稲妻
春。桜舞う新学期の季節。
私、東井千紘は期待に満ち溢れた朝を迎えていた。
「――今日からこのクラスに新しい生徒が来はることになりました」
廊下の扉、その向こうから担任教師と思しき声が聞こえる。
そう、私は新入生。この春からここ、西大海高校へやってきた高校二年生だ。
西大海高校は近畿地方にある共学の公立高校だ。のどかな街に佇み、学校自体ものどかな雰囲気で建っている。
そしてこの真っ白な壁、嗅いだことのない新しい空気、そして関西弁の女の子たち。まさに最高の環境と言って差し支えない。……少なくとも、私にとっては。
「――それでは東井さん、いらっしゃい」
私を呼ぶ声。それに合わせて、期待を胸に躍らせ扉を開け放ち飛び込んだ。
「東井千紘、十六歳! 東京から越してきました! よろしくお願いします!」
教室中の視線が一点に集まった。ざわざわと耳打ちをする者もいる。緊張と興奮がない混ぜになった私の心には、かえってそれが心地良い。
「ほな、東井さんにはあの空いてる席――西川さんの隣に座ってもらおっか」
担任の言葉に従って会話の間を通り抜ける。
向かった場所の隣には、背の低い――と言っても座高を見て、だが――ともかく、少女が窮屈そうに座っていた。
前髪を切り揃え、後ろは肩まで伸ばした黒髪。頭頂部にはアホ毛もちょこんと立っている。
「これからよろしくねっ!」
彼女に挨拶をする。しかし、少女は目を伏せて何も返さない。
不思議に思って見つめていると、彼女は蚊の鳴くような声でこうとだけ返した。
「う、うん……えと、うち、西川結羽……よ、よろしく」
指同士を絡めておどおどするその仕草。眉尻を下げて上目がちにこちらを見つめる瞳。
琴線が弾け飛ぶ音がした。
なんなの、この可愛い生き物は――――!
「う、うう、うん!」
走り落ちた稲妻が、私の脊髄を貫いて踵まで突き刺さるのがよくわかった。
どうしよう。思考回路が動かない。もっとも動いていたとしても、彼女を形容するに至らない私の語彙力が悔しい。
「……東井さん、東井さん?」
「はっ!?」
担任に呼ばれて我に帰った。そういえば立ちっぱなしだった。
真っ赤になりながら席に座る。どこからかクスクスと笑う声が聞こえたような気がした。
冗長なホームルームが終わると、他の有象無象たちが小バエのように群がってきた。どうやら私は誘蛾灯と同じらしい。
「なあなあ! 東京って何があるん?」
「東京の学校ってどんなんなん?」
聞かれる質問といえばありきたりなものばかりで、それをあしらうのもだんだん面倒になってきた。
私は結羽ちゃんと話したいのに……。
そうだ。ちょっとだけ、外へ出てみよう。
ふと思いついたままに、隣で読書に耽る少女――結羽の手を取って立ち上がる。
「ねえ結羽ちゃん! 学校見て回ろ!」
「へっ!? え、あ、待って……!」
結羽を引き連れて、理由もなく階段の踊り場までやってきてしまった。
「……あ……えっと……あの、東井さん……?」
彼女はと言うと、気付かずに私の手を握り締めている。そこがまた愛らしい。
出てきたのは良かったけれど、朝の休憩時間なのでそこまで時間がない。どうすべきだろう?
