死後の博物館
俺は十日前に死んだのを記憶している。死ぬ前の記憶だってはっきりとしている。確かこんにゃくゼリーを喉に詰まらせて死んだのだ。俺はオジンか、なんて自分への突っ込みがまさか自身の最後の思考になるとは思いも寄らなかった。でも、死ぬ直前の朦朧とした意識の中で浮かんだそういった考えですら明瞭に覚えているのに、死んでからの十日間はそういった記憶の類が何一つ残っていないのだ。死んだから脳みそも失われてしまったのか。脳みそを失ったから記憶まで失ってしまったのか。と思ったけれど脳みそが失われているならここで物思いに耽りながらこの道をひたすら歩いているという俺の意識があるはずも無く、つまるところ俺は脳みそを失っていないのだ。否、もしかすると死んですらいないのかもしれない。だって俺は今歩いているのだから。
生前の俺は小説家という職業だった。ごく一部の人間しかなれない、ごく一部の人間がならざるを得ない職業だ。少なくとも俺はそう認識している。ひたすら十数万の文字を連ねては人に読ませるという実に奇異な職業だ。ふと思い立ってとある新人賞に自分の作品を送りつけたところ、一人の編集が「君には才能がある」なんて誰にでも言えそうな台詞で俺を拾い上げた。そんな成り行きでとりあえず世に出た俺の作品には何やらコアなファンが付いているらしく、俺は大学卒業を迎えてからも文字を書くだけでなんとか食いっぱぐれることは無かった。もしもこの編集が俺を拾い上げてくれなかったらきっとこんにゃくゼリーを喉に詰まらせるのではなく、自分の首に縄をくくりつける事になっていたはずだ。そういう意味では彼は俺の恩人だとも言える。
しかし、俺はこの編集をずっと無能だと思っていた。俺を世に出して一定の部数を叩き出した編集としての手腕は立派なものだと思うのだが、少なくとも本を読む人間としては俺は彼を信用していない。彼は俺の小説を初めて読んで、あろうことか「主人公の心情に大いに共感できる」と言ってしまったのだ。その瞬間、その編集の言う事は全て嘘っぱちなのだと俺の中で定まった。何故ならその主人公に投影する俺の感情は何処をとっても不明瞭で不完全なものであり、何より俺自身が理解できていない感情であるからだ。俺自身に理解できていないものを、勝手に他人が汲み取って共感できるはずがない。それは共感ではなく解釈だ。勝手に自身の考えを小説の主人公に重ね合わせて頷いているだけだ。俺はその編集の勝手な考えに断固として頷かないと決めていた。
俺の感情というのは俺の日々の思考に伴って生まれる。物心がついた頃から考えごとが頭を離れる事が無く、吐き出す手段を模索していたところ、空想上の人物に自身の考えを投影させる事で自身の考えに一定の結論――そう称した歯止めというべきものを付けられるようになった。(俺の〝これ〟は最早病名が無いだけで、一種の病気なのだと思っている。)止まらない思考は俺にとって邪魔ではあっても排除できない、排泄物となんら変わらない存在だ。しかし俺は考える事しかできなかった。答えの出ないもの、自分の経験からでは予測しきれない未知のもの、名づけようの無い気色の悪いもの、そういったものについて考え考え考え抜いて、「こうと言えなくもないんじゃないか」なんて曖昧なレッテルを貼り付ける。俺にとって小説を書くとはそういった作業だった。それは苦行ともいえるものだ。少なくとも俺は生まれ変わったら小説家にもう一度なりたいとは決して言わないだろう。感情というものが嫌いだったから、人間になりたいかどうかすらか怪しい。
感情は複合的なものだ。その人間の考えと経験と境遇と他の感情とその他あらゆる物から影響を受けて形成されるものだ。だから矛盾する。自分の中で答えが出なくなる。多少気持ち悪くとも自分の中でひとつの形にして、無理やり飲み込まざるを得なくなる。そんなものを全人類が人間である以上間違いなく抱いていて、全員がどこかで矛盾している。そんな人間の不完全性の象徴である感情。俺はそれが大嫌いだった。なんと不要な機能なのだろうと思った。虫のように生存と繁栄の本能のみで生きる存在になることを俺は望んでいた。そういう点では、こんにゃくゼリーで喉を詰まらせて死んだのも存外悪くなかったのかもしれない。いや、三十にも満たない年齢でその死に方はやっぱり恥ずかしい気がする。
