第一途 ブタイエンゲキ
人は簡単に殺されるのよ。
その理由は分からないほどたくさん。
でもね、
踊りの前では何のことはない。
ただ死んだだけ。
ただ生き返ればいいのよ。
精霊の舞踏譜
第一途
~ ブタイエンゲキ ~
一、 慙悔
「私ね、今朝猫の手を食べてきたの」
授業と授業の合間、同じ教室内で会話する同級生の話にドキリとし、彼女を見る。
「はあ~?」と言い返し馬鹿にする彼女の友人と、「嘘に決まってんじゃん」といって「実はさ」と本題を切りだす彼女。「なんだ」とその二人を見るのをやめる他のクラスメートたち。そのどれにも属さなかったのは、クラスの中でただ一人だけだった。
中西由美――。
二か月前、隣のクラスの無二の親友を交通事故で失った高校二年生。
一年以上の片想いの末、一昨日告白して、その僕をフッた女子。
「……」
中西一人だけが、「猫の手食べたの」の方へ注意を向けず、ボロボロになるまで使い込まれた日記帳のようなノートに目を落と し、ページをめくっている。
疲れてくぼんだような目元が白桃色に染まっている。ユリの花みたいに。
閉ざした口の端はわずかだけど、湖面に生じた波紋のように形状をそっと変えている。
その泣きだしそうな、あるいは笑いだしそうな不思議な表情を僕は部屋の隅の机に座ってそっと見、すぐに視線を外した。
「ふう」
目をつむる。
僕――。
金井智宏。
どこにでも転がっている、どこかに転がっている類いの高校二年生。
特技は、たぶんない。
ゲームセンターに独りで行って、百円だけで乱入アリの格闘系アーケードで何時間粘れるかにこだわるぐらいしか趣味がないヒョロ助。
どこにでも転がっていないのはこの学校。
一応は私立の中高大一貫校。
ある程度の学力か結構な金がないと入ってこられないらしい。
当然僕は後者。
学力なんてからっきし自信がない。
中間、期末、学力到達度テスト、外部模試……どれを何度やっても踏みつけられた雑草みたいなみじめな点数しかとれない。E判定ばかり。
運動の方は……どうでもいいや。
そんなすごい学校に通う、たいしたことのない僕が、高二の夏、中西に恋をした。そして冬、告白をした。何の手順もふまず、根回しも前触れもなく。
「放っておいてくれない?」
告白をした段階で、中西の友人にあの臼井百合花がいるなんて、僕は知らなかった。
知っていたら、このタイミングで告白なんてしていない。自制する。僕だってそれくらいの空気くらい読める。だけど本当に全く知らなかった。
二か月近く前に交通事故死した同級生の臼井百合花が、中西の友達だったなんて……。
だから彼女の穏やかなじゃない心の内を予期することができなかった。
「誰かと付き合っているの?」
テンパった末に出た、つまらない問い。
「仮にいるとして、その質問に答える義理はないでしょ」
全くその通り。そして「いる」「いない」の問題じゃなかった。
「あっ、うん。ごめん……ねえ、僕ってその、ウザい?」
どうしようもない、問い。
「知らない」
ツヤのある長い黒髪の下、紙のように白い顔がうつむく。
「第一そんなことはどうでもいいから」
再び持ち上げた顔の、カヤで裂いたような切れ長の目が僕を射抜く。
その視線に耐えきれず、僕は目をそらす。切り刻まれているような気分。
「ねえ、あなたの命を私にくれない?」
?
ショッキングな言葉が、僕の耳にそのとき届いた。当然驚いて中西を見る。
「へ?」
「臼井百合花って知らない?隣のクラスの子。髪は短くてまつ毛の長い、甘そうな唇をしてサフラン色の瞳をした百合花は私の友達なの。だけどこの間乗用車に衝突したトラックが飛ばしてきた板ガラスの破片で両手と眼をなくして、ついでに内臓にガラスをめり込ませて苦しみながら病院で失血死したの」
何かが猛烈なスピードで中西の口から飛び出していく。
異常なほど細かい説明……のような形をした何かが、彼女の唇とその周りの筋肉を動かしていた。
「もう一度言うわ。しなやかな両手と、サフラン色のきれいな眼よ。それでもし、彼女を生き返らせるために誰かの命を私が必要としていたとして」
取りつかれたように一気にしゃべっていたその速度が落ちる。細い目の中の瞳が、光に透かした赤ワインみたいな色になる。
「あなたは私に自分の命を差し出すことができる?」
「……」
何を言っているかすぐには分からなかった。
「えっと、あの……」
命をよこせ?そう言ったのか?
「冗談だから気にしなくていいよ」
瞳の色が黒くなる。いや最初から黒かったのに、こっちの気持ちでそう見えただけかもしれない。とりあえず何て答えたらいいんだ?頭がようやく回り始めたその時だった。
「……ウザいかどうか聞いたよね?『ウザい』の意味が『とりあえず要らない』っていう意味ならば、私にとってあなたはウザい。……話は終わりよ。さようなら」
言って、僕の前から去っていく。その時僕はようやく彼女の苦しみを知った。同時に自分の無知を恥じた。そういうことになる。
それからというもの、彼女をまともに見られなくなった。まともに見れば、自分を追い詰めたくなる。間抜けな自分が死ぬほど恥ずかしい。無論向こうは、部屋を舞うホコリほどにもこっちを気にしていないだろうけれど。
「起立。気をつけ。礼」
授業が終わる。帰りのショートホームルーム。
「さようなら。気をつけて帰れよ」
「何に気をつければいいのか教えてくださいよ先生」と思いながら教室を出て行く担任を見送る。それから見つめたのは、僕の握る自在ボウキの先にくっつく紙屑やホコリ、食べカス、女子の髪の毛。誰かさんみたいにゴミ箱がお似合いな連中。
掃除を放課後、僕はいつも通りまっすぐ家には帰らず、ゲームセンターに行って時間をつぶす。
ガチャガチャ。クレーンゲーム。音ゲー。格ゲー。シューティング。カード自販機。たばこ。トイレ。フィギュア展示。缶コーヒー。コインゲーム。クイズゲーム。その雑多と騒音の一部になりに、僕はゲームセンターに入る。
時間をつぶしたくて、というのは正確じゃない。
どちらかというと、格闘ゲームに集中することで、こんな自分のことを考えないようにするためだった。
ほんと……イタイやつ。
傍からみたら間違いなくそうだ。
「イタイ」次いでに、もし叶うのならダンゴムシにでもなってヘクソカズラの生えている土の上でも歩いていたかった。そうして一日中ヘクソカズラに頭をぶつけてその悪臭を浴びていたかった。
それくらいしないと耐えられない気持ちだった。でも、ダンゴ虫にもなれそうにないし、仮になれたとしてもヘクソカズラはこの辺には生えていなかった。
もちろんゲームセンターにも。あるのはゲームセンターの前に立ち並ぶ、ポプラの裸木ぐらいだ。僕とは違って気高い。そして何より美しかった。
「はあ、ゴミだな。僕って」
いつものように日が暮れた頃、とぼとぼと独り店を出て定期で電車に乗り家へ帰ろうとした。
「!」
駅のホームで、中西にあった。
竹のようにすっと背筋を伸ばし、無表情のまま早くも遅くもない速度でさっさっと歩いてくる。そして僕の横を、まるで赤の他人であるかのように通り過ぎて行った。
「……」
中西を見た瞬間、凍りつき緊張と興奮で一時まわりが見えなくなったが、彼女が甘い香りを残して過ぎ去ってしばらくして、自分が完全に無視されていると思い知り、再びへこんだ。
出会った瞬間思わず地面に張ってしまったひょろひょろの根っこがあっという間に根腐れを起こしたような気分だった。根腐れを起こさせた化学物質はきっと流れずに終わった悔し涙だと思う。
「はあ」
せっかく二次元空間で相手をぶちのめして憂さを晴らしてきたのに、これじゃ何の意味もない。いや、意味なんて考えてもしょうがない。
そもそも僕に意味なんてもうないのかもしれない……。そんなことを考えている自分はいつの間にかベンチに腰をおろし、エノコログサの花穂ように背を曲げてうなだれていた。
「……?」
ハッと気づき、辺りを見回す。
時計を見る。夜十時を回っていた。ゲームセンターを出たのが六時五十分だから、三時間近くベンチで眠ってしまったらしかった。
「うん……ぐ」
立ち上がり、伸びをする。思い切り鼻から息をはき、吐いた分の空気を思い切り鼻で吸い込んだ。冷たい空気はうまくもまずくもなく、ただ冷たいだけだった。
「!」
その時、何かの匂いを、鼻が捉えた。
何の匂いか考えているうちに、中西の顔が浮かんだ。
そうだった。さっき自分の目の前を通り過ぎて行った中西がつけていた香水らしき匂いと同じ匂いだと思いだした。
何の匂いだろう?どんな植物とも違う、嗅いだことのない、不思議な匂いだった。
ホームのアナウンスが流れる。電車がホームへ入ってくる。風が巻き起こり、匂いが一気に拡散していく。
プシューッ!
ホームに入った電車の扉が開く。気のせいだと思っていた匂いは、電車の中の方から強く漂っていた。あまりに気になったから、扉が閉まる前に僕は飛び乗ってしまった。
扉が閉まる。電車が発車する。
僕は匂いの充満する車内を見渡す。嫌悪感を抱かせるような匂いじゃないけど、このむせるような濃さは異常だ。誰もこの匂いに気づいていないんだろうか。
それとも鼻が慣れてしまってすでに関心を失っているんだろうか。誰も手で鼻を押さえたり、ハンカチで覆ったりする人はいなかった。そして電車はいくつもの駅に止まる。
けれど匂いはあまり外へ出ていかない。
「あ」
そう思っていた。けれどある駅で突如、匂いが外へ一気に流れ出していった。びっくりするほど勢いよく車内から抜けていった。
なんでだろうと頭で考えているくせに、自分の体は匂いの跡を追うように電車から降りていた。
それは無意識に……ウソ。無意識じゃない。意識はちゃんとある。
たぶん、中西のことが気になって……いや、それもちょっと違う。たぶん中西が気になる自分がこれからどうしていったらいいかわからないから電車から降りたんだろう。
中西を避けて生きたいのか、それとも中西に近づきたいのか。近づきたいとして、近づくためにはどうしたらいいのか。
分からないから、彼女の亡霊のような匂いを、なんとなく追いかけようとしているんだろう。
ふう……こんな具合に自分を突き放して他人事のように考えなきゃ、今はダメみたいだ。ショックを受けたばかりだからかな。
電車のような密閉空間とは違って、匂いはいくらか薄らいだ。その匂いを求めて僕は歩けるだけ歩いた。
スンスン。
匂いは向かう先々でこっちへ曲がれ、あっちじゃないと指示するかのように、はっきりと僕の鼻に信号を送ってきた。そしてその匂いが、とある地点で急に強くなった。
「これは、ちょっと」
階段を下りて地下一階のバーに、匂いは続いていた。
続いているというよりも、そこから匂いは発生しているのかもしれない。
そう思うほど匂いは階段付近で滞留していて、最上段にいる僕の鼻に強く達した。
「どうしよう」
そもそも僕は未成年者だ。酒を飲むのは法律で禁じられている。でもだからといって酒場に入ったら水だけ飲んで帰るわけにはきっといかない。
だったらこんな所は子供の来るところじゃない。帰るべきだった。けれど足はゆっくり、ゆっくりと薄汚れた群青色の急な階段を下りて行った。
古い木製の扉を押す。そしてそのまま、僕は入った。
カラカランッ。
扉に取り付けてあったチューリップ形の鐘が小さく鳴って入店の合図を送る。
ゴクンッ。
入った途端、僕の体は「あとはお前に任せるよ」とでも言うように急に頭に体の支配を譲り渡す。あわてて冴えわたる意識は、「こりゃ終わった」と僕に宣告する。
客は誰もいないから、怖い話でよく聞くキャッチ(ぼったくり)じゃないのか?と思った。
いや、たとえキャッチバーでなくとも、こんな子供が詰襟の学生服を着てバーに入ればみっともない思いをするだけだとも思った。
どれだけ人生に恥を上塗りするつもりだと、ついでに頭は僕に言ってきた。
「……」
バーは僕の世界観よりは大分広く、十八坪くらいの広さがあった。壁は風化して穴だらけになったような歪な灰白色の石を組んで作られていた。
それが弱い白熱電球とロウソクが生み出すほの暗い明かりを受けて、店内で寂しげな陰影をまとっていた。
「寂しげ」に感じたのはたぶん僕がみじめな僕のせいで孤独を感じていたせいもあるだろうけれど、部屋の中を静かに流れるジャズのせいもあったと思う。
色とりどりのお酒の瓶が並んだ木棚を背に、一人の男がカウンターテーブルに両手を乗せて、こっちを静かに見ていた。
店員らしい制服は着ていない。一般客かと思ったけど、彼がいるのは客の座る席とは反対側だった。
それで彼が店員、言うなればバーテンダーであることが分かった。その男がこっちを静かに見ている。
サラサラの銀髪の若い男はしばしの沈黙の後、いらっしゃいと告げてきた。
せめてあざけるように笑いながら「何しに来たんだ?」と言ってくれれば泣きながら謝って店を飛び出せたかもしれない。
けれど笑いもせず睨みもせずそう言われたせいで、どうしていいか分からなくなった。膝に震えが走る。お金なんて持っていない。財布には定期と三百十四円しか入っていなかった。
バーテンは表情を変えず僕を見ていた。その間少し変化したのはテーブルに乗せた彼の指先だけだった。右手の人差し指が二回だけ、机を小さくたたいた。やがてバーテンは背を向けた。
「匂いにつられて来たのか?」
背後の大きな棚に並ぶ瓶を一本手に取りながら彼は言った。その一言で震えが止まる。
そして今、この店内に一切匂いがないことに気づいた。地下の入り口にはあんなに匂いがあったのに……。
「来なよ。金なんてとったりしない」
日本人離れした彫の深い顔の、青リンゴ色の二つの瞳が僕を捉えてそう言った。
「あの」
「なんだ?」
「なんだ?」と言われて、何も僕にはないことに気づいた。結局バーテンに言われた通り、彼のいるカウンターの席に向かった。
「座るといい」
僕は席に座る。
僕の隣に僕のカバンが座る。
僕の味方と言えばこの中身空っぽのカバンくらいしか今はいなかった。
そして敵かどうかは分からないがバーテンはカウンターテーブルの向こう側にいて、境界を意味するカウンターには規則的にロウソクが数本立ち並び、か細い火を灯していた。
バーテンの男はギョーザの皮より少し大きい、白くて丸いボール紙のようなコースターを僕の前にそっと置いた。
紙にはどっかの国の王家の紋章みたいな竜絵が描かれていた。
しばらくそれに目がいっていたけど、やっぱりバーテンが気になって視線を上げる。
これから一体何をするつもりなのかと思っていると、彼は何もしゃべらず、
僕が王家の紋章に注意を向けている間に用意した色々な瓶の中の液体を小さなゴブレットみたいな容器で一杯、二杯と量りとりながら、
銀でできた底の深いカップのような容器へと手際よく移していく。
そして最後、カップに砕いた氷を入れ同じようなカップの形をしたふたで閉め、それを、目を瞑ったままシャカシャカとシェイクし始めた。
白熱電球の弱い光がカップを朧に照らす。ろうそくの光がバーテンの生むわずかな風に揺らぐ。
初めて目の前で見るその不思議な動きに、僕は釘付けになった。そして気づくと涙が流れた。
なんでだろう?
分からない。
分からなさすぎるのに涙が流れる。
けれどカップに耳を真剣に傾けているようなその姿に、今胸の内に僕がため込んでいることをここで話すべきなんじゃないかと感じた。
「……」
透明なグラスにバーテンはシェイクし終えたカップの中の液体を流し入れた。
黄金のような感じの琥珀色の液体が、キャンドルの光りをあやしげに反射させていた。それを、バーテンの男は僕の前に置いた丸い紋章入りの紙の上に置く。
「どうぞ」
「あのこれ、お酒じゃないんですか」
無粋と言えば無粋な、けれど法律上まっとうなことを僕は言った。
「酒……に近いが、酒とはやはり違う。飲みたくなければ飲まなくてもいい。そして俺が君にふるまう親切はこの一杯だけだ」
「……」
「それとも酒が飲みたいのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「自らの時間を殺すような飲み物は、もう少し死に近づいたら飲めばいい」
「?」
何が何だか分からなくなる。
でも目の前で自分なんかのために手の込んだものを作ってくれたのがうれしくて、
そんなカクテルのように混ざった気持ちに背中を押されて、僕は目の前に置かれたグラスの液体を口にそっと含んだ。
氷を含むその液体を喉の奥に送ってしばらくすると、体が芯の方からぽかぽかとしてきた。そして頭がフワリとする感じがした。
「首や肩の力がわずかだけれども抜け、そして浮揚感があるだろう。酒にも多少似た感覚がある。
それが好きな人間は毎夜毎夜酒をあおる。あおりながら、自らのなしたかったことの幻影を追う。
けれど飲んだところで、現実は何も変わらない。時間だけがただ死んでいく。
幻影を追い、一時憂さが晴れたように感じるが、酔いがさめることには気づく。根源的な問題が消滅するようなことは結局ないと」
瓶を布で拭きながら目を閉じたバーテンはそう言い、拭き終わった瓶を再び棚に戻した。
「広田さん、て言うんですね」
「……俺か」
バーテンの話は耳に入っていたが、頭に入っていなかった。そんなことより、自分の話を誰かに聞いてもらいたかった。
だから、自分のことを話す相手のことも少しだけ知っておきたかった。せめて名前だけでも。
「フェナカイト」
「え?」
それはお酒か何かの名前?それとも広田さんのファーストネーム?ひょっとしてハーフ?
「いや。ヒロタでいい」
ハーフだろうとなんだろうと構わない。僕はバーテンの広田さんに、ちっぽけな懺悔を告白した。広田さんは何も言わず、黙ってアイスピックで氷を削り、野球ボールみたく丸くしていた。
クリスタルのように輝く丸い氷が出来上がると、それを用意していた別のグラスにそっと入れ、彼の後ろの棚にあった琥珀色のお酒を注ぎ入れた。
何か思案しているような顔でそのコハク色のお酒をちびちびとのどに流し込んでいる広田さんを見つつ、
僕は自分が中学三年間、陸上部にいて長距離走専門だったこと、
陸上部が活動する校庭に隣接する形でテニスコートがあり、
中学部でエースだった中西由美のプレーを走りながら見るのが部活内で唯一の楽しみだったこと。
漠然とした憧れが次第に好意にかわっていったことなど、恋に落ちたいきさつも含めて全部話してしまっていた。
「いま、いくつ?」
「高校二年生」
「それはつまり?」
「十六、もうすぐ十七歳です」
「この世に生み落されて十六年……そうか」
広田さんは自分のグラスの中の琥珀色の液体を全部喉に流し込んだ。飲み終わったグラスを僕のグラスの少し前に置く。カランッと氷の揺れる音がした。
「リーフェ・ウティウィ・パウトゥン・イズェフォル……」
何かを耳にした。
けれどちゃんと聞き取れなかった。
たぶんちゃんと家まで帰れるのか、聞いたんだろう。そういえば時計は今、何時を指している?