そのとき、結羽が腕を引っ張って合図をした。
「その……東井、さん……図書室、行かへん……?」
結羽に手を引かれて図書室へやってきた。
彼女は文庫本を小脇に抱えて本を選りすぐりしている。その横顔は不思議と輝いて見えた。
「結羽ちゃんって本好きなの?」
「え……あ……下の、名前……」
今さら下の名前で呼ばれていることに気付いたらしい。
迷惑だっただろうかと彼女の表情を窺う。もじもじと考え事をしているようだ。
「ゆうちゃ……西川さん?」
「え……えと……その、ええ、よ……」
恥ずかしそうに顔を背けた。そんな仕草も愛らしい。
「ほんと!? ありがとね!」
「ひゃっ……!?」
喜んで手を取ると、彼女は驚いて本を取り落としてしまった。
「あ、ごめんっ」
「え、ええの……大丈夫やから」
慌てて本を拾い集めて少女が言う。
彼女が本を抱え込んで困り眉で笑うと、ちょうどチャイムが授業五分前を告げた。
「あ、予鈴鳴ったね」
「うん……えっと、行こ……か」
今度は結羽のほうから手を握ってきた。ほんのり温かい感触がした。
昼休みになった。弁当を食べ終わると同時にまたも集まる野暮な集団を、煙を払うがごとく押しのける。
もちろんその手の先には結羽の腕。彼女は照れくさそうだったが、その口元は少しだけ喜びを表していた。
そんなこんなで教室を飛び出して、渡り廊下で佇む。
風が気持ちいいのだが、握られた手から伝わる熱が……何というか、すごく季節外れ。何が言いたいかは察していただきたい。
「どこ行く?」
気を取り直してそう問うと、結羽は小首をかしげて答えた。
「えっと……その、来てほしいとこ、あるねん……ええ、かな……?」
「〜っ!」
ダメだ。私の周りだけ赤道直下だ。熱い。
少し顔を背けてうん、と言うと、結羽は少し嬉しそうな顔をした。……彼女がいれば冬でも安心できそうだ。
引きずられるようにしてやってきたのは、校舎の裏にひっそり佇む東屋だった。
「ここは?」
「裏庭、なんやけど……その、誰も来おへんから、うちの秘密基地みたいになっとって……」
屋根からカーテンのようにぶら下がったブルーシートを見るに、彼女の言うとおり中は好きなように改造されていることは想像に難くない。
「いいの? そんなところに私を連れてきちゃって」
「えっと……東井さんは、特別……やから」
「そ、そっか」
どうしてこの子はこうも無自覚に恥ずかしいセリフを言えるのだろうか。というか私が特別って、どういう意味なんだろうか?
「い、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
彼女の家じゃないとはいえ、思わず改まってしまう。
中を見回すと、ベンチ部分には本が積み上がり、側にはなぜか毛布だったりうちわだったりが置いてあるのが見える。極めつけは、真ん中のスペースに置いてあるカセットボンベ式のストーブだった。
少し、いやかなり想像以上だった。ここに住むつもりか、この子――!
思わず言葉を失っていると、その間に少女は席に着いていた。
「……どうしたん?」
眉をひそめる彼女にお前のせいだ、と突っ込む気にもなれず、私は向かい側のベンチに腰を下ろした。
教室から持ってきた小説を黙々と読み進めている彼女の頭頂部をぼんやり見つめる。表紙から推察するに、どうやら冒険小説のようだ。
そんな疲れそうな体勢で本を読む結羽。読み終わったのか視線を上げると、私にも本を勧めてきた。
「あ……東井さんも、読む……?」
「え? ああ、ありがと」
手渡されたハードカバーを受け取りつつ、間隙を突いて気になっていたことを聞いてみる。
「結羽ちゃんってさ、普段はここで何をしてるの?」
「え、えぇと……本読んだり……勉強したり……してる……」
「放課後も?」
「うん」
つまり部活には入っていないらしい。
「家には帰らないの?」
「……その、パパもママも、お仕事で……帰り、遅いから……早く帰っても、一緒やねん……」
「えっ、それって――」
そこまで言いかけたところで、チャイムが私の声を遮った。
「あ、昼休み、終わってもうた……」
そう言っていそいそと本を片付け出す結羽。仕方ない、次の機会に聞くとしよう。
とは言ったものの、やはり気になるものは気になる。しれっとまずいことを聞いてしまったのではないかという感情が脳の伝達回路を忙しく往復する。
さっきと変わらない姿勢で教科書を読む彼女の横顔を眺めて、私は大きな溜め息をひとつした。
時間とは恐ろしく早いもので、彼女のことを考えているだけで授業が二つも消費されてしまった。
「なあなあ千紘ちゃん! 千紘ちゃんはどこに住んでんの?」
「えー? ああ、駅前のマンション」