ああ、まただ。俺の思考は留まるところを知らない。死んでからも俺は思考し続けている。誰か俺を止めてくれ。何でもいいんだ、ちょっと話しかけるとかでいい。今日は天気がいいですねと一言誰かが言ってくれれば、俺はそれを相対性理論の限界についての話し合いにまでだってもっていける。でも見渡す限り俺の視界にはまるで背景を入れ忘れた漫画のような真っ白な空間が広がっているし、俺の歩く道も道というよりはペンで二本の線を描き入れただけのようなぞんざいなものだった。勿論、人っ子一人いやしない。死ぬというのは歩き続けることだったのか。
「終わらない道を歩くなんて死後なんて、人生と変わらんじゃないか」
『いいえ。その道にもちゃんと終わりはありますよ。人生と同じように』
驚いた。見渡す限り誰もいないのに、俺の言葉に反応する者がいたのだ。
「あんたは誰だ。どうやって俺に話しかけている?」
『今あなたの脳内に直接語りかけています』
「あんたはエスパーか何かなのか」
『いいえ、ただの案内人です。どうです、三途の川を渡る前に、ちょっと博物館に寄って行きませんか』
「博物館? そんなものどこにもありはしないぞ」
『あなたが行きたいといえば姿を現しますよ』
「ふむ、じゃあこのまま歩いているのも飽きてしまったし、よく分からんがあんたの誘いに乗ろう。俺をその博物館とやらに連れて行ってくれ」
『いいえ、もう到着していますよ』
嘘つけ、と言ってやろうとしたのだが、次の瞬間には俺はもう博物館の前に立っていた。死後なのだからそんなこともあって不思議じゃない。
博物館と書かれた胡散臭い看板が、点滅するカラフルな電球で装飾されていた。ラブホテル街のネオン、という例えが一番しっくり来るだろう。しかし、それ以外は普通だ。見るからにコンクリート作りの真っ白い建物で屋根は無く、入り口のガラス戸の取っ手には〈OPEN〉と書かれたちゃちなプレートがやる気なさそうにぶら下がっている。
「これはたまげた。死んで見たら面白い事もあるもんだなあ」
「そうでしょう、そうでしょう」
合いの手の聞こえてくる方を見ると、ガラス戸の片側がガパリと開いて、中から背広を着た長身の男が現れた。身長が一七五センチはあるはずの俺の背丈が彼の肩ほどまでしかなかった。低い声だとはいえやけに篭っているなと思ったら、男はガスマスクを着けていた。実に奇っ怪だった。
「博物館へようこそ。私は館長のѿѢ﷼です」
「なんだって? すまんが名前が全く聞き取れなかった。もう一度頼む」
「ѿѢ﷼です。多分人間の方が私の名前を聞き取るのは不可能だと思いますよ」
「ふむ。しかしそれでは俺はあんたのことを何と呼べばいい」
「別に何でもよいですよ。館長でも、案内人でも」
「じゃあ館長と呼ばせてもらおう。一番しっくり来る」
「かしこまりました。では早速中にご案内いたしますね」
そう言うなりガラス戸の片側を大きく開いて、館長は俺を館内に招き入れてくれた。
***
館内に入って最初に感じたのは、背筋をなぞってくる様な不快な冷気だった。冷たいはずなのに額から汗がじわりと滲んでくる気がする。
「館内のこの冷たさは一体何なんだ? さっきから俺は脂汗が止まらないんだが」
「この博物館を満たしているのは死者の霊気です。博物館に隣接されている地獄への門から直接流れ込んでくるものなのですよ」
「この博物館は地獄巡りでもするわけか」
「いいえ、あくまで展示物の搬入に使わせていただいてるだけで、地獄そのものにここから立ち入る事はありません」
「ふうん。それじゃあここは、地獄をテーマにした地獄の博物館ってことか?」
「うーん……、地獄はあくまで一部です。地獄以外にも天国の展示もありますし、無の展示もありますし、〝それ以外〟もあります。この博物館は名前を【死後の博物館】といいます。この霊気を不快に感じるのはあなたがまだ死んで間もないからです。ですがあなたもそういった霊的な存在である事に変わりは無いので、じきに慣れますよ」