あれ、腕時計の針が、反対に回ってる。訳わかんない。
どうなってるんだ?ああ、きっとお酒なんか飲むからだ……頭がオカしくなったんだ。ほら、広田さんのグラスの中の氷が……燃え始めた。
ジゴクノカマノフタの花みたいだ。濃い、紫色の炎……。
「ウトゥル・トゥートゥ・イピア・ズィヒタブ」
グラスまで燃えた。
それを広田さんは慌てることなく素手で持つ。広田さんの右手の中でグラスは燃え上がってる。広田さんが左腕を軽くひらりと動かす。
弱い照明と周りのキャンドルの火とBGMがふっと消える。
グラスの中の紫の炎がサファイアのような青い輝きに変わる。闇を広田さんの右手が青く照らす。
世界は右手を中心に青く暗く輝いていた。
「これから見せるのは舞踏譜といって、踊りを踊る際、踊り手がどのように足を運ぶかを記号で示したものだ」
「ブトウフ?」
揺らめく青い炎が一瞬強くなったかと思うと、パッと消えてしまった。
周囲は完全な闇に包まれた。
そうかと思うと並べられていたキャンドルに再び火がともり、照明もつき、BGMが流れ、室内は淡いオレンジ色の温かい世界を取り戻す。
広田さんの炎を握っていたはずの手に、小麦色に汚れた感じの、A4くらいの大きさの紙があった。紙の上には左右対称に黒インクで描かれた模様がある。
強いて言うならその模様はA4の紙の真ん中の線を対称軸にしてト音記号を左右に書き、それを気の向くままに崩したり描き足したりしたような感じだった。
模様を構成するその線はよく見ると、人の靴底のようなマークを規則的に並べることで出来ていた。
「さっき君が話した子、中西由美は二カ月前ここに来た」
「えっ!?」
頭のクラクラが一気に吹き飛んだ。左に傾いていた背筋がまっすぐになる。
「今の君と同じように、匂いに誘われてここへ来た……私の焚く香は生きることに絶望した人間を招く力がある。だから彼女はここへきて、死にたい理由を私に話した」
「それ、で?」
「これを渡した」
広田さんはテーブルの上に舞踏譜とかいう紙を置いた。
「これは生命力を代償に本人の望むものを出現させる力がある。信じようと信じまいとこの譜面にある通り、二人が同じ思いで……は人間である以上無理だな。
君を二人用意できる場所、つまり姿を映せるくらい大きな鏡のある空間で、譜面にある通り足を動かし、踊ればいい。描かれている通りに踊ることができたならば望むものが姿を現す。
君の意識がある夜、そして日の昇るまでの束の間だ。これを私は彼女に提示した。自分の命を削ってでも友人に会いたいのなら、どうぞと言って」
「なら、中西は」
「おそらく、幻想を求めて踊りを覚え、幻影を見ているのだろう。毎晩……これは日没から日の出までの間しか使えない。とにかくこれで、見ているのだろう。
命がけの彼女がおそらく召喚しているのは、事故で失ったとかいう友人」
僕は、中西との会話を思い出した。
――あなたは私に自分の命を差し出すことができる?――
あの言葉は、「だから私に僕の命をよこせ」とか、そういう意味じゃなかった。要するにそれだけの覚悟があるか、と彼女は僕に言っていたんだ。
私は友人のために、平気で命を投げ出すと……。
だけど、そもそも、こんな危険なものをどうして広田さんは高校生に与えたんだ?
これって、トリップできるけど自己責任だって言ってドラッグを売りつけるバイヤーと変わらない。
広田さんに何の利益があるかは分からない。けれど「命がけ」になることが分かっているものを高校生に渡すなんて……。
「高校生だの何だの、さっきから心の中で叫んでいるが、それ自体は私にとって何の意味もない。
それと、私にとってこれを君たち絶望者に渡す利益は、ある。
幻想を得るために生命力を奪うこの舞踏譜は奪った生命力を私に転送する。
つまり私は伝説にある吸血鬼なんかの類と同じ、悪魔というわけだ。簡単な理屈だろう?」
「……」
広田さんはまるで、僕の心の中を読んだかのようにしてそう言った。
いや、読んだんだろう。悪魔だったらきっとそれくらいやってのける。
カラーコンタクトかも知れないけれど、青リンゴ色の瞳は自分が悪魔だと主張するのに十分な説得力があった。
「君の思っている通り、バイヤーと大して変わらない。ただしドラッグを使うか使わないかは結局本人の選択だ。
もし彼女を幻想中毒から救い出したいのなら、彼女から舞踏譜を奪えばいい。もっともそれは私にとって何の利益にもならない」
「じゃあどうして」
そんなことを教える必要がある?
「気まぐれさ。バイヤーは君たち以外にもたくさんいる。世の中は死ねないくせに死にたがる奴であふれている。
ところで、舞踏譜がドラッグや酒と異なるのは、それが生みだす幻想は現実世界に束の間だけど具現化する点。
つまり中西、といったかな。彼女を幻影から救おうとした時、君は彼女が生み出した影を退治しないとならなくなる」
「……」
それって、中西の友人を中西から追い払えってことか。でも、そんなことする権利が僕にあるか?
そりゃ中西を救いたいし、追い払うのはあくまで幻影だから問題ないかもしれないけど、でもそんなことをして中西がどう思うか……
「迷っているようじゃだれも救えない。今すぐ私に対して怒りの目を向けて、どうしたらいいか教えろって怒鳴るくらいじゃなきゃ、誰も、何も救えない……そんなんじゃ救えない」
広田さんの表情が沈む。
僕に背を向け、棚から酒瓶を選び、もう一度こっちへ顔を向けると、洗って乾かしてある別のグラスを手に取り、そこに三分の一ほど酒を注いだ。
心なしかさっきより荒っぽかった。
「あの……どうしたら、救えますか」
「なんのためにその子を救う?恋をしたからか?」
「それもありますけど、中西が、かわいそうだからです」
「自分で望んで幻葬の闇に飛び込んだのだ。放っておいても君の罪にはならない」
「でも、それは」
「私のせいなのはここにいる私も君も知っている。この際問題は何のために彼女を救うかということだ」
「彼女を……」
頬が赤くなる。こんなことを本気で思ったことは、正直なかった。なんとなく一緒にいられればいいと思って、告白した。だけどダメで、そんなことぐらいで、腐っていた。
今思えば、全ては、僕が中西に対して本気じゃなかったことが原因だったんだ。
「前に進ませたい」
「彼女を?なぜ?」
広田さんは目を閉じ笑みを浮かべたあと注いだばかりのグラスの酒を少しだけ口に含む。僕はその喉の小さな動きを見ながら、言った。
「中西由美が、好きなんです」
酒を飲むふりをして心を見透かしているなら聞いてください。僕はこの言葉に全身全霊を込めます。
「なら止めるしかない」
目を開いた広田さんは真顔になる。青リンゴ色の瞳が弱い光を帯びる。広田さんが言葉をつづけた。
「ただし、この舞踏譜を使って、だ」
よく意味が分からなかった。僕が望んでいるのは中西だった。この譜面を使って中西を呼び出せとでもいっているのだろうか。それじゃあ何も変わらないじゃないか。
僕はジャンキーになりたいなんて言っていない。
「少し違う」
広田さんは首を左右に振る。
「今の君では覚悟はともかく、純粋に力が足りない。彼女が死を賭してまで見ている幻影を打ち払うだけの力が足りない」
「……それって、本当に殴ったり蹴ったりして闘う必要があるってことですか」
「そうだよ。だから、これが必要なんだ。たとえこれによって私に生命力を奪われることになったとしても」
それで分かった。結局、この人にとっては僕に舞踏譜を渡すことが得になるんだ。気まぐれとか言ったけれど、そのじつ、きちんと計算しているんだ。
それが証拠にまた笑みを浮かべている。怖い。けれど、怖がっている暇はない気がする。
「中西以外の何を、僕に望めっていうんですか」
「ふふ」
広田さんが含むようにして笑う。
「そんなの決まっているだろう。〈彼女の眼をさましてあげられるほど強い自分〉だ。その自分に打ち勝てないようじゃ、少なくとも彼女の夢は終わらない」
広田さんはグラスの残りを一気に喉に流し込む。こちらを見る。青リンゴ色の瞳は強く輝き、その射抜くような視線に僕は寒気を覚える。
「中西由美の亡くした友人に対する思いの丈、すなわち幻影の魔力を君自身が体で知らないと全ては始まらない……会いに行くといい。
彼女がいそうな、大きな鏡のある場所へ。そして幻影の強さを思い知るがいい」
つまり、舞踏譜が必要になることを肌身で知れってことか。
「……」
パチンッ。
広田さんが首を左右に振ってコキコキと鳴らした後、けだるそうに指を鳴らす。もう瞳は輝いていなかった。扉が開く。吊るされたチューリップ形の鐘が小さく鳴る。
「これを持って帰るといい。
もし中西由美とその幻影に出会い、死ななければこの譜面は役に立つだろう。
幻影に殺されてしまった時は、もうそこで何もかも終わりだ。
そもそも人が死のうと生きようと私の知ったことではない。
私はただ……君たちの魂が欲しいだけだ。吸血鬼が血を欲するというように。そんなものだ」
目を伏せ、広田さんは右腕を扉の方へ伸ばし、店を出るよう合図する。
僕はどうしようか迷った挙句、広田さんが出した舞踏譜を手にし、折りたたんでポケットに入れ、出口へ向かった。
「さっき君におごった一杯は非常に高い。君が死んでも払えないくらいに。
だからもう二度とここへ来てはいけない。もし来たらその時は代金を請求する。分かったら帰りたまえ」
「……はい」
「おい」
「?」
「忘れ物だ」
言われて振り返る。僕の座っていた座席前のカウンターにスマホが一台置かれている。ああ、そうか。いつの間にか出したんだっけ?僕のスマホだ……。
「ありがとうございます」
僕は店を出た。
どうやってここまで来たのか道順なんて全く覚えていなかったが、足が勝手にズンズンと前に進んだ。ありがたいこともあるもんだ。
けれどそんなことはどうでもよかった。
頭の中はそれどころじゃなかった。僕はとんでもないことに巻きこまれてしまったのだろうか?それとも僕は自分からとんでもないことに首をつっこんだのだろうか?違う。
「手にしたんだ」
ポケットに手を入れる。そこには悪魔が用意した魔法がある。
使う必要があるかどうかまだ確信は持てないし、具体的に使うことでどうなるのか分からないが、とにかく、
「中西、僕が君を救う。絶対に」
そう僕に思わしめた覚悟がポケットには入っている。それをギュッと握りしめる。
興奮気味の気を鎮めようと、夜気をたくさん吸って歩いた。
冬の夜街も駅のホームも電車の中も、広田さん曰く「生きることに絶望した人間を招く力」を持つ匂いは感じられなかった、
少なくとも今の僕には。
舞胎怨劇(壱)
昔、あるところに一人の領主がいました。
彼の収める領土は緑多く、また気候は穏やかで、冬には湿った風が吹き、夏には乾いた風が吹きましたので、
領民は牛を育てたり、花を育てたり、小麦を育てたり、オリーブを育てたり、ブドウを育てたりして静かに暮らしていました。
領主の名前はマティスといいました。また、彼には美しい妻がいて、彼女の名はロジーヌといいました。ところで、二人の間には子供が二人、おりました。
姉の名はコレシュス、その弟はシャルダンといいました。コレシュスはマティスの子ではありますが、ロジーヌの子ではありません。
マティスにはもともと妻がいましたが、その方は病気で亡くなられて、ロジーヌが後妻としてマティスの元に嫁いだというわけです。
つまりコレシュスはマティスの前妻がお腹を痛めて産んだ子、シャルダンはロジーヌがお腹を痛めて産んだ子となるわけです。
腹違いとはいえ、コレシュスもシャルダンもすくすくと成長し、今では立派な女性、そして男性となっています。
この時代、貴族と呼ばれる人々は、夜な夜な自分たちのお城へ貴族を招待しては、おいしい料理を振る舞ったり、おいしいお酒をご馳走したりして、楽しんでいました。
いいえ、それだけではありません。貴族は集まると、お話をしたり、踊ったりもしました。
お話の方は、練習をせずとも貴族はいくらでも話すことができます。だって年がら年中暇なんですから。
照りつける太陽の下、畑で褐色の土を一日中いじらなければならないお百姓とは違って、話のタネをそれこそ四六時中あさりまわっているわけですから、話すのには事欠きません。
けれど、踊りの方は違いました。貴族でも踊りは練習しないと踊れるようにはなりません。
踊りができないと、「あの方はあんなに物知りぶって偉そうなことを言っているけど、実は踊りも満足にできないでいらっしゃるのよ」と、ほかの貴族から馬鹿にされてしまいます。
じゃあそんな貴族の集まりになんて参加しなければいいじゃないかと思うかもしれませんが、それは無理な話です。だって暇なんですから。
一人で一日を充実して過ごすなんて学者みたいな真似、貴族にはとてもできない相談です。
領主マティスは、言うまでもないことですけれども、貴族の一人です。ですから当然、踊りを上手に踊れる必要がありました。そこでマティスは踊りの練習をしました。
また、踊りの練習をするだけでなく、自分の住むお城で舞踏会が開けるよう、音色のいい楽器を買ったり、
立派な音楽家を用意したり、踊りを互いに披露するための豪華な広間を用意したりしました。
さて、領主マティスの抱える音楽家の中にカリロエという若者がいました。
この若者は、踊りを踊れるのはもちろん、弦楽器、鍵盤楽器、打楽器と、大抵の楽器を演奏することができました。加えて、踊りのための美しい音楽を作ることもできました。
けれどこの時代、貴族の家に住み込む音楽家というのは、大抵これくらいのことができないと雇ってもらえなかったのです。
こんなにもたくさんのことを独りで出来ないと、カリロエのような、本来なら天に召されるまで教会で毎日お祈りを捧げなければならない立場にある牧師さんは、
いつまでも牧師さんのままでいなければならなかったのです。
けれどカリロエは努力しましたから、マティスのような貴族のお声がかかり、牧師さんを途中でやめることができました。
ちなみに断っておきますが、カリロエは自分で牧師さんになろうと思ったことはありません。
赤子だった彼は教会の前で心無い親に捨てられていて、それを不憫に思った牧師さんが拾い、育てたのです。
けれど、何と言いますか、神様にも牧師さんにも申し訳ないですが、カリロエは音楽家になりたいと子供の時から考えていました。そして努力の末、夢がかなったというわけなのです。
しかしある日、領主マティスは自分の部屋へカリロエを呼び出し、
「お前の舞踏は何かが足りない。なるほど曲は美しく、私の焦燥を鎮めてくれる。踊りは優雅で、光に満たされていた私の童心を思い出させる。
けれどそれだけだ。何かが足りなくて、踊る者を空しくさせる。心の奥底まで響かぬのだ」
こう告げました。分かりやすく言えば、カリロエの作った踊りが気に入らないと。けれど本当は、そんなことはどうでもよいことでした。
マティスは単に、このカリロエを自分のお城に置いておくことが嫌になったのです。どうしてそうなったかと言えば、彼がかわいがる娘のコレシュスが、カリロエを好いていたからです。
目に入れても痛くない娘が、雇い楽師の一人に過ぎないカリロエと結婚するなど、血筋を大事にする貴族のマティスにとっては考えられないことでした。
ですから結婚沙汰などに発展する前に、そもそも恋愛できないよう、カリロエを遠くにやってしまおうと考えたのです。
そのようなわけで、マティスはカリロエを呼び出し、難癖をつけて、カリロエを困らせ、ついには解雇してしまったのです。
仕事も、与えられていた部屋も取り上げられたカリロエは当面の旅費と、一日分のパンと水だけを与えられ、お城を追い出されました。
「なんてことだ。僕はこれからどうしたらいい?育ててくださった神の家にはもう戻るわけにはいかない。どこで雨露を防いだらいいんだ?」
かわいそうなカリロエ。彼は、これからどうしたものかと途方にくれました。この国のどこに、彼の行く場所があるでしょう?
マティスにはこの国を出て行けとまで言われました。舞踏が心に響かないというだけで、なぜそうまで言われるのか彼には心当たりが全くありませんでしたが、もうどうにもなりません。
ですから国の外に出なければならなかったのですが、国の外がどうなっているのか、カリロエは全く知りません。
ですから、国の外に出た後、どうやってご飯を食べていけばいいのか、途方に暮れていました。
カリロエは仕方なく、国の外へ向かいました。
「いや……待てよ。きっと国の外にも、音楽家を捜しているお偉方はいるさ。世の中はどこもたいして変わらない。きっとそうだ」
もともと、楽天的な性格でもありましたので、カリロエはまもなく国の外へ向かって歩き出しました。何せ当面の旅費はあります。一日分のパンだってあります。
これらはマティスの妻であるロジーヌが家来に命じて用意させたものでした。
太陽と星を頼りに、カリロエは歩き続けました。
この時代、地図なんてものは貴族の中でも特別な人しか見ることしかできませんでしたから、
当然カリロエはこの国がどういう形をして、どれくらいの大きさがあるのかなんて、知りませんでした。
ですから、カリロエはとりあえず北に向かって歩くことに決めていました。
「何が、足りなかったのだろう?僕の踊りの何が足りないから、親方様はあんなにお怒りになられたのだろう?」
歩きながら、カリロエは領主マティスに言われたことを考えていました。けれど、いつまで考えてもわかりませんでした。無理はありません。
だって言った本人のマティスだって、本当はわかっていなかったんですもの。彼はただ厄介者を追い出す言い訳を口にしただけでした。
「おや、ここはどこだ?どっちに行けばいいか、分からないぞ」
考え事をしながら歩き続けていたカリロエはいつの間にか、深い森に迷い込んでしまいました。その森は冬だというのにどれもこれもたくさんの葉をまとっている木ばかりでできていました。
といっても針葉樹には見えません。どう見ても普通なら冬には葉を落とす広葉樹ばかりです。
そういう木ばかりですから、太陽の光はほとんど差し込んでこず、昼だというのに大変暗い場所になっていました。そんな不気味なところにカリロエは迷い込んでしまったのです。
普通の人はこんな森には、入る前に迷うかもしれないからよそうと思い、入らないようにするものですが、
カリロエはあまりにも真剣にマティスの言った「足りないもの」を考えていましたから、森があることにすら気が付かなかったのです。
ところでこの森には、妖精が住んでいました。そうです。妖精が住んでいたので、冬なのに葉は落ちず、木の実もたくさん実っていたのです。
妖精たちは人間が好きではありませんでした。なぜかと言えば、人間は自分たちが見たことのない土地すらも欲しがって、平気で互いに殺し合いをするからでした。
こんなことは妖精たちには考えられませんでした。妖精たちは自分たちの見知ったこの森を、
狂っているとしか思えないそんな人間から守るために、この森に入った人間を惑わせて追い払いました。
また、欲に駆られて木を切ったり、ふざけて森に火を放ったりする悪い人間はせっせと殺しました。
カリロエが森に入ってきた時も、妖精たちは花がその雄しべの花粉を風にのせて飛ばすようにして、魔法を風にのせ、カリロエをびっくりさせて森から追い出そうとしていました。
けれどカリロエは、さっきも言いましたが、あまりにも真剣に踊りのことを考えていましたので、妖精たちの魔法などまったく気づきませんでした。
けれどふと、マティスやロジーヌやコレシュスやシャルダンや兵隊のことを考えた時、辺りが暗い、不気味な場所だということに気づいたのです。
「本当に困った」
いくら楽天的とはいえ、こんな森に迷い込んでしまい困り果てたカリロエの後を、三匹の妖精たちがつけていました。カリロエが何者で、何をしに森の中に入って来たのか調べに来たのです。
やがて夜になりました。妖精たちが思った通り、カリロエは落ちている木を拾い集め、それをまとめ、火打ち石で火をおこしました。赤い炎がパチパチと音を立てて小さく燃え上がります。
「あいつは、森を燃やしに来たんだ」
妖精たちは相談し、カリロエを殺すことにしました。カリロエが眠りについたころを見計らい、首を斬り落とし、そのまま体中にキノコを植え付けて苗床にしてしまうことに決めました。
「はあ」
カリロエはマティスの所を出ていく時にもらったパンを少しずつかじりながら、炎をじっと眺めていました。すると無性に音楽が恋しくなりました。
カリロエはポケットから折り畳み式の、小さなヴァイオリンを取り出し、それで演奏を始めました。
淋しさや、悔しさや、悲しさや、不幸を紛らわすために、カリロエは美しく、清らかで、澄んだ舞踏曲を演奏しました。それは若者のたどってきた人生をそのまま音にしたような曲でした。
カリロエ自身、そのことは良くわかっていたので、この曲は今まで誰にも披露したことがありませんでした。
「……」
妖精たちは、演奏にじっと耳を傾けていました。そのうちに、妖精たちは、お互いが目に涙を浮かべたり、感心のあまり首を縦に振ったりしていることに気づきました。
それほどカリロエの奏でた演奏は素晴らしいものだったのです。
妖精たちは、カリロエに興味を覚えました。
「あの人間は、本当に森を燃やしに来たのかしら」
「いや、もしそうだとしたらあのような音色は出せまい。あれはもっと、分をわきまえた、全うな生き物の出す音だ。あの人間はおそらく、わしらに何か頼みがあってきたのだ」
妖精たちは音楽が大好きです。加えて踊りも大好きです。人間が森に踏み込んでこない時は大抵踊りを踊り、歌を歌い、詩を作っていました。
ですから妖精たちは、火の前にいる若者が、音楽家で、自分たちに踊りを、あるいは歌を、あるいは詩を教えてもらいに来たのだと考えなおしました。
「いや、そう見せかけて実は僕たちの森を燃やしに来たのさ。人間なんて嘘を練り固めた泥団子みたいなもんさ」
妖精の中にはしかし、若者をあくまで信じない者もいました。そこで、実際に若者の心に聞いてみることで意見が一致しました。
森を壊しに来たのなら自分たちが食べるキノコの苗床にする。音楽について相談に来たのなら相談に乗る。そう決めたのです。
妖精たちは、また魔法を使いました。けれど今度の魔法は、さっきとは違い、人間を驚かせるためのものではなく、人間の心を読むためのものでした。
こんなこともできるのですよ、妖精というのは!
