根を踏み鳴らす音が響いたのは、その刹那だった。



「姫?」


「ひめ……!?」


「姫ぇえぇぇえぇえぇぇぇ!?」



 兵士たちの驚愕が澄んだ青空へと響きわたった。

 アリーチェは空へと羽ばたいた。鳥でもないのに、カルロに向かって、彼女は飛んだ。

 もちろん、重力に従って下へ下へ加速していくのは言うまでもない。彼女の鼓膜を空気が荒々しく震わせた。


 誰よりも驚いたのは、おそらくカルロであろう。「いきますわよ!」と言って落下してくるアリーチェをキャッチするのならともかく、なんの前触れもなく飛んでこられては、受け止めることすらできるかどうかわからない。

 とはいえ、なんの鍛錬も積んでいない素人が高所から落ちれば重態になること間違いなしだ。死もありえる。放置なんてしておけない。

 故に、カルロは目に涙を浮かべながら落下してくるアリーチェをキャッチするために、走った。


 地面まで約三エイレル。このままでは彼女が顔面から地面に落ちてしまうかもしれない。不安感が彼の動機を激しくする。

 墜落を阻止するために、カルロは健脚に力を込めた。

 地面まで約二エイレル。アリーチェと大地の激突が未だに予期される中、カルロは体を前傾させ、さらに加速する。

 地面まで約一エイレル。



「間に合え……!」



 アリーチェが落下する地点に、全力で駆け込んで行く彼は切実に願う。

 その願いは彼だけでなく、屋根の上から姫の行く末を見守る王子と兵士も同じだった。

 カルロとアリーチェの影か重なる。



「ぐえぇ!?」

 


 カルロはアリーチェの着地地点になんとか体を滑り込ませることに成功した。

 身を呈した捕球ならぬ捕アリーチェに、屋根の上にいる一同もホッとする。



「カルロさん、助けてくれると、わたくし信じていましたわ……!」



 彼に覆いかぶさったアリーチェはおずおずと固くつむった瞳を開けると、体を起こし、信頼を口にする。

 しかし、返事は未だ返ってこない。



「カルロさん……? カルロさんっ!? 嘘……!」



 無理もない話だ。いくら彼女が軽いとはいえ、屋根の上から落下してきた人の衝撃はなかなかのものである。

 加えて、彼がアリーチェを受け止めた部位が、悪かった。



「そんな、嘘、いや。いやぁ! 死なないで、しなないでぇ……!」



 信じられない、信じたくない出来事が彼女の涙を誘う。弱々しく握られたこぶしでカルロの胸を叩くアリーチェはさながら、親の死を受け入れられない子の様であった。

 悲劇の一幕はあたりに静寂をもたらした。ただ、響いているのはアリーチェの泣き声だけ。



「どうして、わたくし、そんな、ひっく……私が飛び降りたからぁ″、私が飛び降りなければこんなことにはぁ″ぁ″あ!」


「なってないよな」


「へっ……?」



 死体になってしまったと思っていたカルロの身から声を聞いたアリーチェは、呆然とする。



「カルロ、さん……?」



 空耳ではないかと思ったアリーチェは、カルロの身に呼びかける。

 彼は「おう」と呼応した。



「カルロさん……?」


「ああ」


「カルロさん……?」


「おう」


「カルロさん……?」


「おう……って、しつけぇな!? 生きてるから! 俺!」



 盛大につっこみをいれると同時に、アリーチェは嬉し涙を浮かべて彼に抱きついた。彼女は泣き叫ぶ。



「よかったぁ゛ぁ゛」


「ぐおっ!?」



 勢いよく飛びついたアリーチェから軽いダメージを受けつつも、カルロは彼女を抱きかえし、幸せに浸った。

 そして彼は知ったのだ。



 あの時、なぜ心が痛んだのか。そして、なぜそれを思い出している間、苦悶する羽目になったのかを。



 心中で呟いた言葉が、胸の内で服をぐしゃぐしゃに濡らしている彼女の存在を、よりいっそう愛おしいものへと昇華する。

 カルロは腕に込める力を強めた。



「ああ、もう、お気に入りの服がめちゃくちゃだよ、まったく……」


「ごめんなさいですの……」





 

「ああ、いい話だなぁ」


「俺ももらい泣きしちまったよ、ひっく」


「よかった、本当に良かったぁああ!」


「…………って、何をぐずぐずしてるんだ! 早く行け!」


「「「は、ハイィィィッ!」」」



 兵士達が口々に感慨を口にする中。いち早く感動的な場面から復帰した王子は再び怒りを取り戻し、指示する。



「おっと……俺たちもぐずぐずしているわけにはいかないな!」


「はいですわっ……! 行きましょうカルロさん!」



 カルロはアリーチェの手を取り、再び逃げ切るために走りだす。もう離さない。そう誓って取った手はしっかりと握られている。


 世間のことは何も知らないお姫様。我儘で自由奔放。思ったことはすぐに口に出すし、これからも厄介ごとをたくさんカルロにもたらすに違いない。

 面倒事が嫌いな彼だが、災いの種そのものと言える彼女とうまくやっていけるのかと、心配するのは野暮だろう。



「これから逃亡生活か。大変だな、まったく」

 


 なぜなら、カルロの口角は楽しげに上がっているから。

 衝突も絶えないかもしれない。だが、きっと楽しくやっていける。



「なにかいいましたの?」


「いいや、なにも?」



 太陽はこれから訪れる夜を祝福するように、温かなオレンジで青空を染める。二人の顔が、暖かい光で包まれた。



〇〇〇 エピローグ 〇〇〇



「よっしゃっ! 獲ったぞ!」


「まあ、あれから成長しましたのね?」



 いつかのように川の中に足を踏み入れる彼の手には、立派な魚が掴まれている。


 カルロとアリーチェはルドマニカの国土から脱出し、隣国に逃げようとしていた。他国の国境を利用すれば、追跡の手が遠のくからだ。

 目的の国に向かうため、二人は山の中を通過途中である。


 状況から分かる通り、今ばかりは食材を得るために、魚のつかみ取りを行なっているが。



「ふん、もう勝負に負けたりなんかしないぞ。これで俺の勝ち……ってあぁっ!」


「…………前言撤回しますわ。やっぱりカルロさんは下手くそですの!」



 手にしていた魚が急に暴れ出し、水がちゃぽんという音を立てる。本人の意図しない見事なキャッチアンドリリース。ここまでくるとアリーチェの言も仕方がない。



「カルロさん言ってましたわよね? 追手がまだくるかもしれないから、あまり時間はかけられないって」


「ぐぬぬ……!」



 アリーチェがそうカルロをからかった時だった。



「いたぞー!」



 大きな叫び声が下流から聞こえた。追手だ。



「そんな、まさか、本当に来ましたの!?」



 そのまさかである。自分で言っておいてなんだが、本当に来るなどと、彼女は予想していなかったのだ。



「やばい……行くぞ!」


「嫌ですの! お昼ご飯抜きだなんて!」



 アリーチェは今日もいつも通りに我儘だった。兵士が後ろから来ているというのにのんきに魚なんかとっていては、捕まってしまう。にもかかわらず、駄駄を捏ねるアリーチェにカルロは頭を抱えたくなった。



「だぁー! まったく!」


「いやですのっ! お腹が、空いちゃいますの!」



 言うことを聞かないアリーチェを担ぎ上げ、荷物を整えるとカルロはその場から逃げ出す。



「あぁー! おさかなさぁぁぁん!」



 森に悲鳴が木霊した。

ここまで読んでくれてありがとうございます! 駄文ですが、楽しんでいただけたなら幸いです!

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