第六話 本願
ずらりと背の高い棚に並べられた本を見上げ、よし、と息を吐く。王都の図書館なんかとは比べ物にならないのだろうけど、うちの書庫の蔵書も中々のものだと思う。確か、曾お祖父さまが読書家で、色んな分野の本を集めていたんだっけ。ちょっとしたホール程度の広い部屋にぎっしりと詰められた本棚は、なんだか荘厳だ。この部屋の壁は落ち着いた綺麗なグリーンなのだが、残念ながら殆ど見えない。その代わりなのか、天井には美しい装飾がなされていた。なんとか建築ってやつだっけ、名前が思い出せない。前世の私がもっとちゃんと勉強してくれていればなぁ、なんて思いながらその美しさに溜め息を吐く。個人の家なので、控えめではあるが、それが逆に上品さを醸し出しているようにも思える。詳しいわけではないので、素人の感覚だけれど。
さて、まずは目当ての本を探す所から始めなければ。使用人の誰かか、書庫の担当者に頼めば探してくれるだろうけど、あまり気が進まなかった。中身はともかく、現在私は八歳の少女である。ちょっと前まで子ども向けの小説や、先生に読めと言われた教科書、絵物語しか読んでいなかったのに、今日突然「我が国の歴史書はどれですか?」「呪術に関する文献を調べたいのですが」なんて言ったら、驚かれるなんて表現じゃ足りないだろう。一昨日も、世界の言語に関する本が読みたいと使用人に頼んだら、物凄く微妙な顔をされたし。
まだ八歳とはいえ、学が無いわけではない。貴族の娘としての教育は受けている。しかしそれはあくまで貴族の令嬢に必要な知識のみで、学問を目標にしたものではない。いつかどこぞのボンボンと結婚するのに必要な、お上品な教養だけだ。
無駄に広い書庫を小走りで駆け回り、目当ての本を探す。八歳の少女の体は小さい。大人に比べて一歩も小さいし、背も低いせいで高い所にある本はかなり見づらい。やっぱり誰かに頼んだ方がよかったのかな。マーニャは衣裳部屋で今度の夜会で母が着るドレスの注文に駆り出されているし、あまり気が進まないけれど、書庫の担当者を呼ぼうか。
高くそびえたつ本棚を前にぼんやりと考え込んでいれば、不意に後ろから肩に触れられる。驚き過ぎて声も出ず、その場から飛びのいて勢いよく目の前の本棚にぶつかった。その衝撃で、本棚にぎっしり詰まっていたで本が何冊か、私目掛けて落ちてくる。混乱しているせいで正常な判断ができない、ヤバいと思った時には辞書のように分厚いそれは目前に迫っており、私は咄嗟に目を瞑り腕で頭をかばった。
「……あれ、痛くない?」
「…………ルルゥ」
「えっ?」
「だい、じょうぶ?」
頭上から、優しく、どこかたどたどしい声が聞こえ、顔を上げる。
「……お兄さま」
「怪我、ない?」
「大丈夫です。お兄さまこそ、怪我はありませんか?」
「うん」
「ごめんなさい、私、びっくりしてしまって」
「僕も、急に触れたから」
そう言って穏やかに笑う兄の顔が、鼻のぶつかりそうな程近くにある。掴まれた腕、全身に感じる生温かい感触。どうやら私は兄に抱きとめられているらしい。腰に回された腕をどけてもらい、慌てて彼の腕の中から脱出する。華奢で病弱な割に、力は強いんだよね。
ああ、少女漫画のテンプレみたいなことをしてしまったなぁ。いや、驚いて本棚にぶつかるなんて、少女漫画のヒロインがすることじゃないか。
まだこちらを心配そうに見つめる兄に、もう一度お礼と謝罪を述べる。特に怒った様子もなく、ただにっこりと笑いかけてくれた。
「ルルゥ、もう、元気?」
「はい、この通りすっかり元気になりました」
「よかった」
「私も、またお兄さまとお話することができて嬉しいです。本当に、病気が治ってよかった」