「死後の博物館……またけったいな場所に来てしまったものだ」
「ははは、まあそうおっしゃらないでください。この博物館、死後の暇つぶしになると言われて結構好評なのですよ。――ほら、一つ目の展示が見えてきましたよ」
ガスマスク越しでも和やかな館長の声に連れられて、順路を進むと見えてきたのは、小学校の教室にありそうな机に置かれた小さな箱だった。木目の綺麗な正方形の木箱を上から覗き込むと、中には何ともいえない良くも悪くも普通の形の石が転がっていた。石に照明が当たっているところをみると、どうやらこの石が最初の展示物らしい。
「館長、ここは確か死後の博物館というのだよな」
「ええ。その通りです」
「死後の博物館というのであれば、展示されているのは〝死後の何か〟なのだよな」
「ええ。この博物館が展示しているのは死後の魂の在り方です。天国、地獄、無、あるいはそれ以外の形で死後を過ごす魂たちの、その一例を展示しています」
「それならば、この掌ほどの石も、死後の魂の在り方だというのか?」
「ええ、その通りです。その方は死後、『石になりたい』という願いを叶えてここにいらっしゃいます。勿論、展示の許可は頂いておりますよ」
「ではこの石も死後の魂だというのか」
「はい」
「胡散臭いなあ」
「触れてみても構いませんよ」
そう言われた俺は木箱の中身を改めてまじまじと見つめる。次に手にとってみる。しかし石は微動だにしないし、手触りも重さも生前感じた事のあるそれとなんら違いは無かった。
疑わしげに石ころに触れる俺が可笑しかったのか、館長は肩を揺らす。
「どうです。どこからどう見て触れましても石ころでしょう」
「ああ、なんならお前がそこいらで拾っただけの石ころを置いたのではないかと疑っているところだ。残念だが、俺はこれが人間の魂であるとは信じられん」
「そうですか。では次の展示に参りましょう」
「ん――あ、ああ」
展示物の説明に何も合点の行かないまま、俺は館長と歩き出した。
***
次に現れたのは、ガラスのショーケースのようなものの中で一心不乱に自転車を漕ぎ続ける男性の姿だった。男性はお世辞にも体つきが良いとは言えず、自転車を漕ぐ足だって随分と細いものだった。しかし、その表情からは疲れを感じ取る事ができず、なんなら喜びすら感じる。彼が漕ぐ自転車はスタンドが立てられており、後輪部分が浮いている。ただ、本来後輪があるはずの部分には何らかの機械が置かれており、コードで壁の向こう側の何かと繋がっているようだ。
「彼は永久機関になった男性です」
「永久機関というと、外部から受け取るエネルギーが無くとも仕事を行い続ける機構か何かの事だったか」
「まあ、そんなところです。そして、彼がその永久機関です」
「俺には細身の男が自転車を全力で漕いでいるようにしか見えないんだがな」
「彼は永久に全力で漕ぐ事ができるのです。なぜなら彼は死んでいるから疲れない」
「死人が永久機関だとでも言うのか」
「言えなくもないでしょうね。死人には食事も睡眠も必要ありませんから、意思さえあれば無限に動く事ができる」
「で、彼は自転車を漕ぎ続けることにしたと」
「そうです。生前よりずっと望んでいた存在に、自身が成ることができたのです」
「……へえ」
館長にも分かるように俺はわかりやすく呆れた。
目の前に在る〝永久〟は言葉ばかりが大層で、目に見えるのは脆弱そのものだった。
「もしかしたらお疲れですか? そこにベンチがありますので休憩をお望みでしたら……」
「死人は疲れないって言ったのは館長だろう。別に構わんよ」
「疲れないと言ったのはあくまで〝肉体的には〟です。永久機関の彼と違ってあなたは感情を捨てていませんから、心は疲弊します」
その話を聞いた途端、俺の心がぴくりと反応した。
「ならば俺も感情を捨てたいのだがどうすればいい」
「どうしたのですか急に。目が先ほどまでよりずっと輝いておりますが」