妖精たちは、カリロエの心の中をのぞいてみました。それは薄暗い部屋でした。昼間だというのにその部屋は妖精の住む森より薄暗いのです。
なぜなら所せましと棚に並べられた書物と、うずだかく積みあげられた楽譜、それに壁を埋め尽くすほどの楽器が部屋を埋め尽くしていたからです。
そしてその部屋の隅っこで、ランプの明かりを頼りに一人の若者が楽譜をカリカリと書いています。カリロエでした。
カリロエの前の机には獣皮から作られた紙と、ガチョウの羽根の軸を削って作られたボロボロのペン、それに真っ黒のインク、そして使い古されたヴァイオリンが置いてありました。
カリロエは楽譜を書いたり、舞踏のための譜面であるブトウフを描いたりしていました。けれど気に入らないと、せっかく書いた楽譜も、ブトウフもペンで塗りつぶしてしまいました。
そうかと思うと突如立ち上がり、机の上のヴァイオリンを手にし、弾きはじめました。それは思いついたイメージを音にするための、大変難しい作業でした。
カリロエは思い通りの旋律がなかなかできず、何度も何度も弾きなおしていました。
「ほら、見なさい。やはりわしの見立ては間違っていなかった。あの人間は自分の作る音楽に満足していなかったのだ。何かが足りないと思案しているのだ」
「ええ。あの人間は、芸術家だったのですね。あやうくキノコの苗床にしてしまうところでしたわ」
「ふん、なんだっていいさ。とにかく僕たちの秘密を聞きに来たんだろう。ところで人間なんかに、僕たちの素晴らしい歌や踊りや詩や音楽を本気で教えるつもりかい?」
妖精たちはカリロエの心を覗くのをやめると、焚き火の前から聞こえてくるカリロエのヴァイオリンの演奏をききながら、これからどうするか相談し合いました。
一匹の妖精は特に条件をつけることなくカリロエに「足りないものが何か」を教えようと提案しました。
もう一匹の妖精はほかの人間に自分たちのことを話したらキノコの苗床になるよう呪いをかけたうえで「足りないもの」を教えようと条件を付けて提案しました。
もう一匹は面倒だからこのままキノコの苗床にしようと提案しました。
そこへ、別の妖精がやってきました。身なりは他の妖精たちよりも幾分立派です。その妖精は三匹の妖精の話を聞いたうえで、別の提案をしました。
「あの人間は、自分の作る音楽に足りないものが何か、探しているのですね?ならばこうしましょう。願いをかなえる踊りを教えるのです」
「足りないものを、そのまま教えないのですかな?」
「教えません。それは自分で気づかせることにしましょう。そのために願いをかなえる踊りを教えるのです。あの人間は足りないものが何かを願い、踊ることになるでしょう」
「どうしてそのようなことをなさるの?」
「この森に足を踏み入れた罰です。ですから、自分で気づかせるようにしましょう」
「ねえ、人間ってやつは、自分の知ったことをすぐ人に話したがるものだよ?ここの、僕たちのことを知ったらいつかきっと誰かに話すにきまってる。だからさ、キノコの苗床にしようよ。
おいしいキノコの方が人間よりずっと価値があるってもんさ」
「そこまでする必要はないでしょう。そのかわり、足りないものを見つけるまで、死を選ぶことは許さない。この森からも出さない。
こうすれば私たちの秘密を外の世界の人間は知ることはできないでしょう」
「我々のことを話したら……なるほど、その心配がないほど足りないものを見つけるには長い時間がかかるというわけですな」
「きっとそうなるでしょう。何せ人間ですから。自分で気づき、信じられるようになるには、とても長い時間がかかるでしょう」
「なんでもいいや。お腹が減ったから僕は帰る。キノコのスープが飲みたくなったよ」
三匹の妖精はいつの間にかキノコの料理について議論を始めてしまったので、仕方がなく、今来たばかりの四匹目の妖精がカリロエの起こした焚き火の元へ出ていきました。
「こんばんは」
カリロエの前に、四匹目の妖精は現れました。ちょうどヴァイオリンを弾き終えたばかりのカリロエは突然現れた妖精に肝をつぶしてしまい、しばらく口を利くことができませんでした。
けれどその妖精があまりに小さく、あまりにいい香りがしたので、だんだん気分が落ち着いてきました。それでようやく、「こんばんは」と言葉を返すことができました。
カリロエがそう言うまでずっと四匹目の妖精は黙って、万事を心得たような眼差しでカリロエを見ていました。
「あなたは見たところ人間の、しかも音楽家のようですが」
「はい。私は今までこの森のある国の領主様のもとで、楽師をしておりました。つまり歌と詩と踊りを作っておりました。しかし今日になって突然、領主さまのもとを去るよう言われました。
それで城を出ていろいろ考えながら歩いていましたら、いつの間にかこの森に入ってしまい、迷ってしまったというわけです。すいませんが、帰り道を教えていただけませんか。
決してあなた方のことは話しませんし、木を切ったり花を摘んだりはしませんから」
「我々の事を話すかどうかはともかく、木を切ったり花を摘んだりしたらもちろんあなたをキノコの苗床に変えます。しかしそれとは別に……ところであなたのお名前はなんというのですか」
カリロエは突然妖精に名前を聞かれ、何気なく名前を教えました。
「そうですか。あなたの名前は、カリロエというのですね」
妖精に自分の名前を呼ばれた途端、カリロエの中で何か冷たい風のようなものが吹きぬけました。
けれど妖精の手前、いちいちそんなことを言ってもしょうがないと思い、カリロエは黙っていました。
「カリロエ。あなたはそもそもどうして領主の元を追い出されたのですか」
妖精はその理由をカリロエに尋ねました。カリロエは、
「私は領主様から、お前の踊りには何かが足りない、と言われました。胸の奥に響かない、つまり完全ではないということです。そのような理由で私は領主さまの城を追い出されたわけです」
妖精は訳を聞くと、すぐに先ほど他の妖精たちと考えた提案をカリロエに向かって言いました。
「足りないものが何か、知りたいですか?」
「え?あなた方はそれをご存じなのですか」
「はい。私たちはそれをよく知っています。私たちはそれをこの世界の、至る所で見ていますから。
今も昔も……いいえ、最近はあまり見なくなりましたが、今も昔も、あるところにはちゃんとあるものです」
「それは何なのでしょうか」
「それは教えられません」
「どうしてですか?」
「あなたがこの森に足を踏み入れたからです」
「どうか教えてください。森に足を踏み入れたことなら謝ります。あなた方のことは決して口にしません。どうか、足りないものが何か教えてください!」
「ご自分でお探しなさい。そのかわりに、願いをかなえるブトウフをあげましょう。
それをきちんと、正確に踊ることができればどんな願いもかなうのです。
ですから、あなたはそれを踊り、足りないものが何か願ってみてはどうでしょうか?」
「……本当にそのような、願いをかなえるブトウフはあるのですか?」
「あります」
カリロエは妖精の「望みはブトウフで叶えろ」という提案に飛びつきました。けれど、妖精は条件をあげました。
「残念ですが、そのブトウフはこの森から持ち出すことができません。ですから、あなたは踊りを覚えるためにこの森から出ることはできません」
「私はそれでもかまいませんが、しかしあなた方はそれをどう思われるか」
「それについては問題ありません。問題は、あなたが「足りないもの」を見つけるまで、私たちはあなたが病気になって死んだり、行き倒れて死んだりすることを許さないということです」
「死ななくなるということでしょうか」
「そうです」
妖精はカリロエに語りかけながら、ちょっとだけ、カリロエの心を覗いてみることにしました。話しながら心を覗くのはとても難しいので、妖精は心の声しか聴くことができませんでした。
「……」
カリロエは少しの間、考えました。けれど考えた後、これは全然問題でも何でもないと思うようになりました。
なぜなら、カリロエにとって音楽は唯一の生き甲斐だったからです。音楽をより深く勉強できる機会を妖精に与えられたことは、カリロエにとってこの上ない喜びでした。
また、不死の呪いをかけられることについても、むしろありがたいと思いました。
(妖精の考えることは分からないけれど、妖精のブトウフで望みが叶うのなら……)
なぜなら死んだあとの行先は誰にも分からないですけれど、今生きている間は、行先は間違いなくこの森の中のどこかだからです。これはこれで安心できるわけです。
そういうわけで、カリロエは少し考えた後、妖精の提案を受け入れました。
「では、ついてきてください」
妖精はカリロエの返事を聞いた後、不死の呪いをかけ、彼と共に森の奥深くへと入っていきました。
カリロエは森の奥の、妖精が住む村に案内されました。案内してくれた妖精は、実はこの村の長でした。
村長はカリロエに家を与え住まわせようとしましたが、何せ妖精たちよりもずっと体の大きなカリロエでしたから、妖精たちの住むような小さな家には住めませんでした。
カリロエも、そこまでしてもらうのは申し訳ないと伝えました。
すると妖精たちは、森の中にある湖のそばの、岩がくりぬかれてできたような深い洞窟にカリロエの住居を作ってくれました。
カリロエは何度も頭を下げ、感謝をしましたが、妖精たちはそんなことはどうでもいいと思っていました。
妖精たちにとって楽しみだったのは、妖精の村長が連れてきた人間が、願いをかなえるブトウフを前にして、どう振る舞うかでした。
「では、ブトウフを運んできましょう」
カリロエと共に湖に来ていた妖精の村長が、まわりの妖精に号令をかけます。すると妖精たちは、ブトウフをとりに村へ向かいました。
「言い忘れましたが、ブトウフは一枚ではありません。気の遠くなるほど長い踊りなのです。何と言っても願いをかなえる踊りを記したものですから。
それゆえ、ブトウフは星の数ほどあります。」
妖精の村長は無表情で言いました。けれど心の中では、「人間め。欲しいものを手に入れることがどれだけ困難なことか分かって、さぞがっかりしたろう」と思いました。
人間のカリロエに森に踏み入った罰を与えることができたと思い、本当はしたり顔でも作って見せたかったのですが、
村長は上品だったのでそういうことはせず、努めて無表情で言いました。
「そうですか。分かりました。不死の呪いのおかげで時間はたくさんあるみたいですし、星の数ほど譜面があろうと、喜んで躍らせていただきます」
やがて妖精たちが蟻のように列を組んで村から湖へ飛んできました。彼らの一匹一匹の両手には、獣の皮で作った紙の束がどっさりと乗っかっていました。
その紙の多いこと!そしてそれを運ぶ妖精たちの数の多いこと!
彼らは紙の束を手に持って現れては洞窟の中にその紙の束を運び入れてゆき、そして手ぶらで出て村へと戻っていきました。
そしてまた、紙の束を持って村から洞窟へとやってきました。たくさんの数の妖精が、たくさんの紙の束をもって、何往復も村と洞窟を行ったり来たりしました。
普通の人間なら、「これなら分相応の幸せで満足したほうがいい」と思うほどのブトウフが運び込まれた後、妖精の村長はキノコスープでも食べないかとカリロエに言いました。
けれどカリロエは辞退しました。キノコスープなんかよりも、ブトウフに興味があったからです。
それに、妖精の村長に名前を呼ばれてからというもの、お腹が全く減りませんでした。きっと不死の呪いのせいでしょう。
もともと食べることにも寝ることにもあまり興味がなかったカリロエは「これで踊りに専念できる」と思い始めていましたので、村長のキノコスープのお誘いは断りました。
村長は別に気を悪くせず、「では頑張ってください」とだけ言って村へと帰っていきました。
村ではやってきたあの人間が何日で森を去ろうとするか、様々に噂されていました。中にはそれで、人間がやるあの賭け事の真似をしている妖精までいました。
けれど話題の中心はやっぱりキノコでした。もしカリロエが「足りないもの」に気づかないで逃げ出そうとすれば捕まえてキノコの苗床にするつもりでした。
そういうわけなので妖精たちはどんなキノコをカリロエに植え付けたらいいか熱心に、キノコスープを飲みながら話し合っていました。
二、対峙
スマホにダウンロードしてあるRPGを終える。
輸入商品を専門に扱って仕事をしている親父は世界中をあちこち出張しているし、老人ホームで働くお袋は宿直が多くて家にほとんど帰らない。
だから僕は普段から、独りで過ごす時間が長い。
広田さんのバーに足を運んだあの日も、日付が変わったところで親は帰ってこず、おかげで何も知られずに済んだ。
あの日以降、僕は中西がどこで舞踏譜に描かれたステップを踊っているのか、調べた。
本人に聞こうと思ったこともあったが、「ウザイ」僕とまともに話してくれる気はしなかったから、彼女の行動を追った。
ほとんどストーカーみたいになって、四六時中彼女を監視した。家の前の張り込みもやった。当然かもしれないけど、一度家に入ると中西はなかなか出てこない。
「ふう」
けれど、だからといって時間を持てあましたりはしない。
「カリロエ……か」
ゲームが入っているのは何もゲームセンターだけじゃない。スマホの中にだってちゃんと入っている。
ペシュメルガ――。
格闘ゲームだけじゃなくて、RPGだって僕はやる。しばらく前にダウンロードしていたけど、やっていなかった。けれどこういう時間が有り余る時にこそ、こういうヘビーなゲームはやるべきだ。
「妖精ってどんだけキノコ好きなんだよ……」
ストーカー&張り込み開始二日後の午後七時二十三分、ようやく今僕は彼女が自宅を出るところを見つけた。
昨日見つけられなかった理由は、空が曇っていて月が出ていなかったことと、僕が彼女の住む二階建ての戸建ての玄関ばかりに目がいっていて、二階の窓から彼女が飛び降りるところを見逃したためらしい。
「は?」
つまり今、目の前で普通じゃないことが起きている。
月の冴えわたる夜、中西は無表情のまま彼女の部屋のある二階の窓から靴を履いて外へ飛び出し、音もなく平然と着地した。
窓から地面へ、血のように赤く光る点が放物線のような軌跡を描き、瞬く間に消える。
「靴底が、光ってた……」
着地してまもなく、中西の靴底を染め上げていた赤い光はおさまる。
何事もなかったかのように中西はスマホを取り出す。そして画面を見つめたままどこかへ向かって歩きだす。
今のって、舞踏譜の力とか、そういう話なのか?
「どうなってんだよ」
度肝を抜かれてもなお、歩きだした中西をすぐに追うことができたのは、一昨日すでに超常現象に出会っていたからだと思う。
自称悪魔のバーテンダーから、命を代償に夢を見せる舞踏譜をもらっているせいだろう。
中西の幻影と対峙すべく、僕は彼女を追った。
結論から言うと、中西は僕らの通う学校に行った。ただ、異常だったのは自転車を含む一切の交通手段を利用しなかったことだ。
彼女は僕と同じく電車を利用して学校まで通っている。
電車で四十分はかかる距離を、彼女は淡々と歩き続けた。ただし早歩きだった。
「はあ、はあ、はあ」
長い黒髪が風になびく。
振り返ることなく先へ進む中西のあとを、ランニングしながら僕は追いかける。
中西の歩速も普通じゃない。ベルトコンベアの上を歩いているみたいに異常に速い。
しかもずっとスマホの画面らしきものを見つめている。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
何とか学校に到着した時、久しぶりに酷使した僕のふくらはぎは悲鳴を上げていた。
けれど今はそんなことに構っていられない。
中西はまた靴の底をザクロ石のように赤く染め、閉ざされた三メートルほどの高さの正門を駆け上がるようにしてサッと飛び越え、校内に侵入した後、新体操部が部活動を日々行っている地下練習場へと入って行った。
「くそ、何が舞踏譜だよ、これじゃドラッグかドーピングじゃないか」
舞踏譜の魔力とやらに呪いの言葉を吐きつつ、僕は額に浮いた汗をぬぐい、校門横のフェンスをよじ登り、必死に彼女を追った。
うちの学校の女子新体操部はメチャクチャ強い。大会では常勝だ。だからそれなりの予算が毎年計上されている。そしてヒイキされているのは予算にとどまらない。
期待を反映するかのように彼女たちの使用する施設も充実していた。
要するに今僕の目の前にある、美術室や音楽室、理科室や職員室が入る新築のビルの地下一階を全部、新体操部だけで占領していた。
新体操部のためにビルが建ち、そのおまけとして職員室やら美術室やらが入った形だった。
「警報器、鳴らないのかよ」
女子新体操部が昼間活動している地下一階に限らず、出来たばかりのこのビルは閉校時、警報器が鳴るようにセットされていると担任が念のためにホームルームで言っていた。
けれど、建物の外から入れる地下一階の入り口は開けても警報器はならなかった。
ひょっとしたら音は鳴らないで、知らぬ間に警察が学校にやってくるのかもしれない。
だとすれば僕は警察につかまって叱られるだろう。
校内に、しかも女子新体操部にもぐりこんだ噂が流れて、下着目的だのカメラをしかけただの噂に羽根がついてデマになり、最後はただの変態として僕は扱われるかもしれない。
「ふん」
だから、なんだ。
別に、見ず知らずの他人からどうこう思われることなんてどうでもよかった。
そんなことより、ここに同じく忍び込んだはずの想い人を、振り向かせたかった。
そのためならどうなってもいい。
「……」
女子新体操部はその練習場の北面の壁に部屋全体が映り込むほど大きな鏡を取り付けている。
彼女たちはその鏡に姿を映して日々過酷な練習に励んでいる。
「!」
その鏡の前で、女が一人、ゆっくりとステップを歩んでいる。
いや……踊っている。
中西由美だった。
トッ、トトッ、トッ、トッ……
電気は付いていない。
けれどよく見える。
ビルの地上部分に設けられた地下のための明りとりから、月光が青い光を暗い部屋の中に投げ込んできていたから。
ステップを踏みながら妖精のように舞い踊る中西由美の姿を僕ははっきりと捉える事ができた。
その表情も姿も影のように静かで美しく、彼女の傍で月光に光る小さな埃は幽玄で幻想的だった。
それらが全て鏡に映り込み、もう一つの幽玄な世界を作り出している。
おそらく中西は舞踏譜を踊っている。
こんなに静かで、綺麗な踊りだとは思わなかった。
トッ。
「……?」
中西の舞踏が終わる。
それなのに、鏡の中の中西は音もなく舞踏を続けていた。
踊りながら、鏡の中の中西は時折鏡の外の中西を妖しげな眼で見つめる。
その瞳はザクロ石のように赤く輝いている。
鏡の中の中西は手のひらを上にし、人差し指をクイックイッと動かして中西にこっちへ来いと合図する。
「そう、そっちは退屈なんだ。私も、そうね……死ぬほどつまらない。でもこうやってユリカと話したり日記交換できるから楽しいよ」
鏡の外の中西は踊り疲れたのかその場にへたり込み、鏡を見ずにうつむいたまま何かをブツブツ言っている。
……あっ!
鏡の中の中西と一瞬僕の目が合った!
背筋が凍りつくような恐怖を感じ、僕は一瞬隠れる。
中西の独り言がやむ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
目が合ったのはきっと、気のせいだ。そう思って、僕はまた、覗き見を始める。
中西はすでに立ち上がっていた。
背を少し丸め、その場で立ちつくしていた。
鏡の中の中西はまだ、踊っている。目を赤く光らせながら。
「え?何、うん……そう。誰かがこっちを見てるの?