白紙のままのプリントをカバンに押し込みつつ、クラスメイトの質問に応える。なんというか、結羽以外はほぼみんなグイグイ来るタイプらしい。
「うっそー! あたしもおんなじ方向なんよ! 一緒に帰らへん?」
「あー、私、他の用事あるから……」
結羽ちゃん、と呼びかけようとして背後を振り返ったときには、もうそこに結羽の姿はなかった。
「あ、やっぱりここにいた」
「東井、さん……」
ブルーシートを捲って中を覗き込む。予見通り、結羽は例の東屋にいた。
「私も入るね」
「う、うん……」
今度は向かいではなく隣に座る。彼女の肩が少し跳ね上がったが、その後の反応を見て大丈夫だと確信した。
「飴食べる?」
彼女の視線の先に個包装を差し出す。さっきの教室で「じゃあせめて名前だけでも覚えていってえな!」と握らされたものだった。アルミ質の袋にはサインペンで彼女の名前が――梅村七海、と書いてある。
「うん」
彼女はその文字に目をやりつつ、封を開けて飴を頬張った。
「まさかほんとに大阪のおばちゃんみたいな人がいるなんて思わなかったよー」
常に『飴ちゃん』を持ち歩いているというのは、あながち間違いでもないらしい。
しばらく飴玉を口で転がす。そうして緩衝材をしっかりと置いたあとで、本題に切り込んだ。
「ねえ」
結羽の横顔に声をかけると、その目が不思議そうにこちらを向いた。
「なあに……?」
「結羽ちゃんってさ……寂しくないの?」
ずっと気になっていたことだった。家でも学校でもひとりで、友達がいる様子もない。結羽がひとりじゃない時間なんて、あるのだろうか。
「えっと……その、あんまり……寂しくはない、かな……ほら、本、あるし」
「……」
当たり前、といえば当たり前だった。
彼女は満たされない心の隙間を本で埋め立てていたのだった。城塞のごとく堅牢な彼女の心の壁に対して、私が付け入る隙など一分もない。
「……そっか」
溜め息交じりの返事をする。
しかし、しかしだ。こんなところで素直に引き下がる私じゃない。もしそうならここまで彼女に執着していない。
私は次の一手を打ち込むタイミングを、小説を片手に見計らっていた。
そしてそれは、帰り道に訪れた。
完全下校のチャイムが鳴り、部活帰りの生徒たちがぞろぞろと校門を出る。その人混みに紛れるようにして、私と結羽は歩いていた。
私が他愛もない話題を振り、結羽がそれに返す。そんなことを繰り返すうちに、いつしか周りにいた生徒たちはまばらになっていた。
「東井さん……帰り道、一緒なん?」
「うん」
「そっか……」
私が返事して、そこに一瞬の沈黙が流れる。
チャンスは……今しかない!
「あのさ――」
「えっ……?」
我ながらナイスタイミングだ。上手い具合に会話を挿入できた。
そのまま言いたいことをぶちまける。
「明日からもね、一緒にいてもいい?」
「えっ……えっと……その」
「私は結羽ちゃんの近くにいたいんだ。その……結羽ちゃんは、嫌かもしれないけど」
有無を言わさず言葉を紡ぎ出す。そうでないと、この想いが泡になってどこかへ消えてしまいそうだった。
「大きなお世話かもしれないけど、それでも……! それでも、結羽ちゃんの隣で、一緒に本が読みたいの」
「東井、さん……」
前に回した手がきつく握られる。頭を垂れ、何か思案しているようにも見えた。
「ダメ……かな?」
もじもじと手遊びして、ひとしきり悩んだ末。
「……か、構へん、よ……」
私の望んだ答えが返ってきた。
「……ほんと!?」
思わず興奮した私は、彼女の肩を思い切り掴んでしまった。
すると彼女は「ひゃあぁぁ!?」と飛び上がり、顔を真っ赤にしてしまった。
「あ、ごめん」
「うぅ……ええけど……」
彼女は少し距離を取り、俯いた。前髪が邪魔して表情は読み取れない。
「そ、その代わり……絶対、うちの隣に……いて、な……」
「う……うん……!」
しかし顔を上げてそう言った彼女に、私はすっかり悩殺されてしまったのだった。
自宅のあるアパートまで何とか辿り着き、扉をふらふらとくぐる。
ダンボールが積みっぱなしのベッドに身を投げ出して、今日のことを振り返った。
「……あー……最っ高……」
それ以外に言葉が出てこなかった。何もかも真新しいこの環境で、偶然にも出会えた可愛らしい女の子。これが運命と言わずして何と言うのだろう。
「何だこの……ゆるふわで……ぼんやりしてて……不思議ちゃんで……」
相変わらず語彙力のない頭を振り絞りつつ、出てきた言葉はひとつ。
「手、あったかかったなあ……」
未だ冷めやらぬ彼女の熱が、私の体を仄かに温めた。
嬉しそうに笑ったり、困り顔だったり、照れていたり。その全てが、温かな熱を持っていた。
この熱が、いつまでも残り続ければいいのに。私の中に封じ込めておければいいのに。
そんな思いを胸に抱きながら、私はひとときの眠りについた。