「お前がさっき言った〝永久機関の彼と違って〟という台詞だよ。つまりあの男は自らの感情を消し去る事であのようになることが出来たのだろう? 出来るというのならば、俺も感情を失いたいのだよ」
「ふうむ……」
その台詞を受けて、館長は少しだけ考えるような素振りをしてからこちらを向いた。
「その話は天国の展示に入りながらしましょう。順路をとばせる道がありますので、こちらへどうぞ」
「順路はまだ続いているのか」
「ええ、他にも熱湯を浴びる女性や、永遠にまどろむ男性、速く絶え間なく伸びつづける爪をひたすら研ぐ猫など、様々な魂の死後を展示しておりますが……興味がお有りですか?」
「……いや、構わない。天国の展示へ連れて行ってくれるか」
「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」
館長が案内してくれた順路は少し長いトンネル上の道で、合間合間にあるささやかなオレンジの照明が道を照らしていた。俺が無言でトンネルの中を見渡していると、「ちなみに補足しておくと、私も展示物の一つなんですよ」と館長が思い出したように俺に話しかけてきた。
「展示物も何もあんたは館長じゃないか」
「私が死後に望んだのは〝博物館の館長である〟ということです。ですから今の私も、死後の魂の在り方の一つなのですよ」
「よくわからん」
「でしょうねえ」
館長はケタケタと笑う。
***
しばらくトンネルを歩くと、むわりとした熱気を感じるようになった。もくもくと何処かから上がってくる湯気で視界も少し白んでいる。俺たちの来た方へ真っ裸の少年が駆けていった。
少し高めの段があって、溢れた湯が展示の外に出ないようになっている。
「お待たせしました。こちらが天国の展示です」
「天国も何も……風呂じゃないか。それも銭湯」
体を洗うたるんだ皮膚の親父、湯船のふちに腰掛ける恰幅のいい老人。平泳ぎで泳ぎ回る少年。壁には富士の絵。と思いきやパルテノン神殿のような柱もあるし、蛇口はやかんを捻り潰したようなよく分からない形をしている。風呂の湯を吐き出しているのはマーライオンに似ても似つかないキリンだった。
「こちらは男湯ですね」
「男湯って言ってるじゃないか」
突っ込みも終わらない間に館長はおもむろに背広を脱ぎだす。
「まあとりあえず入りましょう、さあ」
五秒もしないうちに館長は裸になって(ただしガスマスクは外さないままで)、太腿くらいの高さの敷居を跨いで向こうに行き、体を洗い始めた。納得がいかないが俺も服を籠に預けて、館長の隣に行ってシャワーで体を流す。シャワーの丁度良い温度の湯が歩き通しだった体に染みる。悪くない。
一通り体を洗い終えて、俺と館長は大きな湯船に体を浸した。
「館長、ガスマスクは外さなくていいのか? 曇るだろう」
「曇り止めは塗ってありますから。その辺はぬかりありません」
「そういう問題じゃないと思うんだが……」
1つ息を吐いて、俺は湯船の様子を見渡す。その様子を見て館長がケタケタと笑う。館長は辺りを見渡すようにして言った。
「どうです。天国の湯は気持ちが良いでしょう」
「まあ悪くない。しかし何故また天国は風呂なんだ? しかも思いっきり日本式」
「日本人は風呂の湯船に浸かったときに『極楽極楽』なんて言ったりするでしょう? あれってあながち間違いではないのですよ」
「天国と極楽は異なるものだろう」
「似たようなものですよ。どちらも開放的です」
「案外死後も雑なものだな」
「ええ、まったくです」
遠くの方を見るようだったガスマスクが、ゆっくりとこちらを向く。
「風呂に浸かってても、まだ感情を捨てたいだなんてお思いですか」
「……ああ、その考えは別に消えやしない。いつも俺の心の片隅にいて、大きくなったり小さくなったりする願望さ」
「勿体無いですよ? おいしいものを食べても、たっぷり寝ても、大好きなものを見聞きしても、何も思えなくなってしまうというのは」
「でもさっきの永久機関はそう成ったのだろう?」