いいじゃない。誰だって。私たちの邪魔なんて誰もできないよ。
え……そうなの?
それじゃ、困る。うん、分かった。
私が何とかするよ」
ダッ。
鏡の外の中西が四つん這いになる。それだけで泣きたくなるほど気味が悪かったが、さらに彼女はシャカシャカと手足を動かして鏡の中で妖精のように踊り続ける中西向かって突進した。
ぶつかる、あぶない!
シュン。
四足歩行の中西は鏡の中に、消えた。
それとほぼ同時に、鏡の中から、何かが飛び出した。
ズドンッ!!
まるで中西とバトンタッチでもしたかのように現れたソレは剣道で剣士が踏みこむような大きな足音を立てて着地した。
もし自分の魂というものが目に見えるものであって、それがロウソクの火みたいなものだとしたら、
たぶんいつもの僕だったら今この瞬間にかき消えていたと思う。
ようするに死ぬほど怖かった。
うちの学校のセーラー服を着て、輪郭が集合写真で見た臼井百合花に似ていて、
両手が本来あるべきところにアメジストみたいな感じの紫色に点滅する斧がついていて、眼球がない奴が、いる。
眼球の代わりに眼窩から角が生えている。
蝋の翼のように純白で、冷たそうで、無機質な鋭い角が。
「ラッ、トゥロームッ」
臼井と同じ声で、鏡から出てきた怪物が何かを叫ぶ!
そしてこっちに首を向ける。
とっさに自分の中の何かが弾け、ヤバイと自分に伝えた。
辛うじてかき消えていない弱々しい魂を体に隠して、僕は建物の外へ一目散に逃げ出した。
「はあ、はあ、はあ」
外へ出る。
「なんなんだよ、あれ」
どっちへ逃げようか一瞬迷ったその時、背中を衝撃が襲った。
ゴッ!!
何が起きたのかは分からず、ただ激痛を感じながら僕は新校舎傍の花壇の土に突っ込んだ。
「ウェルノッ!」
何かが聞こえるが、それが何か考えられない。
背中を走るあまりの痛みに呼吸ができず、頭は体の外の情報を何一つ処理できなくなっていた。
痛みのために気を失うこともできず、頭から土をかぶったまま僕は体をかろうじて起こす。
月光下の闇を見る。
角と斧の生えた臼井みたいな化け物が、こっちへ歩いてきていた。
頭の機能が少しだけ回復する。
途端、背中に冷たいものが流れ落ちる。
「うわぁ!」
純粋に怖かった。
今までの意気込みが何もかも吹き飛んでしまったかのようだった。
ただ生き延びたくて逃げて、逃げたくて逃げた。
逃げること以外何も考えられなかった。
舞踏譜のことも。中西のことも、考える余裕などなかった。
足が絡まり、何度も転倒しそうになりながら、僕は花壇を抜け出し、アスファルトの上を走った。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
ドッ、ガッ!
「あうっ!?」
体力の限り、逃げられるだけ逃げたつもりだった。
けれど結局僕は逃げ切れなかった。
冬の夜、校内を逃げ回り、汗まみれで白い吐息を吐き散らす僕はとうとう臼井に張り倒され、踏みつけられた。
「うっ!!」
「ブロドッ、ザオラーイェ」
何かを宣告し、次の瞬間、臼井は僕のおなかの上で跳ねる。
肋骨がへし曲がる激痛を味わいながら、大きく振りかぶられた両腕の先の斧を見つめる。
急に時間が遅く流れ始める。
いや、そう思っただけだろう。だって、次はどうなるかなんて、誰にでも分かる。
僕の顔面は岩に叩きつけられたトマトみたいになるだろう。
そう頭が視覚情報をもとに判断したんだ。それで、走馬灯でも見るかのようにゆっくり時間が流れ始めたんだ。
でも走馬灯は流れない。現実の映像が目の前で続く。
斧は僕の頭をかち割ろうとゆっくり、けれどうなりをあげて落ちてきた。
もうだめだ。見てられない。目を瞑ろう。全ては悪い夢だった。それで、終わりにしよう。
ガシャンッ!
「「!?」」
フェンスの金網を金属バットで思い切りたたいたような音が目の前で聞こえた。
つぶってしまった眼を見開くと、僕の顔面の十センチくらい上で斧が止まっている。
その斧と僕の顔との間に、天気予報の気象画像で夏に見かける台風のような左回りの渦があった。
渦の端から端までは僕の肩幅くらいしかなく、それが砂金のような粒子できらきらと輝きながら渦を作りつつ、
僕の目の前で静かに回り、臼井の斧が僕の頭をぶち割るのをギリギリのところで防いでくれているようだった。
「エマルフッ!」
小さな台風みたいな金の渦のせいで僕をかち割り損ねた臼井は僕の傍に着地後、右腕の斧だけを再度振り上げて僕の首を斬ろうと腕を振り上げる。
僕はとっさに両手で自分の頭と首を隠す。
サーッ!
僕の両手が渦にぶつかったせいかどうかは知らないが、渦を構成していた黄金の粒子が僕の目の前から高速で吹き飛び、臼井に襲いかかる。
「ヌッ、ヌワドゥ、ヌワドクッ!?」
海から上がってきたばかりの人間が砂浜にねっ転がったみたいに、臼井の全身に粒子がへばりつく。
へばりついた粒子の一つ一つは臼井の体にくっつくとさらに強い光をおのずと放ち始める。臼井が太陽のように輝く。
キ―――ンッ!!
「ヌワドゥッ!!」
カッ!!!
人型の太陽と化した臼井はとうとう爆発した。
身を起こしたばかりの僕に砂嵐のような黄金の風が衝撃波のように迫る。
両腕で顔を隠すようにして爆風をやり過ごした時、耳元で砂の流れる音と共に、聞き覚えのある声がした。
――言っただろう。一杯は高くつくと。
……助けるのはこの一度きりだ。幻影は拡散させたが滅却できたわけじゃない。程なく元に戻る
……ところで、例の幻影がその体の基礎となる思魂を再構築するまで、幻影を召喚した君の想い人は目を覚ませない。
といってもせいぜい七日。
目を覚ました思い人は目を覚ましたその晩、当然幻影を召喚する。
だが次、召喚を行えば、楽しんだ後の夜明けには落命するだろう。
例の幻影が自らの姿を象るために彼女の命をこの七日間でほとんど食らいつくし、
召喚が済んだその時には思い人の命の残量がほとんどつき果てているだろうから、悦楽の後は地獄だろう。
七日たったその日の晩、目を覚ました彼女が幻影の召喚をしたときに、君はその「お楽しみ」を邪魔し、
幻影を完全にかき消さねばならない。彼女を本当に救うために。
……君の想い人が目を覚ますまでにしなければならないことは、もう分かっているだろ?
……強くなるため、鏡の前で君が命を削るしかない。
……ところで彼女が舞っていたあの場所だが、舞踏譜の波動が文明の利器を役立たなくしている。
忍んで踊るに、あるいは最適の場所だと思うが……。
黄金の風が、去って逝く。
残された僕はしばらく茫然としていたが、やがて風の言ったことを理解すると、もう一度新体操部の地下練習場に向かった。
果たして中西は鏡の自分に寄りかかるようにして気を失ったまま座っていた。
いくらゆすっても声をかけても起きず、困った僕は学校の外へ中西を担いで運び出した。
「ふう……やるか」
職務質問、というか補導されるかもしれない。
いやそれ以前の問題として、そもそも僕の体力が持つかどうか。
とにかく僕は中西を背負って、彼女の家まで歩くことにした。
歩く道はあえて人通りの多い居酒屋やスナックなどを選んだ。
その道中、幸運な出来事はあった。
「おぇ、ボーズ、何してんだ~?うぷっ」
敷居の高そうな高級寿司屋から出てきた中年サラリーマン二人組がタクシーを待って歩道の端にフラフラと立っていた。
僕はその二人に声をかけられた。
「このガキ。娘っこに酒ぇ~飲まして~持ち帰るって算段か~?わっるい奴だな~ヒック!」
「そんなんじゃ、ありません」
幻影(臼井)との闘いで未だ痛む内臓の悲鳴を聞きつつ中西を背負って歩くことには我慢できる。
けれど、中西に悪さをしようとしていると誰かから思われるのは、やっぱり嫌だった。
だから、無視すればいいのに僕はわざわざ酔っ払いに噛みついてしまった。
「ふん、何だっていいや。そんなことより、どこまで担いでいくつもりだ……おい、タクシーッ!」
タクシーが近づいてきたのに気づいたのか、僕に質問をしながら一人が手をあげてタクシーを捕まえる。
「ほれ、乗れ」
「?」
「おい、あんちゃん。俺の息子だけどさ。家まで乗せてってくんねーか」
「あははっ、気前のいいオヤジだ。それとも本当にアンタの隠し種か!?」
ゼリーの詰まった鉢みたいな腹をしたもう一人の酔っぱらいは笑いつつ彼自身の財布から一万円札を一枚取り出し、
もう一人の酔っぱらいの肩をたたき、それを渡す。
受け取った酔っぱらいはそれを運転手に渡す。
「じゃあな、ボーズ。今日は、俺はよ、気分がいいんだ。黙って乗ってさっさと消えな。
それとよ、若いからって調子に乗ってヤリすぎるなよ」
イヒヒヒヒッと笑いながら二人の酔っぱらいはこっちに手を振り、ふらつきながら去っていく。
「タクシーッ!ったくどこほっつき歩いてやがるんだ!
こういう店の客を捕まえるのがテメェらの仕事だろう」と言って怒鳴ったり歌ったりしていた。
「あの、お客さん?」
僕がドアの開いたタクシーの前で中西を背負ったまま突っ立っているのを見かねて運転手が声をかけてくる。
タクシーに乗らないで担いで帰ろうかとも考えた。けれど思い直し、「乗ります」と言ってタクシーに乗った。行き先は中西の家の近くにした。
運転手は気を利かせてくれたのか、どうか。ラジオのニュースを聞くのを止め、かわりに若いリスナーが好みそうなミュージック番組に切り替えた。
けれど音は大きすぎず、誰にとっても差しさわりがないような音量でそれは流れ始めた。
〈その世界にはおそろしい魔物がいました。魔物は自らを傷つけたり他人を傷つけたりして生きていました。〉
若い女性の歌声が静かに車内に響く。シンガーソングライターの持っている音はその良く伸びる声の他に、ピアノの音色だけだった。
〈魔物は尋ねました。「こんな世界に生きて何になるの?」と。その理由が分からず魔物は誰かを傷つけていました。〉
「……」
後部座席で横になった中西の頭は僕の腿の上にある。そして彼女の右肩の上に、僕は右手を乗せている。歌を聴いているうちにその右手に力が入っていることに気付いた。はっとして、力を抜く。
けれど、中西の肩から手を遠ざけたくはなかった。
〈……魔物が自分だと気付いた僕は、目の前にいた君にやっぱり尋ねました。「なぜ生きるのか」と。〉
「……」
〈君は「こんな世界を生きることが私の目的だから」と答えた。「あなたのために苦しんで、あなたのために涙流して、あなたのために涙枯れるまで祈ることは私にとって意味があるの。それをすることが私の生きる目的」〉
「……魔物、か」
傍らで眠っている中西を見ながら、歌が終わった後も、僕は頭に焼きついたその歌詞を何度も自分の中で反芻させていた。
「着きました」
中西の家の近くに着く。
受け取っていい物かどうか一瞬悩んだが、誰に返していいのか分からないし、何かあった時に役立つだろうから、お釣りは全部僕が受け取った。
タクシーが去った後、僕は中西を彼女の家の玄関前まで背負って運んだ。運んだあと、意識のない彼女を背中からおろし、そして抱きしめた。
できればこのままいつまでも一緒にいたかった。
だけどこのままじゃダメだと知ってしまった。
「……」
全身を映し出せる大きな鏡のある場所は学校の新体操部の練習場以外、すぐには思いつかない。しかも黄金の「風」の話では警報器は作動しない、らしい。
中西の幻影を倒すには、地下の練習場で幻影よりも強い自分を思い描き、それを呼び出し、闘いを学ぶ。
それしかないと覚悟する。
それがどんなに非現実的なことであっても、それしかないと、僕は覚悟した。
「ウザイかもしれないけど、君のために最後まで行動する。絶対に」
中西の柔らかな唇にそっとキスをし、彼女を玄関脇に座らせる。
自分の靴ひもを締め直し、走る準備をした後、彼女の家のインターホンを押す。家の中の明かりが点いたことを確認すると全力でその場から逃げ出し、自分の家に僕は向かった。
舞胎怨劇(弐)
楽師カリロエが妖精の森に迷い込んだことは、お話ししましたね。
ついでにカリロエが森で妖精たちからブトウフを借りたことも。
踊りをきちんと踊り、しかも「足りないもの」が何かを見つけられるまで森を出られないことも。
もし途中で投げ出すようなことがあればキノコの苗床に変えられてしまうことも。
あれから、三か月ほどが経ちました。
お城に住む領主マティスはカリロエがいなくなった当初は大変喜んでいましたが、今は少し困っています。
なぜかというと、カリロエを密かに慕っていたコレシュスが、カリロエがいなくなってからというもの部屋にこもりきり、泣き続けていたからです。
マティスは一人娘が毎日ほとんど食事もろくにとらず、泣きすぎて兎のように目が赤くなり、衰弱し、ついには寝たきりになってしまったことに、ひどく胸を痛めていました。
でも仕方ないですね。追い出したのは自分なのですから。
一方で、領主の妻であるロジーヌは、実を言うと少しばかりこの事態を喜んでいました。
その理由は、夫であるマティスは自分のことに構ってくれず、時間がある時はコレシュスのことばかり自分や周りの人に話すからです。
「あんな娘、いなくなってしまえばいい」と、ロジーヌは心の奥底で常々考えていましたが、それをマティスに話したことはありませんでした。
かわりに、自分のお腹を痛めて産んだ子である息子シャルダンを見つけては、彼に自分の愚痴をこぼしました。
シャルダンは、今は立派な青年ですが、母であるロジーヌが「あんな娘、いなくなってしまえばいい」と口にすると、
それを大変悲しく思いましたが、母の気持ちを察し、それについては黙っていました。
実のところ、シャルダンはコレシュスのことが好きでした。
ですから「あんな娘、いなくなってしまえばいい」とはこれっぽっちも思っていませんでした。
コレシュスがカリロエを慕っていたことを知っていた彼もまた、父マティスと同様、カリロエがいなくなったことはうれしかったのですが、
コレシュスが弱っていくことには、とても耐えられませんでした。
ある日のことです。
妖精の森の傍に住むお百姓がお城に年貢の麦を納めに来たとき、そのお百姓はお城の兵隊に、妖精の森が最近やけに賑やかだということを伝えました。
なんでも妖精たちは森の外に聞こえるくらいの声で、毎日ガヤガヤ話したり歌ったりしているとのことでした。
「どんな話をしていたのだ?」
兵隊がお百姓に尋ねると、お百姓は帽子を脱いで答えました。
「はい。それがなんでも……
人間の音楽家が森を訪れた。
願いのかなう踊りを踊る。
人間にはどうせ無理さ。
だけど音楽家は踊り続ける。
踊りを覚えた日にゃ湖の水が乾いちまう。
早く逃げ出せ。
そうすりゃキノコが食べ放題。
約束破りのキノコはどんな味だろう。
カサの大きなキノコが楽しみだ。
……雨の日はあまり聞こえませんが、晴れている日の深夜などは、良く耳を澄ませると、このような歌や声が森の方から聞こえてきます」
お百姓は妖精たちの話していたことをなるべくそのまま伝えました。
妖精たちは、自分たちの秘密を森の外に知らせないとか言っているくせに、自分たちで自分たちのことをこんなふうに森の外に知らせていることが時々あります。
少し、間が抜けているのです。
ちょうどこの、森についての話を兵隊とお百姓がしていた時、息子シャルダンを捜していたロジーヌが召使いをつれてこの場に居合わせました。
ロジーヌは二人に何の話をしているのか尋ねましたので、お百姓はもう一度同じ話をロジーヌにしなければなりませんでした。
でも「面倒なのでここに立っている兵隊にでも聞いて下さい。私は忙しいのです」とは口が裂けても言えません。
仕方がないですね。だって相手は領主の妻で、お百姓よりもずっと偉い方なんですもの。
逆らったりしたら、すぐに自分の首が刎ねられてしまうか、自分の家族をボロボロにされてしまうかもわかりません。
お百姓の話を聞いた領主の妻ロジーヌは、妖精の森に現れたという人間が、ひょっとするとカリロエではないかと思いました。
そこでお百姓に、「その人間の名前とやらを、妖精たちは口にしていましたか」と尋ねました。
お百姓は「そういえば……カリロエと言っていたのを聞いたことがあります。
昔神父様の所で神に仕えていた少年と同じ名前でした」と答えました。
お百姓と兵隊の傍を去り、自分の部屋に戻ったロジーヌは、妖精の森にあの楽師カリロエがいて、今も生きていると推測しました。
そこで、ロジーヌは兵隊を森に送ってカリロエを殺してしまおうと思いました。
殺して、その首を娘のコレシュスに見せる。
そうすればきっと、コレシュスは頭がおかしくなるか、その場で卒倒し、二度と目を覚まさないでしょう。そうすれば、夫のマティスは自分を見てくれる。
最初しばらくは娘を失った悲しさに気が動転するかもしれないけれど、そのうち死んだ人間のことなんか忘れるでしょう。
心にできた溝は私の愛がうめて差し上げよう――。こんなことをロジーヌは部屋の中で考えていました。
ロジーヌはさっそく計画を実行に移すことにしました。
まず息子のシャルダンにカリロエが妖精の森にいて生きていることを伝えました。
そして妖精たちに魔法を教えてもらい、コレシュスに呪いをかけてマティスや自分やシャルダンを困らせていると嘘をつきました。
シャルダンは、魔法も神様も信じていませんでしたから母親の嘘などすぐに気づきましたが、
カリロエが嫌いだったので――嫌いな理由はマティスと一緒で、コレシュスがカリロエのことを好いていたからですよ――母ロジーヌの命令に従い、
妖精の森に出向いてカリロエを殺しに行くことにしました。
次の日の朝、シャルダンは兵隊たちを何人か連れて、妖精の森に出かけていきました。
兵隊たちは心の底では妖精の森に入ることを嫌がりましたが、シャルダンに逆らうわけにはいかなかったので、彼と共に、森の中に入っていきました。
妖精たちはすぐに森の異変に気づきました。
さっそく兵隊を見つけて、魔法をかけて追い出そうとしましたが、その兵隊の数があまりに多かったのでたいして効き目がありませんでした。
こうなってしまうと妖精たちもお手上げです。
妖精たちは仕方なく、兵隊たちの様子を黙って見ていることにしました。
たくさんの兵隊とシャルダンは森の奥深くに入り、そしてとうとう、湖のある場所につきました。
そこで彼らはカリロエが数枚のブトウフを手に踊りを踊っているのを見ました。
それはとても優雅な踊りで、まるで妖精が踊っているかのようでした。