ぽん、と頭に手が置かれ、髪を梳かすように動かされる。頭を撫でられているらしい。兄は昔からスキンシップが多い。何故なのだろうと思っていたけれど、今ならわかる。それしか手段がないのだと。
呪いのせいで、上手く言葉を発することができない。失語症というのとは恐らく違う、確か、構音障害というんだっけ。相手の言う事の理解や、文章の読解は可能らしい。むしろ兄はとても頭がよく、記憶力も抜群で、まだ十二歳と幼いながら、既に難解な学術書を読み理解している。単に言葉を発する段階において妨害が発生するものと見ていいだろう。兄の言葉はたどたどしく、時折イントネーションもおかしかった。
それにプラスして、声を出す際に、喉に焼けるような痛みが伴うのだとか。ゲームで得た知識なので実際に正しいかどうかはわからないけれど、そういえば、昔は言葉を発する度に苦い表情をしていたなあと思い出す。当時は嫌われているのかと思ったものだが、痛みからくるものだったと考えれば納得できる。
そんなものを背負わせてしまったのだな、と自己嫌悪に陥る。本当ならば、私が受けるはずだったものだ。仕方のない事だとわかっているのだけれど、それでも居たたまれないような気分になる。
「ルルゥ?」
「……あっ、ごめんなさい、少し考え事をしてました」
「なにか、困りごと?」
窺うように覗き込まれ、思わず少し後ずさる。ああ、そうか、やたらと距離が近いのも、視力が低いせいだったのか。それと、殆どの色が判別できないんだっけ。モノクロの世界でもハッキリと認識できるのが、銀と青。だから兄の侍従の男は、私と同じ、プラチナブロンドに青い目だったのか。
心配そうな表情の兄に、大したことじゃないと告げようとして、口を噤む。兄は博識で読書家だ、きっとこの書庫の蔵書についても詳しいだろう。相談してみてもいいんじゃないかな。彼が今の私くらいの年齢の頃は、きっともっと難しい本を読んでいただろうし、怪しまれることもないだろう。
「あの、お兄さまに聞きたいことがあるんです」
首を軽く傾げ、なんでも聞いてと言うように柔らかな表情でこちらを見る。
「この国の歴史について書かれた本と、呪術の基礎と成りたちについて書かれた本が、読みたいのですが……」
「……見つからない?」
「はい、そうなんです。他の方に聞いても、きっとまだ早いと言われてしまうでしょうし、頼れなくて」
ふむ、と顎に手をやりなにか考えるような表情になる。不意にふらふらと歩き始めたので、その後ろをついて行く。すっかり忘れていたけれど、私がぶつかったせいで飛び出してきた本達をそのままにしていっていいのだろうか。そう思いながらも、見失ってしまってはいけないし、と足は自然と動いていた。まあ、後で片づければいいだろう。
どこにどの本があるのか覚えているらしく、その足取りはしっかりと目的の本棚へと向かい、無駄に探し回ることもなく、目当ての本は五分もせずに見つかった。現在、兄の腕の中に四冊収まっている。
「はい、どうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」
「重い? 運ばせる?」
「いえ、このくらいなら大丈夫です。せっかくお兄さまが選んでくださったのですし、自分で持っていきます」
分厚めの四冊を受けとり、しっかりと胸に抱く。なにはともあれ情報収集である。ゲームでは、呪術が国の根幹の部分でとても重要なキーワードになっていた。そこを紐解く事で、これから先の未来を変えていく手掛かりになることもあるだろう。
とりあえずは、マーニャのことも気になるし、兄に掛けられた呪いだって、もしかしたら打開策があるかもしれない。頭の良い兄にもわからないことが、私にわかるとは思えないけれど、やる前から諦めてしまいたくなかった。