「ええ、彼がどうしてもそうなりたいと望みましたから。私はそういった人を見かけたら止める事にしているんです」
「だからこの博物館に俺を呼んだのか」
「私が呼んだというよりはあなたが辿りついたんです。私が何かしたわけでもなく、ひとりでにね」
「博物館に来いと言ったのはあんただろう」
俺は館長をじろりと見る。
「断られたらこの博物館はあなたの前に現れませんでしたよ。そしてここに辿りつくという事は、あなたの歩く道にはまだ迷いがある――ということです」
「俺の事を何でも知ってるような素振りだな」
「いいえ、何も知りません。ただそういう人を何人も見てきただけです」
「ならば聞いてみたいもんだな。そいつらは一体何に悩んでいたんだ? 俺のはっきりしない悩み事もそれを聞けばはっきりするかもしれない」
「様々でしたよ。恋人に振られた事を六十年ひきずったお爺さんもいましたし、母親をカッとなって殺してしまった十歳にも満たない子供もいました。お尻に胡瓜を突っ込んで取れなくなった青年もいましたし、階段でこけて足を悪くしてしまったご婦人もいました」
「何が言いたいのかさっぱり分からんな」
「人を迷わせるのは後悔だということですよ。忘れられない心や体の痛みが、人が歩くための足を絡めとろうとする。きっとあなたにもそういう〝何か〟があってのことだと思うのです」
「いいや、俺には何もないよ。断言できる。俺の人生には何もなかった。いつも矛盾する人間とその感情を見て、思って、考えて、訳が分からなくなっていた。迷っていたとしたらそういうことだ。悩みがはっきりしないことが俺の悩みだ。無限ループというやつなんだよ」
「難しい話ですね。私は少し頭が痛くなってきました」
「俺もだ。きっと話が難しい上にのぼせてしまってるからじゃないか?」
「きっとそうですね。一旦上がりましょうか」
俺と館長は湯船から腰を上げた。
濡れた体をタオルで拭い、服を着た。風呂上りにサービスされたフルーツ牛乳を飲むと、ぼんやりとしていた脳のもやが少し晴れた。俺がベンチに座っていると、元通りの背広姿の館長が俺を見下ろしていた。
「フルーツ牛乳、おいしいですか?」
「ああ、うまい。館長も一杯どうだ」
「私は遠慮させてもらいます。ガスマスクを外すわけにはいかないので」
「それが目的なのに」
「ポリシーなんです。尊重してください」
俺はフルーツ牛乳を飲みながら、笑う館長をまじまじと見た。一体どんな顔をしているだろうか。声の通り笑みのよく似合う柔和な青年なのか。はたまた声とは裏腹なゴツイ親父なのか。声を聞く限り男だとは思うのだが。
「館長、さっきの話の続きをしていいか」
「ええ、構いません」
俺は瓶に残ったフルーツ牛乳を喉の奥に流し込んでから、少し間をおいて言った。
「――俺はやっぱり感情を無くしたい」
「……やはり天国の展示に来てみても心変わりはしませんか」
館長が残念そうに俯く。頭が冴えてから少し整理のついた俺の考えを言うことにする。
「俺がそう言うのは、やはり俺にも一応感情と言えるものがあるからなんだ。でも、自分の中ですら矛盾していて、とても気持ち悪くて、耐えられない。人と関わりたいと思えばそうでなかったり、楽しいことをしていてもそれを見下げる自分がいて、好きな女性と手を繋ぎながらその存在をどこかで疎ましく思っていた。そんなどっち側にもなれてしまう自分が俺は嫌だ。だから矛盾せずに言えるのは、そういう矛盾した俺を捨ててしまいたい。俺に思うことが何もなければ良いと、心底思ってしまうんだ」
「……分かりました」
館長はすっくと立ち上がって、右手の人差し指で順路の先を指した。
「最後に、二つほど展示をお見せします。こちらへどうぞ」
そういうなり、館長は俺の手を引く。
***
「ここは地獄の展示です」
「これが……地獄?」
端的に言ってしまえば、目の前にあるそこは何もない空間だった。
うす暗くて、狭くて、気色の悪い瘴気のようなもので満ちていた。多分、俺は入れば五分も正気でいられないだろうと思った。
「地獄は生きていた頃の罪を、苦しみを以って償う場所です。生前に犯した罪のレベルに応じて、この空間に居る時間が決まります」