けれど彼らはいつまでも見とれているわけにはいきません。
そもそも兵隊もシャルダンもカリロエを殺しに来たわけですから。
「何をするのですか!?」
踊りの練習をしていたカリロエは突然現れた兵隊たちに捕まりました。
当然、なぜそんなことをされるのか分かりません。
「お前はカリロエで、間違いないな?」
「そうです。私はカリロエです。あなた様はシャルダン様ですね。
どうぞお助け下さい。私には逮捕される理由など本来ないはずです!」
「逮捕などしない。お前はこの場で処刑されるのだ」
「なぜです!?」
「それは……」
シャルダンにも色々と思うところがあり、考えるところがありましたが、別に自分にとって何の益にもならないカリロエに対して、わざわざその理由を丁寧に説明するつもりにはなれませんでした。
代わりに、腰に下げていた剣を鞘から引き抜き、取り押さえられ、跪かされたカリロエの心臓めがけてズブリと刺しました。
かわいそうに、カリロエは動かなくなってしまいました。
兵隊たちは倒れたカリロエの体に、念のため槍を何度か刺しました。
シャルダンは、カリロエの首を切り取ろうかどうか考えましたが、やめました。
さすがにそこまでするのはかわいそうだと思ったからです。かわりに両手を切り取り、それを殺した証拠として持ち返ることにしました。
カリロエは体のあちこちに刺し傷をつけられ、両手首から先を奪われたまま、湖の傍で横たわっていました。
夜になると、カリロエの傷口が星のようにキラキラと光りました。
そして朝を迎えた頃には、傷口は全てふさがっていました。
「ああ、ぼくは死んだのか」
目覚めた当初、カリロエは自分が地獄に落ちたのか天国に落ちたのか考えていましたが、
そのうちに妖精の村長がやってきて不死の呪いのためにカリロエが死ぬことはないこと、手首は兵隊たちがもっていったせいで元に戻せないことを伝えました。
「そうですか。でも、足でなくてよかったです。足さえあれば、踊りは踊れますから」
「それは結構なことです」
妖精の村長は内心、若者が足をなくしていたらすぐにキノコの苗床にしようと思っていたので少し残念でしたが、
紳士なのでそれは口にせず、「では踊りに励んでください」とだけ伝えて湖を去っていきました。
カリロエはさっそく、踊りの練習を始めることにしました。ブトウフの続きはまだまだ大量にあるんですもの。
一枚のブトウフを覚えたら、また最初からそこまで舞踏を踊り、体にしっかり叩き込む。
それが済んだらまた新しいブトウフを覚える。
カリロエはこの作業を昼も夜も関係なく、延々と繰り返してきました。
「……」
カリロエは踊りの練習をしながら、何か心の中にひっかかるものを感じました。
きっとそれは兵隊やシャルダンが刺した槍か剣の刃先がカリロエの体の骨なり肉なりにひっかかってのこってしまったのではないかと最初思いましたが、
踊りを踊っていううちにふと、その「ひっかかるもの」が、左手につけていた指輪であることを思い出しました。
そうです。カリロエは左手の中指に小さい、けれど黄金で出来た指輪をつけていました。
それは彼が、領主マティスのお城で開かれた舞踏会で初めて自分の作った舞曲をみなに披露した時に、その栄光をマティスに称えられ、彼から贈られた記念の指輪でした。
しかし踊りや作曲に夢中になっていたカリロエは指輪が誰から贈られたものなのか、どうして送られたものなのかも、すっかり忘れていました。
けれど手首を斬りおとされてようやく、思い出したというわけです。
けれど、カリロエの手首はもう、カリロエのもとから持ち去られてしまいました。
さて、カリロエに刺し傷を負わせ、金の指輪つきの手首を切り取ったシャルダンと兵隊たちは、さっさとお城へと戻りました。
シャルダンはさっそく母ロジーヌの元へカリロエの手首を持っていき、カリロエを亡き者にしたと報告しました。
ロジーヌは当初カリロエの首をもってきてほしいと頼んでいたので、シャルダンが手首をもってきたことに不満がありましたが、
けれど首だろうと手首だろうとコレシュスを悲しませることはできると考え直し、息子が持ってきたカリロエの手首を受け取り、礼を言いました。
お茶の時間になりました。
ベッドに臥せるコレシュスは、この午後のお茶の時間に出される紅茶だけはきちんと飲んでいました。
コレシュスの紅茶には、たくさんの薬草と蜂蜜が入っていました。
それはコレシュスに使える召使いとお城のコックたちが、少しでもコレシュスに元気になってもらいたいと、一生懸命つくった、とてもおいしい紅茶でした。
もしこの紅茶をコレシュスが飲んでいなかったら、彼女はとっくに骨と皮だけになって死んでいたでしょう。
コンコンッ。
コレシュスの部屋の扉をノックする音が聞こえました。
そしてそのあと、扉がゆっくりと開き、紅茶のすばらしい匂いがサッと部屋の中に流れ込んできました。
コレシュスは召使いが入ってきてくれたものだとばかり思い、窓の外をそのまま眺めていました。
コレシュスが窓を眺めている間に、召使いは持ってきたカップの中に紅茶を注ぎいれ、それをベッドにいるコレシュスに
「お嬢様、どうぞお召し上がりくださいまし」と伝えて手渡すのが日課でした。
その時初めてコレシュスは召使いの方を見て、「どうもありがとう」と小さな声で伝え、目元を常に濡らしている涙をぬぐい、カップを受け取るのもまた日課でした。
ところが、その日紅茶の載った盆を運んできたのは召使いではなく、義理の母であるロジーヌでした。
「さあ、召し上がれ、私のかわいいコレシュス」
「まあ、お母様!」
コレシュスは自分に紅茶の入ったカップを差し出したのが義理の母であることに驚き、あやうく受け取ったばかりのカップを落としそうになりました。
「お母様、一体どうなさったのですか」
コレシュスはロジーヌがわざわざ召使いのかわりに紅茶を運んできた理由を尋ねました。
けれどロジーヌは「あなたが心配になって召使いのかわりに運んだだけですよ。親心というものです」と答えただけでした。
もちろん、本心は別にありました。
コレシュスは以前からロジーヌの、自分に対する冷ややかな目を悲しく思っていましたので、この言葉にとてもうれしく思いました。
ですからロジーヌから渡された薬草と蜂蜜のたっぷり入った紅茶をいつもより多めに飲みました。
コレシュスは紅茶を飲んでいるときにふと、ベッドの傍にある椅子に腰かけたロジーヌが目に涙をためていることに気づきました。
当然コレシュスは心配になって尋ねました、
「お母様、いったいどうしたというのですか?」
ロジーヌは答えます。
「え?私がどうかしましたか?」
「お気づきになりませんか。お母様、あなたは御自分の眼にたくさんの涙をためておいでなのですよ?」
「ああ、ほんと!ごめんなさい。私としたら、ほんとに」
「一体どうしたというのでしょうか」
「どうやら少し昔のことを思い出してしまったようです。あなたが健やかであった頃、そして……」
「そして、なんでしょう?」
「いえ、あの楽師の妙なる音楽がこの館を包みこんでいた時のことを」
「……え?」
「ごめんなさい。あなたもよく知るあの楽師の、美しい踊りも思い出しておりましたから、きっと涙が流れたのかもしれません。
あの楽師の作る歌や曲や、踊りの美しかったこと……
今のあなたにそのようなことをお伝えしても体に障るだけですわ。今の話は聞かなかったことにしてください」
コレシュスの頭の中に、再び黒い嵐が吹き荒れました。
彼女の涙の成分はほとんど、今ロジーヌが話しかけた楽師、つまりカリロエを思う気持ちでできていたのですから、それは仕方がないことでした。
「お母様、どうして突然カリロエのことをお話になるのですか」
自分の身を案じただけで、カリロエの話は突然出てこない。
そういぶかしんだコレシュスはロジーヌに事情を尋ねました。
「それは……言えません。いえ、何も知りません」
重大な何かを知っているのに、娘の身を案じて話せないでいる。そんな様子をロジーヌは演じ続けます。
「お母様!お母様はカリロエについて何かご存じなのですね。おっしゃってください」
「いいえ、私は……ううっ」
涙を流しかぶりをふるロジーヌを見て、コレシュスの胸は今にも張り裂けそうになりました。
「どうか、どうかおっしゃって下さい。カリロエに、あのカリロエに一体何があったのですか?
あの方はどこの国で、歌を作り、踊りを教えられているのですか?
それともこの国のどこかにいて、踊りではない何かをなさっているのですか?
お母様!包み隠さずおっしゃって下さい」
ロジーヌは、しばらくすすり泣くだけで言葉らしきものを発しませんでしたが、ついに「事情」をコレシュスに話して聞かせました。
「分かりました。包み隠さずお話し申し上げましょう。どうぞ心して聞いて下さい。愛しきわが娘コレシュス。
実はカリロエは、つい最近なのですが、辺境の森で見つかりました」
「まあ!居場所が分かったということですね。
よかった。どうして見つかったというのにお母様は泣いておいでなのですか?私はてっきり……」
その時、ロジーヌは娘コレシュスの膝に手をのせ、コレシュス同様に赤くした目をコレシュスに向けて、言いました。
「コレシュスよ、カリロエは、森の中で見つかりました。
けれどそれは、手首だけでした!オオカミの食べ残した手首だけでした。
だから、だから泣いているのですよ!」
「そんな!」
ベッドの上で、紅茶が半分以上入ったカップがコロコロ転がり、床に落ちて粉々に割れてしまいました。
自分の身を案じ紅茶を注ぎに来たロジーヌの優しさで一旦は涙の止んだコレシュスでしたが、
カリロエがオオカミに食べられて手首だけになってしまったというロジーヌの言葉で、涙は堰を切ったようにまた、流れ出しました。
それは見ていて、とても痛々しいものでした。
コレシュスは身も世もなく泣きました。
けれど、ふと、今の話は、何かの間違いではないかと思いました。
ですから、一縷の望みを抱き、義理の母ロジーヌに、どうしてカリロエが手首だけになってしまったと分かるのかと尋ねました。
もちろん、ロジーヌは娘のコレシュスがそう尋ねることまで計算して、こんな惨い芝居を続けていたのでした。
「おお、コレシュス!それについては、それについてはどうか尋ねないでください」
「そんな!お母様!」
「……森の中に踏み入った猟師がオオカミに襲われそうになったとき、漁師は手にしていた猟銃でオオカミを撃ち殺しました。
手柄を誇り、オオカミの皮をはぎ、ついでに肉を切り分けようと腹を開いたとき、その中から手首が見つかりました」
「それが、それがカリロエというのですか!ですからどうしてカリロエと分かるのです!?」
「……手の指には、指輪が嵌められていました。覚えていますか、コレシュス?
舞踏会で初めて見事な舞曲を披露したカリロエに昔、我が夫マティスが授けたあの金の指輪を!
あの指輪が、指にはめられていました。これが、その指輪です」
ロジーヌは、カリロエの指から外した指輪を懐から取り出し、コレシュスにそっと見せました。
金の指輪はところどころ、カリロエの血で汚れていましたが、ロジーヌはわざとそれを洗わず、そのままの姿でコレシュスの前に出しました。
「…………ああっ!」
最後の一縷の望みすら絶たれたコレシュスは、その場で気を失ってしまいました。
ロジーヌはすぐに召使いたちを呼び集め、コレシュスの介抱にあたらせました。
けれど心の底では、「もう助かるまい」と思っていました。
きっと頭がおかしくなって舌を噛み切るか、
窓から飛び降りるか、紅茶を飲むのもやめ痩せ衰えてそのまま死んでしまうと思っていました。
ロジーヌの予想通り、コレシュスは頭がおかしくなってしまいました。
毎日、ベッドの中で宙を見上げては、泣いたり、時々笑ったり、そうかと思うとまた泣いたりするようになりました。
紅茶も、ロジーヌの思った通り、もう飲めなくなりました。
召使いやコックたちはどうしていいのか分からず、とうとう彼らまで泣き出してしまいました。
けれど、どうすることもできません。
コレシュスの繊細な心は、魔女のようなロジーヌのせいで、真っ暗にされてしまっていました。
もう、人にはどうすることもできません。
ある日のこと、寝たきりのコレシュスの枕元に、月の光が差し込みました。
月の光は夜空に雲がかかっていない限り、大抵の晩は差し込むものでしたが、この日差し込んだ月光は特別でした。
何がどう特別かというと、この日は光と一緒に、月の精が下りてきたからです。つまり精霊が現れたということです。
言い忘れましたけど、精霊だの妖精だのはこの時代、いるところにはそれなりにいたのですよ。
彼らの呼び方は、大昔に、どこかの偉い学者が勝手に決めたのですけれど、どういう基準でそれを決められたかは今を生きる私たちにはもうわかりません。
ただ月の精は「精霊」で、森の妖精は「妖精」と、いつの間にか知る人はそう呼ぶようになっているだけでした。
まあ、そんなことはなんだっていいことです。
とにかく彼ら妖精だの精霊だのは気まぐれで、時々人の住まうところに現れては、人に悪さをしたり、人を助けたりしていました。
それらは気分で決まりました。
そうです。精霊だの妖精だのはまるで、風のように気まぐれな連中でした。
この月の精も、そんな風みたいに気まぐれな連中の一人でした。
月の精はコレシュスの枕元に立ち、コレシュスの魂に尋ねました。
これは、正しいことでした。それというのも、コレシュスの心は壊れていましたが、魂は無事だったからです。
心というのは、体の外と内を隔てる窓のようなものです。
ロジーヌのせいで心が壊されてしまったコレシュスは、窓をタールのような黒いドロドロでおおわれて、
しかも釘を打ちつけられた窓のように、開くことができなくなってしまっていたというわけです。
当然、体の内にある魂は外の世界を見ることも、飛び出すこともできなくなっていました。
月の精はそれにすぐに気づいて、タールのドロドロを取っ払い、釘を引き抜いて、コレシュスの魂だけを外に出したわけです。
けれど、用が済めばあるいはまた、タールのドロドロを塗り、釘をさして魂を体に閉じ込めておこうと思っていました。
理由は特にありません。
何せ妖精だの精霊だのというのは気まぐれですから。
「こんばんは」
「ええ、こんばんは」
「元気がないね」
「ええ、とても元気を出せるような気分ではありませんから」
「どうしてか教えてよ」
月の精はきっと面白い話が聞けると思い、コレシュスの魂に尋ねました。
コレシュスは自分がカリロエという楽師を慕っていたこと、そのカリロエが自分の知らないうちに城を追い出されてしまったこと、
そして辺境の森、つまり妖精の森でオオカミに食べられてしまったことを月の精に話して聞かせました。
月の精はうんうんとうなずきながらコレシュスの話を聞いていました。
「それは気の毒だね」
「ええ、ですから、私はこんなふうに、なりましたの」
「そう。それで、これからもそうするの?」
「もう、人の世に生きていたいとは思いませんわ」
「ふ~ん」
月の精はこのとき、ふと悪戯を思いつきました。
「ねえ、君は本当にオオカミがその人間を食べたと思うのかい?」
「……どういうことでしょうか?」
「ひょっとしたら悪い人間が別にいて、そいつが殺しただけかもしれないよ?
何と言っても人間なんてみんな嘘つきだ。
自分の取り分がちゃんとあるのに、ないからよこせって周囲から奪ったり、
好きなのに死んでしまえって言ったり、あべこべで、さんざんなものさ。
どうだろう?
あるいはひょっとすると、オオカミに罪をなすりつけようとしている人間がどこかにいるのかもしれないよ?」
運命の女神がこの場にもし居合わせたとしたら、きっと顔をしかめたことでしょう。
はからずも、適当に月の精が言ったことは、多かれ少なかれ、あたっていましたから。
月の精の言葉を聞き、コレシュスはそうかもしれないと考えました。
なぜなら、カリロエは誰にでも好かれる、優しくてまじめな人間だったからでしたし、コレシュスが愛していた男性だったからです。
このような素晴らしい人を食べるオオカミがいるなんて、コレシュスには信じられませんでした。
もっともオオカミはそんなことを気にせず、食べるときは食べると思いますけれど。
「ねえ、月の精さん、あなたにはひょっとして心当たりがあるの?」
コレシュスは尋ねました。
「いいや何も。でも、もし君が気になるのなら、お嬢さん。自分で調べてみたらどうだい?」
「ええ、そうしたいのはやまやまですわ。
でも、もう無理です。私はもう体を思うように動かせないんですもの」
「何だ、そんなの。心配いらないよ」
月の精はそういうと、コレシュスの魂に、魔法をかけました。
するとコレシュスの魂がそのままコレシュスの体に入っていきます。
「これからは自由に、どこにでも行けるよ。ただし、太陽のある昼間だけ。
夜は、たとえどんなに月のきれいな晩でも寝ていないといけない。
でもそのかわり、昼の間は自由さ。
森に行くもいいし、食べるのもいいし、街で一人踊るのもいい。好きにしなよ」
「まあ、それは素敵ですね。そしてありがたいわ。
私も、カリロエがオオカミに食べられたとは、実は信じていませんでしたから。
こうなったら、私一人で調べてみますわ」
「うん。そうするといい。きっと人間が怪しいよ。人間は怪しい」
「そうですわね。人は……ええ、本当に全く信用できませんもの」
かわいそうに、コレシュスはすでに、魔法に冒されていました。
その姿は人の背丈の倍もある、オオカミの姿をしていました。
けれど、コレシュスは自分の姿がそんな風になっていることなど気づきませんでした。
「ああ、なんて体が軽いのかしら。これなら、空だって飛べるかもしれません。月の精さん。どうもありがとう」
「どういたしまして。さあ、もうお休み。明日は早いよ!」
月の精はそういって、窓の外に出ました。
空に帰る途、これから今話した少女がどうなるのかを考えると、とてもわくわくしました。
ですから、空に帰る途、月の精は踊りを踊りました。
それはまるで、流れ星が空にいつまでも浮いているような綺麗な光を放っていました。
コレシュスは明日からカリロエの行方を捜しに行けるのだと思い、その日はぐっすりと眠りました。
いいえ、実は眠ったつもりになっているだけでした。
本当は、そうです。コレシュスはすでに、人の姿をしていません。
オオカミになってしまっているのです!
月の精はコレシュスに魔法で呪いをかけ、しかもあべこべなことを言って去って行ったのです。
コレシュスの魂が本当の眠りにつくころ、コレシュスの体は、つまりオオカミの体はコレシュスの部屋の窓をたたき割り、お城を抜け出しました。
そして気の向くまま、外を走り回り、気の向くまま、民家に押し入り、気の向くまま、人間を引き裂き、食べ始めました。
一通りそれらの行為が済むと、街を出て、近くの森に行き、そこで眠りにつきました。
朝にはコレシュスの体はオオカミではなくなり、人の姿に戻りましたが、コレシュスの魂は、やはり自由ではありませんでした。
月の精が来る前とあまり変わりませんでした。
けれど、夜になるとまたオオカミに姿を変え、お城の傍の民家に押し入り、気の向くまま、人間を引き裂き、食べたり飲んだりしていました。
遠くから見るとその姿はまるで、悪魔が暗闇から現れて、踊っているようでした。
暗くて誰もコレシュスとは気づかず、またオオカミかどうかさえよくわからず、ただただ恐ろしい光景だけが朝になって発見されました。
誰もが恐怖のどん底に落ちて、もう夜歩きをする者は誰一人いませんでした。
さて、領主マティスですが、彼は自分の一人娘の部屋がぐちゃぐちゃに荒らされていて、かつ連日連夜、街の人々が殺されるものですから、
きっと自分の愛娘も悪魔に連れ去られ、殺されてしまったと思うようになりました。
ですから、その嘆き悲しみは大変なものでした。
まるでカリロエがお城を去ったときのコレシュスのように、毎日毎日頭を両手で抱え、娘の姿を思い出しては、涙を流し、コレシュスの名を繰り返していました。
また、コレシュスのことが好きだった弟のシャルダンも、大変でした。
けれど彼は、領主マティスとは違っていました。
彼は、前にも言いましたが、悪魔や神様などこれっぽっちも信じていません。
ですから今回の事件は、盗賊の仕業だと考えていました。
そんなわけですので、きっとコレシュスは生きている、彼女は身代金目当てで誘拐されたのだろう、時期を見て盗賊たちは身代金の要求をしてくるだろう、
その前に捕まえてやるなどと思い、父マティスに代わり国境にある関所をすべて封鎖し、
兵隊たちを連れ毎日毎日、城の外、国中を歩き回り、盗賊、もしくはそれに近い怪しい者、
あるいはオオカミといった家畜を襲う獣などを見つけては片っ端から捕まえて、問答無用で殺していました。
領民は夜現れる悪魔のような得体のしれない何かも当然恐れましたが、昼街をねり歩くシャルダンとその兵隊たちも同じくらい怖がりました。
まったく、生きた心地のしない話でした。
けれどそんなことはつゆ知らず、妖精の森では昼も夜もなく手首を失ったカリロエが毎日毎日ブトウフの踊りを覚えつづけ、
別の森の奥では昼間、コレシュスが深い眠りについています。
みな、自分たちが妖精や精霊に振り回されているとは、夢にも思っていませんでした。
ですが、それが現実でした。
三、召喚
翌日、学校に中西の姿はなかった。
担任に彼女の欠席理由を聞いたところ、体調不良らしい。
両親から今朝連絡があって治療をしているという。
ちなみに中西の両親はそれぞれ開業医と看護師で、家は医院とくっつき、戸建ての一階が診療所になっている。
僕が彼女を放置したのは診療所の裏手の玄関だった。
「そうですか」
「どうした、心配なのか」
「……はい。心配です」
すごく。
「そうか。部活とか入っていないんだったな。もし忙しくないんだったらプリントとか届けて……ってそれは面倒か」
「いえ」
面倒じゃない。
「分かりました。届けます」
「ん?そうか、ところでお前も体の調子、大丈夫なのか」
「え?」
「顔色があまり良くないぞ。目の下にクマもあるし」
「そう、ですか?」
『ペシュメルガ』をやり過ぎたせいかもしれない。悲しみや喜びや苦しみや謀略といった膨大な情報が一気に濁流になって押し寄せてきたような、重い内容だった。
「全然平気です。大丈夫です」
「まあ、そういうことならいいけど、ちゃんと睡眠と食事はとれよ。
あと勉強もしろよ?いつも平均点なんだから、やればできるって」
「はい。ありがとうございます」
担任とどうでもいい会話をすませ、手紙やプリントを受け取る。
届ける相手は、僕にとってどうでもよくない存在だ。
放課後、僕は電車を利用しないで彼女の家までランニングする。
体を動かし続けるということを、体にもう一度思い出させたかった。
「はあ、はあ、はあ」
中西の家まで行き、プリントと連絡事項の書かれた手紙を渡し、家に戻る。
そして舞踏譜を机の中から取り出し、そこに描かれているステップを誰もいない居間でひたすら練習した。
「こう、か?」
描かれているステップ自体は、踊りに関して素人の僕でも大して難しくなかった。
学校の生物の時間にやった〈ヒトの血管系〉を流れる血液の経路によく似た路を色々な歩幅で歩くだけらしい。
静脈血が心臓に入って、肺に行き、酸素を含んだ動脈血になって心臓に戻る。
それから心臓を出て足先の毛細血管まで酸素を渡して、二酸化炭素を受け取って心臓まで戻ってくる――。
新体操部が全員学校を去り、さらに校門が閉まる予定時刻まで、こんな感じの血管系みたいな経路を正確に歩む練習を、僕は家の中の居間で続けた。
誰に見られる心配もない。
どうせ親は帰ってこない。
夜。雲がなく月の明るい午後九時。
ジャージ姿の僕は家を出る。
運動不足を解消するために学校まで走り、校門をよじ登り、なぜか鍵の掛かっていない新体操部の地下練習場に忍びこむ。
ポケットから舞踏譜を取り出す。
照明はつけず明り取りから差し込む月光だけを頼りに僕は大きな鏡の近くでステップを慎重に踏み始める。
最初踏み終わっても何にも起らず、「ひょっとすると中西みたいにちゃんと踊らないとダメなのか?」と思いつつも、
舞踏譜には足が進む絵しか描かれていないので落ち着いてその後さらに三回ほどステップをやり直した。
その三回目の終わり、「これでよし」と思えるくらいにわずかの乱れもなくステップを鏡の前で踏み終わった時、
「?」
世界が崩れた。
「!」
立ち尽くす僕とは別に、鏡の中の僕が自分自身の首をそっと絞めるポーズをとる。
ブワン……。
その瞬間、壁一面を覆う鏡面が鏡の中の僕を軸にして半分に折れ、左右から僕を挟んだ。
ちょうど目の前に飛んでいる蚊が本で挟みつぶされるような感じだった。
一瞬にして目の前が真っ暗になる。けれど、不思議と痛くもかゆくもなかった。
「何を言っているのだ?」
「えっ?」
声のする方に意識を向ける。
鏡に挟みつぶされたと思ったのは気のせいらしく、僕は普通に鏡の前にさっきまでの通り立っていた。
ただし、さっきまでいなかったはずのモノが鏡に映り込んでいた。僕の左後方に。
「真に屈せぬのはどちらか。今日こそ明らかにしようではないか」
僕の目の前にあった鏡には僕が映っている。
それは鏡だから当然だ。けれどそれとは別に、僕から離れた場所にもう一人〈僕〉がいた。
ただしその姿はジャージじゃない。コスプレをした〈僕〉だった。
「あ……」
しかもそのコスプレを僕はよく知っている。
「我は逃げも隠れもせぬ。……参るぞ」
ゲーム機の中で動き回る二次元キャラクターの格好を〈僕〉はしていた。
最近まで通い詰めていたゲーセンの格ゲー『鬼区』の中に出てくる剣士ブラックマリアだった。
使い込んでいたからよく覚えている。
考えてみれば喋り方まで一緒だった。
「えっと……え?」
舞踏譜を踊る時に、一生懸命強い自分をイメージした。
ふざけたつもりは全然ない。
毛頭こんな左半身だけに赤い甲冑をつけたおかしな恰好をした自分のイメージなんて一度だって浮かべてない。
バーテンダーの広田さんと別れて以降、頭の中は中西でいっぱいだった。
だからまさかこんな奴が出てくるとは思いもしなかった。
なんだよ、これ。
ふざけてんのか舞踏譜。こんなのあり得ないだろう。
「雨の歌が哀しみの空を砂のごとく渡る。青ざめた風よ、生き飽きたのなら貴様も行け。我は今より恐怖とならん」
フッ!
ブラックマリアの格好をした〈僕〉が聞いたことのある文句を残して視界から消える。文句?何の?
「斬道儀式、其の壱……」
あっ!
――プリズムショットガン(乱れ打ち)。
真後ろで自分の声がした。声を頭が認識すると同時に、それがブラックマリアの技だと理解する。
十字キーとボタンをどう動かせば発動するかコマンドが頭に浮かんだ時には、
シュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュンッッ!!
「うわっ!?」
ブラックマリアの十八番である〈滅多斬り〉が僕を襲っていた。
コマのように回転する彼の日本刀が僕を斬りつけるが、その刃は僕に触れず、
臼井と争った時に見た金色の粒子となって、触れる瞬間に消えた。
「消えた……」
そこでホッとした。
けれどホッとした瞬間、ブラックマリアの姿の〈僕〉は剣を止め、
「要領が分からないからどうしようもなかった。そう言い訳をするんでしょう?
でもそうじゃない。単純に覚悟が足りないだけ。
中途半端な覚悟しか持っていない者に、夢に逃げ込む者を非難したり助けたりすることなんてできない。
やっぱり私にとってあなたはウザイくて邪魔なだけ」
その甲冑姿をセーラー服の中西に変え、重い一言を残して煙のようにかき消えてしまった。
「……」
周囲に再び静寂が戻る。
心臓の鼓動を僕は強く感じ始める。
ドックン。
「はあ、はあ、はあ」
ドックンッ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
ドックンッ!
このまま終わるのは、絶対にまずいと心臓は言っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……分かってる!!」
額に浮いた汗を拭き、もう一度、舞踏譜に描かれたステップを歩む。
確かに要領がよくわからず混乱した。だけど次は、混乱しない。
混乱して見せたりしない。
それが何であろうと受け入れて闘う。
どうやって闘っていいかわからないけど、とにかく闘う。
ゲームでブラックマリアの使い手を相手に使ったことのないキャラで初めて対戦する時のように、とにかく剣は交わすか、
かわせないとしても致命傷は避けて、手足が届く間合いに持ち込んで、何とかする。
ステップを踏み終わるとさっきと同じように召喚が成功する。
日本刀を右手に持ち、左半身を赤い鎧で覆ったブラックマリアと同じ格好の〈僕〉が立つ。
いや、〈僕〉と思うのはやめよう。
動きからして本物のブラックマリアだと思った方がいい。
「その程度の鎧で汝の無頼な身を守れると思うか?哀れな」
さっきと違う点は、召喚後、自分の左半身に違和感を覚えたこと。
そしてそれはブラックマリアと同じ赤い鎧が体にくっついていたせいだと、鏡に映る自分の姿で知った。
こうなるとは予想していなかったが、今はさっさとその現実(というか事実)を受け入れ、目の前の敵の攻撃を防ごうと覚悟した。
フッ!
ブラックマリアの〈僕〉が消える。
後ろに回られることを警戒して僕は横に飛び退く。
ブラックマリアの〈僕〉は飛び退いた僕を追いかけ、剣を振りかぶる。
幸いなことにプリズムショットガンではなく、ただの上段斬りだった。
ガーンッ!
「!」
僕の左半身を守っている赤い鎧にブラックマリアの〈僕〉の日本刀が触れる。
その瞬間にまた黄金の粒子となって全てが終わるのかと思っていた僕は思わぬ衝撃に脳が揺れ、気を失いそうになる。
しかしブラックマリアの〈僕〉は待ってくれず、剣を僕のまとう鎧にぶち当てた後、
倒れこむ僕の顔面をその左足で蹴り上げようとした。
「うっ」
戦いは続いている!
そう判断した本能が僕の両腕を体の前に出し、顔面を守る。
左腕を前に、右腕をそのすぐ後ろにして。
ギャンッ!
骨がへし曲がるのではないかというほどの衝撃を腕に受け、僕の体は宙に浮いて吹き飛んだ。
吹き飛んで僕が落下した地点には既にブラックマリアの格好をした〈僕〉が笑みを浮かべながら待機していて、
「眠り逝け。霧の死府へと」
僕が落下すると同時に鎧で覆われていない僕の喉元に日本刀を突き刺した。
サー……
いや違う。
刺さる直前で金色の粒子が現れ、剣先をかき消す。
剣先からかき消えていくブラックマリアの〈僕〉はいつの間にか中西に代わり、例の「ウザイだけ」と言葉を吐き、闇に消える。
再び静寂があたりを包み込む。
「はあ、はあ、はあ……」
左半身が急に冷たくなる。
違和感をもたらしていた赤い鎧はいつの間にかなくなり、あるのは汗だくの体一つだけだった。
「ぐ……」
体を起こす。
ジャージの上を脱いでTシャツになる。
左の三角筋と上腕二頭筋に濃いアザができていた。痛くて、悔しくて、涙が顔を流れた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
涙を拭う。
事情は分かった。
つまり舞踏譜によって、切実な経験を通して得た願い(イメージ)は一時だが、具現化する。
身を守るために鎧がどうしても必要と思えば鎧は現れるということ。
そして具現化した願いが幻影の攻撃を受ける限りは、幻影は消えない。
ただしそうでない場合、つまり生身の体が幻影の攻撃を受けた場合、幻影はかき消える。
本人にとって一番悲しい思いを残して。
だけどこれだと、どうして中西の生みだした幻影である臼井が生身だった僕を攻撃してもすぐに消えなかったのか説明がつかない。
いや……説明なんて今はどうだっていいんだ。
広田さんに言わせれば他人の夢は君の夢と違うからとか、そんな話になるのだろう。
理屈など分からない。けれど確かに僕はあの臼井に殺されそうになった。
そして今自分が召喚したブラックマリアの〈僕〉に半殺しの洗礼を受けている。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
でも、
よりによってブラックマリアなのはなぜか?
そんなの、僕がゲームの中で一番使い込んでいるからだろう。
じゃあどうして使い込んでる?
「はあ、はあ、はあ……やってやる」
ブラックマリアというキャラクターが、ゲームの中で一番攻守のバランスがとれているからだろう。
それで、きっと、そんな感じで、だ。
そんなことどうだっていい。
「やってやる……」
やることはさらにはっきりした。
次は鎧だけじゃく、剣も。
ブラックマリアに倒されずに、ブラックマリアを倒す。
その経験値をもとに、中西を包む幻影(臼井)を止める。
中西を助けるために。
「今度は、戦うことを強く願う……そうすればきっと、剣も、出る!」
それから夜が明けるまでの間、ひたすら召喚し、召喚しては倒され、嘲られ、アザを増やしていった。
「はあ、はあ、はあ……うっ」
広田さんの言う通りなら、舞踏譜で召喚をするたびに召喚者の生命力も奪われる。
けれど、召喚をくりかえすごとに闘い方というものを学んでいける。
危険は反射的に避け、瞬時に体が行動できるようになっていった。
それだけでよかった。命を削られるのは、仕方ない。
なぜなら、もう仕方ないと決めたから。
中西を救うためなら、何だって差し出す。
なんだってする。彼女を救い出すまで自分の命は勘定に入れない。
救い出した時もし自分の命が果てたとしても、それは仕方ない。
無責任かもしれないけどあとは、知らない。
ブワン。
「妄執を引きずるか弱き者よ。無様を晒しに来たか」
「ああ。無様でもか弱くてもいい。僕は僕のやれることをやる。それだけだ」
「明暗の日々に別れを告げるべし!」
「はあああああああああああ!!」
ガキンッ!!
闘った。
一方的な私刑じゃなく、闘いと呼べるものになるまで、必死に闘い続けた。
シュンッ! スパンッ!
ギャギャ! ガキンッ!
ガンッ! ガガンッ!
斬り、防ぎ、躱し、薙ぎ、掴み、投げ、殴り、蹴り続けた。
最初は空を、床を、地面を、そして、ついには相手の鎧を。
「汝の刃金には何が灯る?」
「はあ、はあ、はあ……中西」
「世迷言を。澄んだ冷剣に灯すは己のみ!誰かのための剣など迷妄に過ぎぬ!」
「違う。お前こそ間違ってる。……自分のために本当に強くなんて、なれるもんか!」
ズドンッ!
ドゴドゴッ!
バスッ!
常に斬られ、ほとんどが防がれ、完璧に躱され、大方は薙がれ、気を抜けば掴まれ、
すぐさま投げられ、容赦なく殴られ、間髪入れずに蹴られ続けた。
「ウザイ……」
何度も、何度も止めの罵声を浴び続けた。
「ごめん。でも、頑張る、から」
心が折れそうになるのを必死に耐え続けた。
昼間学校では死んだように眠り続け、学校が終われば帰宅して『ペシュメルガ』をいじった。日が落ちて学校に人の気配がなくなったら忍び込んで、夜が明けるギリギリまでブラックマリア相手に戦い続けた。
命を削られつつ、誰かのために強くなろうとする。
それはそれで、充実している気がしないでもなかった。
寝不足で足がふらつくくらいグロッキーになって、毎日闘いのことばかり考えているせいで同級生の下らない話に頭を使わずに済むようになったことも含めてよかったと思う。
でも、
「くそ、時間がない」
忘れてならないのは、この行為には制限時間が設けられていることだった。
そう、七日しかない。
七日経って、目を覚ました中西が再び臼井という幻影を召喚し、それを倒せなければ中西は衰弱死すると広田さんは言った。
そうなれば僕の努力は無意味だ。
そうなれば僕はもう、意味がない。
それだけは避けたい。
あざだらけの全身が脳に伝える痛み信号はいつも、焦りを伴っていた。
その日も、学校がいつの間にか終わっていた。
ホームルームで担任に起こされて、注意され、学校を出る。
眠い。
痛い。
寒い。
「なに、言ってんだ」
それもこれも、中西のためだ。
これくらい、たいしたことない。
「ふう……」
過眠症を患ったかのように眠い。
体がバラバラに壊れそうなほど全身が痛い。
毎夜告げられる幻影の罵倒で心も寒い。
「たいしたことない……こんなの、たいしたことない」
街中をとぼとぼ歩きながら自分を励ます。
気付けば涙が流れ始める。
強く冷たい風が足元を無表情にさらう。
今日はなんか、家まで走って帰れそうにない。
ガクッ。
「あ」
膝が崩れる。
そのまま体がアスファルトに倒れていく。
ガシ。
「おい失恋君、しっかりしろって」
けれど地面に膝を着く前に、誰かが僕を後ろから支えてくれた。
誰だ?
「大丈夫?」
シャンパンのような色の髪先が僕の頬にそっとぶつかる。
香水のような柔らかな匂いが鼻に届く。
白い吐息が目の前をさっと流れて消える。
「……荻原」
「あんだけ学校で眠っているくせにまだ寝足りないのかね」
体を支えてくれたのは、クラスメートの荻原時雨だった。
クラスを一つの組織として見た場合、その組織の中心的な存在で、いつも突拍子もない話題を相手にふって話を盛り上げる。
朝いきなり「猫の手を食べてきた」とか言って周囲を「は?」と言わせるような変なヤツだ。
「さてはフラれたショックをまだ引きずっているんだね。
でもぶっちゃけしょうがないよ。アレはぶっちゃけ君と相性悪いって。
中西はさ、ぶっちゃけお嬢様的なオーラが出てるっしょ?
それに比べて君はね、何て言うか、ぶっちゃけ一般市民だよ。
つまりお姫様と百姓みたいな感じだね。
だからさ、君が悲しいくらい純な愛を中西に告白した時は『マジか~』ってため息をついたわけですよ、ぶっちゃけ」
「……」
僕の体を支えつつ、荻原はどこかへ向かって歩いている。
歩きながらしかも、余計なおしゃべりを続ける荻原。
ムカつく。元気だったら……一緒に笑っているかもしれない。
「あっ、でもぶっちゃけ、中西ファンて実際多いのさ。
あの長い黒髪を鼻にこすり付けてクンカクンカしたい!とか、
あのタイツに隠された美脚に頬ずりできたら死んでもいい!とか、
とにかくどこでもいいからブッかけたい!とか言ってる奴、結構いるからね。
『アホだ~』って嘆くしかないよね、ほんと」
他人のことを馬鹿にして笑いを取っているのになぜかこいつは憎めない。
そんな雰囲気がこいつにはあるから、たぶん今元気があってもぶん殴りたいと僕は思わないだろう。
それにしても、こいつはどこに向かっているんだろう。
「へへへ。金井の旦那、着きやしたぜ」
「なあ……」
「何さ?ぶっちゃけもう歩けるから恋人みたいに引っ付くなって?ほんとはうれしいくせに。若いムスメの神秘的な柔肌に触れる機会なんて君にはぶっちゃけそうないって。あはん!どこ触ってんのさ!」
「ちょ、ふざけるな……ここって」
連れてこられたのは、かつての僕が毎日のように通っていたゲームセンターだった。ここまでくる間にある程度回復した僕は店の前で、自分の体を支えてくれていた荻原から離れる。
「帰る。……こんなところで油を売ってる場合じゃないんだ、マジで」
「なんでさ。今日は学校から手紙も課題も預かってないでしょ。だから中西の家に行く必要もないから時間あるんじゃない?どうなのよ?答えなさいってば!」
この口調の変化は……ああ、クラスの一部で流行っているアレか。
「どうして僕が中西の手紙や課題を届けに行くことをお前は知ってるんだ?」
「えっ、そ、それは……その……」
「どうしたの?」
「い、言っとくけど、あなたの跡をつけたりなんてしてないんだからね!
あなたのことなんて、ほんとに、どうでもいいんだから!」
深夜にテレビをつけてチャンネルを回していれば出会えそうな二次元の女の子みたいに、頬を赤らめプリプリ怒りながら奇妙な口調に変わる荻原。
病んでる。
こいつといると頭がおかしくなる。
「分かった。えっと……じゃあな。さっきはありがとう」
「そぉんな~、せっかく助けてあげたのに。
ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃん」
「付き合うって何に付き合うんだよ」
「うわ、無粋な質問。ゲーセンに来て何に付き合うかですって!?あなたアホなの?」
「……」
「君がいつもやってたゲームあるっしょ?あれ、やって見せてよ」
「え?」
「お願いだよブロークンハート。1ゲームだけでいいからさ。あっ、でも100円入れて2ゲームだから、2ゲーム目からは私がやっちゃいますね、ご主人様!」
強引に腕を掴まれる。振りほどこうと思ったけれど、僕の体は腕をつかむ荻原の手を振りほどくために動いてはくれなかった。
……。
不思議だ。
……。
何か、あったかい。
久しぶりに人の温もりを感じたから、ショックを受けたんだろうか。
よく分からない。
でも何にせよ、荻原の手も体もとても温かかった。
その温かさが、僕の体に腕を通して滲む。
それで結局、僕はゲームセンターの中に引きずりこまれてしまった。
格闘ゲーム機の台の前に僕は座らされる。
「二人で対戦がしたいってわけじゃないの?」
「ちゃうちゃう。私は見てるのが好きなのさ。ぶっちゃけ」
「お前さ、何でもかんでも『ぶっちゃけ』ってつけ過ぎだよ」
「そう?まあまあ気になさんな」
頭に団子を乗せたような髪の同級生はアハハと笑いながら自分のポケットに入っていた百円玉を台に一枚投入する。
チャリンという音の後、お金の投入を認識した機械が音を出す。
僕は仕方なく、スタートボタンを押し、ゲームを始める。
「それにしてもぶっちゃけ、音大きいね」
荻原が耳を手で抑えながら普段より大きく口を開けて僕に言う。
口と同じように大きな声でしゃべっているのだろうけど、
それでも周りの音がやかましすぎて、荻原の声はやっと僕の耳に届く程度だった。
「ゲーセンなんてどこもこんなもんだよ」
「まいったな~。ぶっちゃけ耳が壊れちゃいそう。ねえ純愛君。耳栓貸して」
「そんなもん持ってない。それから純愛君って言うな」
荻原の声を背後から聞きつつ、僕は自分がバトルに使うキャラクターを選択する。
「……」
迷った末、何を迷っているんだと気付いて自分を叱り、すぐにブラックマリアを選ぶ。
考えてみれば、今この瞬間はものすごく有り難い機会なんじゃないか。
ブラックマリアの技をこの目でしっかりと確認できる。
そうだ、そうだとすれば僕は荻原に感謝しなきゃいけないくらい、ものすごくラッキーなんだ。
この機会を無駄にするなんて今の僕の境遇じゃありえない。
他のキャラクターなんて選んでいる場合じゃない。
「ひゃっほ~い!始まるよ!ドキドキして股が濡れますな!」
「耳元で訳の分からないことを叫ぶなって」
CPUとの対戦が始まる。
バトルの合間に僕はブラックマリアで使用できる技のコマンドを、目を皿にして何度も確認する。
「あひゃ!