「何なんだ、この空間は」
「自分の根っこの方に、ぐわりと来る気色悪い感覚があるでしょう。血の池も、針山も生温い。この空間も言ってしまえばレプリカですから、本物はもっとヤバイですよ。……もっとも、この博物館に来ることができている以上、私やあなたがここに行くことになるのは自分が望みでもしない限りありませんが」
「それを聞いて安心したよ」
そうは言いつつも俺は自分の気色悪い感覚が抑えきれず、自分の胸をずっとさするようにしていた。
「この展示を見せた理由は、感情は失うだけだとこの地獄と変わりありませんよというためです」
「どういうことだ?」
「永久機関の彼は、心を失っても体は動き続けることのできる目標がありました。でも、目的がなければあなたの行き着く先はただの廃人だという事です。生物であるかどうかすら怪しい、無気力な存在となってしまいます。動く体力はあっても動く意思が、理由が無くなってしまう」
「ふむ……」
「今のあなたはきっと、葛藤を原動力として動いています。その葛藤を生み出す感情が無くなってしまえば、動けなくなってしまったあなたにとっては、死後のこの世界ですら地獄となんら変わりなくなってしまうでしょう」
「それは――少し嫌だな」
「そうでしょう、そうでしょう――で、もう1つ見せたい展示があります。次で最後です」
館長はまた俺の手を引く。
感情を無くしたいという一点に向かっていたはずの俺の心には、また迷いが生まれてしまっていた。
***
地獄の展示から少しだけ歩いたところに、それはあった。
裸の赤ん坊とそれを抱き抱える裸の母親がいた。赤ん坊は母の左の乳房をちゅうちゅうと吸っていて、右手をそれに愛しそうに添えている。しかし、奇妙だったのは赤ん坊のもう一方の手が、母親に胸に突き立てられたナイフの柄に添えられていることだった。母親は胸からだくだくと血を流しているが、それでも赤ん坊に優しく笑いかけている。
館長は俺に尋ねる。
「……矛盾していると、お思いになりましたか?」
「――ああ、矛盾していると思った」
赤ん坊も、母親も。
どちらも矛盾した思いを抱えていると思った。
愛したいのか? 殺したいのか?
殺されたいのか? 愛したいのか?
「気持ち悪いと、お思いになりましたか?」
「……」
歪んでいるとは、思う。
しかし気持ち悪いとは、受け入れられないとは、何故か思わなかった。俺は首を横に振った。
「殺せば愛する事も、殺されれば愛される事も、できなくなってしまう。人が自分の中に相反する思いを抱えるというのは、よくあることです。両方を叶えることが出来ず、片方に決めることができず、苦しむ人もよくいます。でも、これを受け入れる事ができるなら、少なくとも、あなたはまだ全部を捨て去ってしまうほどではないと思いますよ」
「……」
「まだ、言葉が足りませんか」
「それは――」
「半端な自暴自棄ならやめちまえ」
「……」
「ということです」
館長は和やかな声に戻って言った。
▲▲▲
「博物館、なかなか盛況みたいじゃねえか」
「ええ、おかげさまで。地獄のレプリカもよーく体感してもらえたみたいですよ」
「提供してる甲斐もあるもんだ。こっちにもキャパってもんがあるからよ」
「輪廻転生ちゃんと回してます? また送り出すのサボってるからじゃないんですか」
「回してるさ。ただここ最近いつにも増して人が増えてっからな。追いつかねーんだよ」
「まあ私はそっちの事情は知りませんからね。あくまで、あるべき道を見てもらうだけです」
「さっきの男はどうなったんだ?」
「彼なら、また歩き出しましたよ。何が刺さったのか知らないですけど、また迷っちゃったみたいです」
「おいおい、正しい道を歩いてもらうんじゃねえのかよ」
「そのうち歩くでしょう。捨てるところだった魂を拾っただけでも褒めて欲しいもんですけどねえ」
「いい気になりやがって……仕事に戻るわ」
「はい。お疲れ様です」
いってらっしゃい。
連載中のEnding=Girlも宜しくお願いいたします。