ぶっちゃけテストは鼻くそみたいな点数しか取れないのにゲームはすごいニャ」
「なんか言ったか?」
「いえいえ。鬼みたいに強いなって。あっ、そこ。あ~ほら~2フレ遅い!しっかりしなさいって言ってるでしょ!このスカポンタンのろくでなし!あいやっ、そこ小パンから繋いでコンボ。はうあっ!カウンター!?ゲージ無駄に減ってるし!っていうか相手防御力高!」
「……」
僕の両肩に荻原の両手がいつの間にか乗っている。
そこからジワジワと温かい靄が染み出し、全身をゆったりと流れる。
体の筋肉や骨に噛みついていた痛みが徐々に癒え、頭の中で延々と鳴り響いていた中西の「ウザイ」が霞んでいく。
画面の中のブラックマリアを目で追いながら、中西を好きだと思った当時の自分や、その時の中西の何気ない仕草の一つ一つを思い出した。気持ちが軽くなる。
「よし!」
乱入を退け、ついにラスボスとの対決になる。
「……」
「え、何か言った?」
そのとき荻原が何かつぶやいたように聞こえた。けれどうまく聞こえず、聞き返した。
「何でもない。「頑張ってね。最後まで」って言ったのさ」
「そう、か。うん」
肩に置かれていた両手の気配が消える。
それを少しだけ寂しいと心で思った直後、頭の上に微かな重さを僕は感じる。
どうやら荻原が片手を置いてくれたらしい。
「……」
束の間だけど、目を瞑る。
全身に鳥肌が立つ。
体がふわりと羽のように浮きそうな感じがする。
「いい子、いい子」とでも言っているかのように、僕の頭の上で髪をなでるように手は動いている。
まったく、人を何だと思っているんだか……。
間もなく戦闘の合図がある。目を開く。ラスボスとの対決に集中する。
ブラックマリアの放つ技の全てを目に焼き付けながら戦い抜いた。
「終わった……」
ひと息つき、エンディングロールが流れ始めて後ろを振り向いたとき、そこに荻原はいなかった。
「あれ」
そう言えばいつの間にか頭に置かれていた手のひらの感覚もない。
けれど全然僕は気づかなかった。
「あいつ、人のことゲーセンに連れ込んでおいてまさか一人で帰ったのか」
もう1ゲームやろうと思えばそのままできたけれど僕は荻原のことが気になって店を探し回る。けれどどこにもいなかった。
もうゲームをやる気は起きず、僕はゲームセンターを出た。
日はとうに暮れていた。
昨日や一昨日なら今頃家で決戦のための作戦を練っていたか体を休めるため爆睡していたかもしれない。
なのに今日はゲームセンターで悠長にゲームなんてしている。
「ふふ」
僕は伸びをする。
首を回す。
体も心も妙に軽かった。
疲れや眠気もまったく感じない。
そして頭はすっきりしている。
目を瞑ればその頭の中にブラックマリアの技が速やかに、鮮やかに浮かんでくる。
でもどうしてこんなふうに?
「ま、……いっか」
僕は生まれ変わったような気分でそのまま学校に戻り、女子新体操部の活動が終わっているのを確認して忍び込み、再び舞踏譜を使い訓練に入った。
集中力、スタミナ、技の切れ。
どれも昨日より格段に上がった感じがしたけれど、結局何が原因なのかはよく分からなかった。
頑張ってね。最後まで――
ひょっとしたら荻原が僕に何かしてくれたのか。
そう思ったけれど、やっぱりそれはないなと思い、以降、訓練に全身全霊で打ち込んだ。
舞胎怨劇(参)
さて、どこまで話しましたか。
そうですね。
妖精やら精霊やらのせいで、人々が振り回されてしまったということをお話ししました。
シャルダンによって国境が封鎖された後も、領民は毎晩、悪魔の脅威におびえていました。
悪魔というのは、もちろんオオカミの姿になったコレシュスです。
コレシュスが初めてオオカミになって領民を食い殺した晩からすでに二週間が経っていました。
このころになると、領民たちは兵隊と一緒になって、夜は皆で悪魔狩りと称して武装して出歩くようになりました。
そうすると、毎夜出没する悪魔の正体が盗賊ではなくオオカミの姿をしているということが分かりました。
けれどだから安心ということにはもちろんなりません。
コレシュスの夜の姿は確かにオオカミとよく似ています。
けれど、その毛並は黒曜石のように黒く、その爪は毒の流れる爪でサファイアのように青く輝き、その瞳はルビーのように赤く輝き、
その牙は鋭く鉄のような鈍い銀色をしていました。
そして何より、体の大きさは、ふつうのオオカミよりもずっと大きかったのです。
ですから、オオカミというよりも、オオカミの姿をした悪魔だと、みな思いました。
思っても思わなくても、毎晩誰かが殺され、引き裂かれ、肉を引きちぎられ、血をまき散らし、息絶えてゆきました。
兵隊も、領民も、男も、女も、お年寄りも、小さな子供も、豚も、牛も、鶏も、ネズミも、関係ありませんでした。
みな、月の精によって呪われて人間が信用できなくなったコレシュスの餌食となり、
彼女の大きな胃袋でトロトロに溶けてなくなっていきました。
コレシュスは昼間、寝ているわけですが、どこで寝ているかというと、それは主に森でした。
けれどそれがどこの森と決まっているわけではありませんでした。マティスの治める領土内には、数多くの森があります。
その森のどこで朝を迎えるかは、その時々の気分とお腹に入った人間と動物の数が決めました。
それである日、コレシュスはとうとうカリロエのいる妖精の森で朝を迎えました。
その晩はたまたま、カリロエは妖精の村長の家に招かれて、キノコスープを振る舞われていました。
いえ、正確にはキノコスープはおまけで、村長や他の妖精たちが、
カリロエの踊りがどれくらい順調かを確かめてくれるというので、カリロエが妖精たちの村に足を運んだというわけでした。
このころになると妖精たちはカリロエをキノコの苗床にする気はなくなっていました。
それどころか彼のために髪を梳ったり、髭を剃ってあげたりするようになっていました。
こうまで気前のいい理由は、近頃森の外から素性の怪しいならず者がよくやってくるようになっていたからでした。
妖精たちは彼らを捕まえてキノコの苗床にしていたのです。
要するにキノコの苗床に困っていなかったのでご機嫌だったんですね。
妖精たちはどうして最近多くの人間がわざわざ自分たちの住む森にやってくるのかを知りませんでしたが、
その理由はオオカミとなったコレシュスと、国を取り締まっているシャルダンを怖がって盗賊や素性の妖しい者が色々な森に逃げ回っているためでした。
それで偶然妖精の森に迷い込み、キノコの苗床にされているわけです。
「いやぁ、実に覚えが早い。さすがに音楽家だけのことはありますね!」
「ありがとうございます。でもまだ、覚えなければならない譜面が空に瞬く星の数ほどあります」
「結構です。でもあなたのような人間なら、そのうち踊りを踊れるようになりますよ。頑張ってください」
妖精たちはカリロエの努力と成果を素直にほめました。
キノコの豊作に見舞われている妖精たちはご機嫌でした。
ですからこの日も、キノコ酒という酒まで飲んで、相当浮かれていました。
これはおいしいキノコで作った、大変上等なお酒で、本来なら特別な日にしか飲まれないお酒なのですが、
今は苗床に事欠かず、したがってそのおいしいキノコをいくらでも作れましたので、特別な日でもないこの日も、キノコ酒をたらふく飲んでいました。
「さて、ではそろそろお暇します。いろいろなご指摘、どうもありがとうございました」
実際のところ、何一つ指摘らしい指摘など森の妖精たちはしてくれませんでしたが、
変に気分を害すると自分もキノコの苗床にされてしまうかもしれないと感じたカリロエは早々に妖精の村を去ることにしました。
けれどそのたびに妖精たちにもう少し一緒に踊れだの歌えだの話を聞けだのと言うので、いつの間にか夜が明けてしまいました。
けれど、これが幸いしたのです。
つまり、この妖精たちと過ごした晩に、食事を終えたコレシュスは妖精の森に入ってきたわけです。
コレシュスが入ってきたことなど、普段の森の妖精たちなら気づいたはずですが、何せこの日もキノコ酒を浴びるように飲んでいたわけで、
頭がクラクラになって、コレシュスのことに気づきませんでした。
明け方、ようやく妖精たちが酔いつぶれてくれたおかげでカリロエは妖精の村を出ました。
そして自分の住まいにしている森の奥の、湖まで戻りました。
「あっ!」
湖のほとりでカリロエは、ボロボロの寝衣姿で仰向けになって眠るコレシュスを見つけました。
彼女は領民や兵隊を骨まで噛み砕き、食べた後妖精の森のこの湖まで来て、
たっぷり水を飲んだ後、満足していつも通り眠りについたのです。
そしてそれを明け方湖に戻ってきたカリロエが発見したという次第でした。
「あなたはコレシュス様ではありませんか!いったいどうして」
訳も分からず、カリロエはとりあえずコレシュスを介抱することにしました。
洞窟の中に運ぼうとしましたが、何せ洞窟の中は妖精たちが用意してくれたブトウフで紙の洪水状態になっていましたから、それは叶いませんでした。
そこで仕方なく、湖の傍でそのままにし、隣に座りコレシュスの目が覚めるのを待つことにしました。
昼過ぎになり、妖精たちは村の中で目を覚ましました。けれど、みな二日酔いで頭がクラクラしていました。
そこでみなで湖の水を飲みに行きました。
湖の水はそれはそれは爽やかで、一口飲んだだけで二日酔いなんてすぐになくなってしまいます。
そのことを当然妖精たちは知っているわけで、彼らはフラフラと力を失った蚊のように森の奥の湖に飛んでいきました。
さて、湖に来た妖精たちは座り込むカリロエと、その隣に横たわるコレシュスを見つけました。
妖精たちは湖の水を飲んだ後、コレシュスの様子を見にカリロエの所にやってきました。
「これはお前さんがキノコの苗床にするために捉えた人間かね?」
「いいえ。そうではありません。
実は今朝、みなさんの村を出てここに戻ってきましたところ、領主マティス様のご息女である、このコレシュス様が倒れていたのです」
カリロエは何でもかんでもキノコに結び付けようとする妖精たちにうんざりしながらも、丁寧にコレシュスのことを紹介しました。
ちなみにカリロエは人から作ったキノコのスープが大嫌いでした。
当然キノコ酒も嫌いで、ほとんど口にしませんでした。
ですから早朝に妖精の村から帰ってこられたわけですね。
「ほう。この方が領主マティスの娘ですか。ふむ、これは面白いですね」
カリロエはこの妖精の村長もまた「おいしいキノコが作れそうだ」とか言うのではないかと思い、何と言って思い止めようか必死になって考えました。
カリロエもまた、コレシュスのことは好きでした。
けれどあまりに身分違いなので、その気持ちは一生伏せておこうとかねて心に誓っておりました。
コレシュス様への思いは片思い、僕が結婚するのは音楽と踊りだ――。
そう、カリロエは思い込んで月日を送っていたのです。
「この人間には、月の精の呪いがかかっています。
なるほどこれはひどい。この呪いがかかると、夜には獣となって普段できないこと、我慢していることをしてしまうのです。
見たところ、普段はおとなしい、慎み深い人間なのでしょう。
まるで天使のような顔をしている。裏を返せば、夜になればさぞ恐ろしい獣となるでしょう」
意外なことを、妖精の村長はカリロエに言いました。
彼は妖精の村長だけあって、キノコのこと以外も色々と知っていました。
ですからそれをカリロエに話して聞かせたのです。
「月の精の呪いは、この先どうにもならないのでしょうか?」
カリロエは妖精の村長から月の精の話を聞いた後、コレシュスが目を覚ます方法はないかと尋ねました。
「……」
「あの?」
いろいろ考えましたが、妖精の村長は次のように言いました。
「どうにかなります。たかが月の精の呪いくらい、たいしたことはありませんよ」
実のところ、これはメンツの問題でした。
本当はたいしたことがあるのですが、妖精の村長は人間の手前、月の精より自分たちが下等だと思われたくなかったので、わざと無理をして答えたのです。
けれど本当に、どうすることもできないわけではありませんでした。
「我々妖精の村には、いろいろなキノコの胞子があります。
その中に、呪いを糧に育つキノコというのがあります。
まあ、たいしたものではありませんけど、この際ですから、それを使って月の精の呪いをすぐにでも解いてあげましょう」
その特別なキノコの胞子というのは、本当はこの妖精の村にはあと一つしかありませんでした。
つまり大変貴重な代物でした。
けれどこれもメンツのため、妖精の村長はこともなげにそれを村から他の妖精に持ってこさせ、コレシュスのために用いることにしました。
そしてそんなこととはつゆ知らず、
相変わらずキノコが好きになれないカリロエはコレシュスがただのキノコの苗床になったらどうしようかとそればかり心配していました。
妖精の村長と集まった妖精たちはみなで魔法を唱え、コレシュスのために特別なキノコの胞子を彼女に植え付けました。
するとどうでしょう。
コレシュスの横たわる地面が黒いタールのようなものでドロドロになってしまいました。
それはコレシュスの心を黒く塗りつぶしていた、あの黒いドロドロでした。
それは森にすむ妖精たちすべての影法師を足し合わせても足りないくらい大きく広がりました。
けれどやがて煙のように空へ消えていきました。血のようなひどい臭いをはなっていましたけれど。
「ふう~。もうじきこの人間は目を覚ますことでしょう」
「本当ですか」
「妖精に二言はありません。あるとしても時々です」
「そうですか。本当にありがとうございました」
「ただし、目を覚ますというだけです。呪いが完全に消えたわけではありません。
夜、月光を浴びている間は獣になってしまいます。
こればかりは我々にも……いや、これは少し我々の魔法とは畑違いなので、難しい問題です。
どうでしょう、月光が降り注がないように、この娘は夜の間どこか暗がりに閉じ込めては」
「そうすれば獣にならずに済むのですか」
「おそらく、そうだとは思いますが。その辺はよく分かりません。
何せ畑違いですから。何事も試してみないと」
「そうですか……わかりました。ありがとうございました」
妖精の村長はこともなげにうなずきながら、ふらふらと村に戻っていきました。
他の妖精たちも同じようにふらふらと戻っていきました。
本当は月の精の呪いは森の妖精たちとは比べ物にならないほど恐ろしく強いものだったのです。
ですから、妖精たちは今カリロエの前で披露した魔法のために、力を使い果たしてしまいました。
みな、早く村に戻り、またキノコ酒でも飲んで眠りにつきたいと思っていました。
そしてしばらくは、誰にも起こされず夢を見ていたいと思っていました。
さて妖精たちが帰った後のこと。日が傾きかけた頃になって、カリロエの傍らで奇跡が起こりました。
なんと、コレシュスが目を覚ましたのです。
しかも、頭がおかしくなる前のように、意識はしっかりとありました。
「コレシュス様!」
「……ああ、ああ!」
コレシュスは、意識はしっかりとありましたが、まさか目の前にあの、どれだけ会いたいと思ったかわからないカリロエがいたものですから、
最初言葉が頭に浮かんでこず、浮かんでも掴みきれず、ただ目を潤ませて、カリロエの顔をじっと見ていました。
そしてそんなコレシュスの頭を、カリロエは手のない手首の先で優しく撫でました。
カリロエもまた、目を潤ませていました。
「よかった、よかった、本当に良かった!」
しばらくしてコレシュスはカリロエに抱きついて、そのまま泣いていました。
「カリロエ……どんなに逢いたかったことでしょう!」
「ええ、本当に、このカリロエも、お会いしたかったです」
コレシュスへの思いはゆくゆく捨てなければならないと覚悟していたカリロエでしたが、この瞬間にはもう、そんなことは考えられなくなっていました。
「コレシュス様、私は……あなたを愛しております」
堰き止めきれず、言葉は口から洩れて、すぐ傍にあるコレシュスの耳の中に流れてゆきました。
「うれしい、どんなに私はその言葉を望んでいたことでしょう。
あなたのためなら、私はどのような辛い目にも耐えて見せます」
「私も、あなたと添い遂げることができるなら、一万回地獄の業火にさらされても悔いはありません」
「ああ、カリロエ!あなたが一万回さらされる業火があるのなら、私が一万回涙を流し、その火を消し去って差し上げます。
どうか、もうどこにもゆかないでください!」
その様子を見ていたのは、湖の水と、洞窟の岩と、その周りに生い茂る森と、それらを撫でる風だけでした。
みな、この二人の心の中を良く知っているわけではありませんでしたが、それでもこの男女の流す涙が妖精たちの決して流せないものであることは理解できました。
ですから祝福したいと思い、静かな天気雨を降らせました。
太陽の光がオレンジ色に輝き、その中を銀の糸のような雨がサラサラと、まるで神様が涙したように降り注ぎました。
そしてその下で、一組の男女は固く抱きしめあい、唇を重ねました。やがて祝福の雨がやみました。
「カリロエ、どうぞ教えてください。あなたはいったいなぜ、そのように両手を失われたのですか?
獣に食べられてしまったのですか?それとも盗賊か、あるいは兵隊にもぎとられてしまったのですか?」
雨がやんでから、コレシュスは少し落ち着いたので、気になったことをカリロエに聞いてみました。
「この腕は……」
兵隊に取り押さえられ殺された後、切り落とされた。コレシュスの兄シャルダンのせいで奪われた。それが本当といえば本当の事です。ですが、
「どうしたのです、カリロエ?」
「ええ。実は」
カリロエは、優しい人間でした。
神に誓って誰にも言わないから本当のことを言えと言われた場合、普通の人は「シャルダンとその兵隊たちに奪われたのです。
彼らは獣にも劣る残虐な人たちだ」と真実を語るでしょうけれど、それを聞いて心を痛めるであろうコレシュスのことを思ったカリロエは、
「獣に襲われた時に、食い千切られてしまったのです。けれどこの森の妖精たちが、私を助けてくれました。おかげでどうにか無事に済みました」
とだけ、コレシュスに伝えました。
コレシュスの少しだけほっとした顔を見ながら、カリロエは、このコレシュスのためにもシャルダンやその兵隊たちの今までの罪を赦そうと思いました。
まるで神様のようなことを、カリロエはこのとき胸に思ったわけです。立派な紳士でした。
二人はその後しばらく愛を語らいました。けれど、それも長くは続きませんでした。なぜならそう、コレシュスにかけられた呪いは完全に解けたわけではないからです。
カリロエは妖精の村長から聞いたことをコレシュスに話し、そして夜になったら洞窟に隠れて決して月光を浴びてはいけないと注意しました。
カリロエはそう告げるとさっそく洞窟にあるブトウフを外に出してコレシュスの身を隠す場所を確保しようとしましたが、
「お待ちください」とコレシュスは言って、カリロエをその場に留めました。
「そうでしたか。私は毎晩恐ろしい獣となって……いいえ、実を言うと、
私は毎晩誰かを襲い食べているのではないかと夢の中でうすうす気づいていました。
けれど、ああ、聞いて驚かれるのも仕方がないと思いますが、それがなんとすがすがしい気分であったことでしょう」
「滅多な事をおっしゃるものではありません、コレシュス様」
「いいえ。私は、人を殺すことを、半ば楽しんでおりました。
ああ、もうそれだけでも地獄の業火に焼かれるのは私には目に見えております。
私は、人が信じられなくなっておりました。
誰もかれも。ですから、人を引き裂き、その臓腑を食らうことが大変楽しくて仕方がありませんでした。
けれど、けれど……どうか。うう、信じてください。私は今、後悔しております。
カリロエと愛を契った時、すべてを後悔いたしました。
あなたの優しさ、誠実さをこの目で見た時、人はやはり美しいと、心から思いました。
獣がその快楽に身を任せて引き裂いてよいような存在では決してなかったのです。
ああ、カリロエ……約束を違えます!
もはや、あなたと共にこの世にあることは許されません。私を殺してください。
あなたと天国の門をたたくことも叶わないと知りました。
このうえまた獣となってかけがえのない命の灯をかき消す所業を負うくらいなら、
せめてこの場でどうか、一思いに殺してください」
「そのようなこと、この私めにできるはずがありません!どうか、そのようなことをおっしゃらないでください!」
「……あなたに殺してもらいたいのは、あなたと地獄でお会いしたいからというわけではございません。
あなたの温もりを思いながら、私は死にとうございます。
どうか……それにこのままではまず、私は真っ先に目の前にいるあなたを殺してしまいます。
そんなことをすれば今度こそ、私の全身全霊は獣と成り果ててしまいます。
どうか、哀れな女の最期の願いを聞いて下さい」
そうこうするうちに、地平線に日が沈んでゆきます。コレシュスの姿は見る見るうちにオオカミの姿に変じてゆきました。
けれどそのルビーのような大きな目からは、幾筋もの涙が流れていました。その涙に偽りなどあろうはずはありません。
一切の殺生を忌み懺悔したい一心で零れた、切ない結晶でした。
「コルシュス様。こうなれば私も共に地獄へ参ります」
カリロエはオオカミに変じたコレシュスに飛びつきました。そのままかみ殺されようとしていたのです。けれどそれは無理な話でした。
なぜなら、カリロエには森の妖精たちによる不死の呪いがかけられていましたから。
カリロエのお腹をオオカミの鋭い爪が引き裂きました。
カリロエから勢いよく血が噴き出します。けれどその飛び散る血を見た途端、オオカミは、
「アオォォォォォォォ――――ンッ!!!」
という大きな鳴き声を上げて、湖のほとりにあった、カリロエの住む洞窟へと飛び込んでいきました。
その洞窟の奥深くで何かがぶつかるような鈍い音が、あるいはうめき声が絶え間なく続きました。
それはコレシュスが自分の頭を岩にぶつけて死のうとして生じる悲しい音でした。けれどコレシュスの頭が砕ける前に岩が砕けてしまいました。
洞窟に大きな穴が開き、風が吹き込み、入口へ吹き出し、幾千幾万のブトウフが空に巻き上げられました。
それを目で追いつつ、自分の頭から流れる血にまみれたオオカミはもう一度大きな声で鳴き、最後は湖の中に向かって走り、しぶきを上げて飛び込みました。
カリロエは助けに行こうとしましたが、オオカミとなったコレシュスに引き裂かれたお腹の傷があまりにも深かったため、傷が治るまでの間、気を失ってしまいました。
その間も、湖の表面に大きな泡が立ち上り続けていましたが、やがてそれも消えてなくなりました。
湖面を強い風が吹き、その風が森の木々を烈しく揺すりました。
それはまるで、運命の女神に翻弄された一人の娘のために木々たちが声を上げて泣いているかのような痛々しい光景でした。
けれどその木々たちはやがて頭を揺するのをやめます。これから自分たちに迫り来る恐ろしい臭いに気づいたからです。
それは炎と火薬の匂いでした。森にいる全ての生き物を焼き殺す、激しい怒りと狂気の匂いでした。
そうです。それは、戦争と同じ臭いでした。領主マティスが森という森を全て焼き払うよう命じたのです。
反対する家来は多くいましたが、彼らはみな磔になって森よりも先に生きたまま焼かれてしまいました。
娘コレシュスがいなくなって頭が少しおかしくなっていた領主マティスは、
人を食べるオオカミのような大きな獣――コレシュスのことですが――を退治するために国中の森を焼くことにしました。
そして、最後に焼こうとしたのが妖精の森でした。
マティスが最後に妖精の森を焼こうと思ったのは偶然ではありませんでした。
彼の頭も、コレシュスがそうだったときのようにだいぶおかしくなっていましたが、
それでもコレシュスの面影だけは誰よりもはっきりと心の中に留めてありました。
そしてそのコレシュスが慕ったカリロエのことも、少しだけですけれど、マティスは覚えていました。
そして妖精の森に妖精がいることを、マティスはかねがね噂程度ですが、聞いていました。
さらにその妖精たちが歌や踊りや詩を好むことも知っていました。
つまりマティスは妖精の森と聞いて、歌や踊りや詩を思い出し、それによって、カリロエを思い出し、
またそれによってコレシュスを強く思い出したというわけです。
ですから、妖精の森を焼くのは最後ということに決めたわけです。
まだマティスと彼の率いる兵隊が妖精の森に火を掛ける前でした。
日はとうに暮れていましたが、森たちがざわめいている中で、湖のほとりに住む蛍たちもみなざわめいていました。
彼ら蛍たちは、今度の災難を受けてどこに引っ越すべきか、緊急集会を開き会議を行っていました。
何せ森が死ぬということは湖が死ぬということですから、大変です。国外脱出を図らねばなりません。
けれどその蛍たちの慌てふためく様子も、蛍以外のものから見れば、ただ単にピカピカと湖面の上を明滅しているようにしか見えませんでした。
しかもそのピカピカは、とても美しく、大変幻想的な光景を湖全体に創り出していました。
それはまるで星空が下になって黒煙に曇る天空を照らし出そうとしているかのような壮麗な光景でした。
そしてそんな中で、ようやく傷の癒えたカリロエは目を覚ましたのです。
「うう、く……うう……」
カリロエは目をさましたとき、自分はきっと地獄に落ちたのだと思いました。
なぜなら辺りは暗く、虫の音も聞こえず、空を見上げても、夜ならいつもたくさん見える星は一つも見えなかったからです。
しかも血の臭いが鼻をいつまでも離れませんでした。
「ああ、ぼくはコレシュス様を助けられなかった。いや、助けるとはどういうことだったのだろうか。
コレシュス様の首に食らいつくことだったのか。それともコレシュス様が僕の首に食らいつくことだったのだろうか。
神様。私は、何を願い行動すればよかったのでしょうか」
取り留めもないことを考えながら、それでもただ、自分はコレシュスと一緒にいたい、一緒に死にたい、愛しているとカリロエは思いました。
そのとき自分の周りに〈星〉がたくさんあることに気づきました。いいえ。それは星ではなく、蛍たちの緊急集会でした。
けれどそんなことはカリロエにとってはどうでもいいことでした。とにかくこの星明りのような美しい明かりのおかげで、湖面は一切が見えました。
そしてそのなかほどに、一人の娘の遺体が浮かんでいました。それはコレシュスの遺体でした。
頭から血を流し、体中切り傷だらけになっていましたが、それでもその顔は静かで、ようやくこの世のあらゆる苦しみから解放されたという感じで満たされていました。
「あれは!?」
蛍の緊急集会によって、起き上がったカリロエは湖面に浮かぶコレシュスの姿に気づきました。
まるで星の海に浮かぶ一艘の舟のように、コレシュスは静かに、そしてカリロエからは遠くに浮かんでいました。
「コレシュス様!」
カリロエが泳いでその体を岸にあげるべく、湖に飛び込もうとした時です。
ちょうど蛍たちは採決をとる段になったので、どこか岸に腰を落ち着けることにしました。
けれど湖は広く、皆があっちの岸こっちの岸と意見を申し立てることがひどかったため、蛍の議長が一番近くに浮いていた一艘の舟で採決をとることを提案しました。
みな採決をどこでとるかで言い争っている暇は一刻もないことは重々承知でしたので、それについてはすぐさま承知しました。
それはカリロエが飛び込もうと考え、動くよりもずっと短い時間の出来事でした。けれど蛍たちはすぐさま意見を一致させ、一層の大舟に全員が集まりました。
けれど、そこは舟ではありませんでした。湖に浮いている一艘の舟と思ったのは、コレシュスの亡骸でした。けれど蛍たちにとってはどうでもいいことでした。
さっさと上船を済ませ、賛成か、条件付き賛成か、それとも反対かを種族ごとに表明しようとしました。
カリロエは、この瞬間、飛び込むのをためらいました。別に蛍に配慮したわけではありません。
ただ、湖中に浮かんでいた星のような蛍の光が全て、コレシュスの死体に集まったためでした。
それはまるで、神様が湖面に横たわっているような神々しい光景でした。なぜって、それはコレシュスが全身から光を放っているように見えたわけですから。
カリロエはそんなコレシュスの姿に、もう一度、ただ、純粋に、他に何も思わず、ただ一言、
「愛しております」
とだけ告げました。
さて、蛍ですが、カリロエがコレシュスの姿に神を見たと思っているわずかな間も、彼らは大忙しでした。
条件付き賛成と賛成から、さらに妥協案を模索しなければならなくなり、
そうなると同じ場所で意見交換をする前に一度種族ごとに分かれて集団の意見調整をせねばならなくなりました。
ですから、みんな、〈舟〉から離れて行きました。
けれど離れて行く最中、岸まで戻るのは時間がもったいないという風にどの種族の蛍も思いましたので、
とりあえず近くに浮かぶ小さな浮島に今度はバラバラに分かれて上陸することにしました。
それは湖の岸部からも、〈舟〉からも丁度良い距離にありましたし、たがいの種族からも適度に離れた距離にありましたので、
蛍たちは満足し、各々意見の集約に入りました。
「……あっ!」
お尻を光らせて飛ぶ蛍の様子に普段と違う何かを見たカリロエはもしかしてと思い、洞窟の崩れてできた岩山のてっぺんに急いで登りました。
てっぺんから湖面を見下ろし、そしてこの時初めて、神の御業をこの目で見たのだと確信しました。
蛍たちが浮島だと思っていたのは、妖精たちがカリロエのために洞窟に持ち込んだ大量のブトウフの一部でした。
譜面が風で吹き飛ばされ湖に浮いていたので、蛍たちは互いにそれらを浮島だと思ったのです。
さて今、湖の上にところどころブトウフが浮いているのでしたが、どれもこれも、正確に、
カリロエの立つ岩山を通る直線を軸に左右対称に、等間隔に譜面は浮いていて、
しかもその浮かぶブトウフのすべてに、蛍の集団が集まっていたため、譜面は光って見えました。
そうです。今、湖全体を一枚の譜面として、一つのブトウフが闇の中に誕生したのです。
すくなくともカリロエにはそう見えました。
蛍の浮島にされた譜面が足跡のように配置され、光り輝き、それらがゆらゆらと漂っているわけでした。
カリロエは、それを目に焼き付けました。妖精たちがもたらした膨大なブトウフは神の力によって、一枚に集約されたのです。
そうに違いないと、カリロエは心から思ったので、一心に目に焼き付けました。
蛍たちはまもなく、もう一度〈舟〉に戻りました。
その様子がカリロエの眼には、コレシュスが神を宿し、一旦カリロエにブトウフを見せ、そしてもう一度神を宿したようにしか見えませんでした。
岩山の上でカリロエは跪き、コレシュスに、そして神に祈りを捧げました。
コレシュスの光が消えました。つまり蛍たちは集会を終え、次なる目的地に向けて出発を始めたということでした。
蛍たちが去った頃、別の光が森の中を押し進んできました。
それは森にすむすべての生き物が凍り付くほど恐ろしい、あらゆるものを焼き尽くす炎の光でした。
そうです、領主マティスが放った炎でした。
カリロエは跪き祈りを終えた後、森を焼き払おうとする火の手に気づき、急いで湖に飛び込み、コレシュスの遺体を引き揚げました。
そして濡れた身のままコレシュスを背負い、火の海をひた走りに走り、森を抜けました。
普通の人間なら息ができなくて死ぬような火中の道程でしたが、カリロエは不死身でしたし、
背中のコレシュスはすでに死んでいましたから、その点は問題ありませんでした。
森を抜け、ようやく火の心配がなくなった場所で、カリロエはコレシュスを背中から降ろしました。
そして彼女の冷たくなった手を握り、自分が知った願いをかなえる妖精のブトウフで必ずコレシュスを生き返らせようと思いました。
けれど、それが正しいことなのかどうなのか考え、思いとどまることにしました。
コレシュスの死に顔はとても穏やかでした。
それは地獄に赴いた住人の顔とはカリロエにはとても思えませんでした。
きっと神様がコレシュスにだけは情けをかけてくれたのだ。
おそらくコレシュスに殺された領民や兵隊にも神様は情けをかけてくれよう。
みんな天国に行ったのだと、カリロエは思いました。
そしてコレシュスの蘇生ではなく、コレシュスの犯した罪を全て背負い、生きて使命を果たそうと思いました。
使命とはすなわち、今森と共に焼かれている妖精たちの施した呪いでした。
カリロエの舞踏に「足りないもの」が何なのかカリロエが分かるまで、カリロエを死ねなくする、あの不死の呪いです。
カリロエはコレシュスの死体を前にしたままずっと黙っていました。
けれど別に眠ってしまったわけではありません。
このときはコレシュスの死に顔を見ながら、自分に足りないものが何なのかをまた、考えていたのです。
「……」
ふと、足りないものが何なのか分かった気がしました。けれどそれを確かめさせてくれる人は、もう冷たくなり、ピクリとも動きませんでした。
つまり、確かめようがありませんでした。
カリロエはコレシュスを見つめながら、さっき妖精の森で見た湖にできたブトウフが左右対称になっていることに思いをはせました。
それで、ますます自分の「気づき」が正しいように思えました。
「……コレシュス」
カリロエはコレシュスの名を呼びました。
けれどその呼びかけは「足りないもの」を教えてくれという意味の呼びかけではありませんでした。
ただ、「足りないもの」にもっと早く気付いていれば、妖精の呪いなど受けることもなく、共に地獄にでも天国にでも行けただろうという意味の呼びかけでした。
でも、もうどうにもなりません。カリロエの中に、激しい後悔が生まれました。
その後悔の気持ちが、彼の頭の中により一層、妖精の森の湖で見たブトウフを鮮明に映し出しました。
明け方、火の手が収まった頃、呆然とするカリロエと冷たいコレシュスの所に、兵隊たちが現れました。
彼らは森という森を焼き払い、悪魔のようなオオカミの死骸を捜すために夜を徹してあちこち歩き回っていたのです。
その彼らが、二人を見つけました。当然すぐに、領主マティスの元に二人は連れていかれました。一人は鎖につながれて、一人は柩に入れられて。
カリロエは城に連行された後、地下深い牢につながれました。
マティスはすでに頭がおかしくなっていて、コレシュスを殺した獣をカリロエだと決めつけてしまいました。
ですから、法的手続きも裁判もへったくれもなく、カリロエはただ苦しむためだけに、地下牢に連れていかれ、そこで激しい拷問を受けることになりました。
弁明をするための舌を抜かれ、日の光すら見られぬよう目を抜かれ、声すら聞こえぬよう糸で耳の穴を縫い潰され、
足を切り落とされ、ひたすら毎日鞭で叩かれ、熱湯をあびせられ、傷口には塩を塗り込まれました。
けれどカリロエには相変わらず、不死の呪いが生きています。
ですから、引っこ抜かれたり、切られたりしてとられた舌や足や目玉はともかく、
切り傷、刺し傷、火傷は一日たつとすぐに癒えました。
ですがそのせいで、拷問官は「こいつはバケモノだ」と本気で信じてしまい、なお一層容赦のない苛烈な拷問が行われることになりました。
カリロエはそれでも、耐えました。
耐えたというよりも、拷問の間、ずっとブトウフのことを考えていました。
ですから、なるほど拷問は痛くて一瞬一瞬が耐え難い苦しみの連続でしたが、カリロエはそれでも頭がおかしくならずに済みました。
カリロエはブトウフのことを、ブトウフをコレシュスと共に踊ることを考えていました。
けれどその舞踏の完成はこの地上で叶うことはないでしょう。
なぜならコレシュスはもう永久にこの世を去ってしまったからです。つまり死んでしまったからです。
カリロエはコレシュスを、ブトウフを使って生き返らせたいと何度も思いました。
けれどそれはダメだと、いつも思いました。
なぜなら、前にも言いましたが、神様の元にきっと、コレシュスは向かったはずだとカリロエは信じているからです。
カリロエはブトウフをコレシュスと共に舞うことを想像した後、いつもコレシュスの穏やかな死に顔を思い出しました。
そうして、今度は別のことを考えました。
妖精の呪いを解き、天寿を全うし、その上で地獄に赴き、浄罪を済ませ、天国でコレシュスと一緒になることです。
けれどそのためにはまず、妖精の呪いを解く必要がありました。すると自分の踊りに足りないものをきちんと見つける必要がありました。
カリロエはその「足りないもの」に見当がつくように今はなっていましたが、
けれど今はもう、踊るための足も、その足取りを確かめるための目も、耳もありませんでした。
もう、どうしようもありませんでした。そこまで思った時、カリロエはいつも声の出ない喉を鳴らして悲鳴をあげました。
けれども次の瞬間にはまた、ブトウフをコレシュスと共に踊る夢を見ました。そうしてまた、夢が続き、終わる、その繰り返しでした。
幸か不幸か、このコレシュスといる夢のために、カリロエはマティスやコレシュスのように頭がおかしくなることはなかったわけです。
でもそのために、痛みはいつまでたってもカリロエの体を苛み続けるのでした。
このカリロエの地獄に終止符を打ったのは、領主マティスでもその妻ロジーヌでもなく、二人の間に生まれた息子シャルダンでした。
シャルダンはマティス同様、大変コレシュスを愛しておりましたが、マティスのように頭がおかしくなることはありませんでした。
ですが彼はコレシュスの死の知らせを受け取り、その死体と対面した後、お酒におぼれるようになりました。
お酒というものは、適量であれば人の頭の中に楽しい歌や元気の出る踊りや美しい音楽をもたらす素晴らしいものなのですが、
度を過ぎると人の頭の中を悲しい思い出で満たし、その人をついには狂気に駆り立てます。
そのお酒という厄介な泉に、シャルダンはおぼれてしまいました。おぼれたまま、どの岸にもたどりつけませんでした。
そのシャルダンによって皮肉にも、カリロエの拷問に終止符が打たれることになりました。つまりこういうことです。
カリロエが捕まり、拷問を受け始めてから長い月日が経ちました。
領主マティスはコレシュスを失った悲しみと、森を失ったことで作物が育たなくなったことに
怒りを覚える領民を抑えこむ心労のせいでとうとう死んでしまいました。
死後、シャルダンがまもなく領主となりましたが、酒浸りの彼はある晩、城に火を放ちました。
なんでそんなことをしたかと言えば、もう、どうでもよくなったからです。
さて、その火にのまれてシャルダン自身も、マティスの妻で老いたロジーヌも焼けてしまいました。
また兵士たちの多くも火に焼かれて死んでしまいました。
生き延びた兵士もそれなりにはいましたが、彼らのほとんどは、助けを求めて訪れた領民の家で、
象に踏みつぶされた獣のようにグチャグチャに殴り殺されてしまいました。
森を焼かれた領民の怒りはそこまですさまじいものでした。
またその難をも逃れ、国境の外へ出ようとした兵士もほんの少しいましたが、
彼らは森という隠れ家を失った盗賊たちに首を刎ねられ、身ぐるみをはがされてしまいました。
ようするに、森の妖精も獣も兵隊も貴族もみな燃えるか、殺されるかして、死んでしまいました。
けれどその火災によって、カリロエの拷問の日々は終わることになったというわけでした。
(続)
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