「ルルゥ」
「はい? なんでしょう、お兄さま」
「あ……」
急に呼ばれたせいで声が裏返ってしまったが、そんなことはどうでもいい。兄が、苦しげな表情でこちらを見たまま、口をぱくぱくと動かし、なにやら伝えようとしてくれている。慌ててその細い腕を取り、近くにあった机まで引っ張っていった。メモ用紙とペンを渡して、椅子を引いて座らせる。なにも苦しい思いをさせてまで、会話を続ける必要はないだろう。
「お兄さまは、話すより書く方が得意でしょう? 私、お兄さまのお手紙、大好きよ。字も文章も、とっても綺麗ですから」
「……ありがと、ルルゥ」
嬉しそうに目を細める兄のすぐ隣の椅子に座り、こちらも微笑み返す。筆談ならば、兄を苦しませることなく、スムーズに会話できるだろう。それに、書庫で騒がしくするのも良くないだろうし。まあ、それは今更か。そういえば散らかした本をそのままにしてしまっているけど、後で怒られたりしないだろうか。
しょうもない心配をしていれば、メモ用紙の上にするすると文字が紡がれていて目をやった。そこには、優雅な文字で『ルルゥは、歴史の勉強がしたいの? 僕で良ければ、少しくらいは力になれるかもしれないよ』と書かれていた。教えてくれる、ということだろうか。それは物凄く有難いのだけれど、あまり良くない気がする。
まず彼が書庫に一人でいるのもおかしい、普通なら使用人の一人くらい傍にいるはずだ。恐らく、内緒で抜け出してきているのだろう。というか、お兄さまは体調を崩して部屋で休んでいるから、良くなるまでは会いに行かないようにと昨日トトに言われたばかりなんだけど。いったいどうなっているんだ。
「とっても嬉しいのですが、お兄さま、今日は体調が悪いのではありませんか? お医者さまに怒られてしまいますよ」
『黙っていればバレやしないさ。みんなちょっと大袈裟なんだよ、ほら、なんともないだろう? 今日はなんだか調子が良いんだ』
「でも、きっとみんなお兄様を心配しています」
『そうかもしれない。でも、たまの息抜きくらい許してほしいな。自分の身の安全の為に妹のお見舞いにも行けないなんて、情けなさで息が詰まりそうだからね。……これは少し、意地悪だったかな』
「お兄さま……」
困ったように眉を下げて笑う兄に、どんな言葉を掛ければいいのかわからない。私だって、お兄さまともっと一緒に過ごせたらいいのにと思っている。けれどそれは、現状叶わないこともわかっているのだ。体調を崩しやすい兄は、一日の殆どを自室で過ごしている。外で一緒に遊ぶ機会なんて滅多にないし、今日だって会うのが久しぶりなくらいだ。
『ごめんね、困らせたかったわけじゃないんだ。僕は君に兄らしいことをなにもできていないから、たまには力になりたくて。傲慢な兄を許しておくれ』
「そんな、許すなんて……」
『僕はいつもルルゥの優しさに甘えてしまっているから、たまには甘やかしたいんだよ。我が儘をきいてくれる?』
「そんなの、我が儘のうちに入りません。ただ、今日はお兄さま、部屋を抜け出してきてるでしょう? だからダメです、また今度にしましょう。約束です、私にお勉強を教えてくださいね」
どうすれば伝わるかなぁ、と考えながらぽつぽつと言葉を紡ぐ。流麗に書き出される兄の文章とは大違いである。
それでも、貴方を大切に思っているのだと、少しでも伝わってくれればいい。兄と言葉を交わす機会は本当に少ない。従兄のフィフィと過ごした時間の方が圧倒的に多いだろう。そうだったとしても、私にとっての兄は彼だけだ。
納得してくれたのか、ほんの少し淋しげに笑うと、私の頭を軽く撫でた。
不意に、ぱたぱたと忙しない足音が聞こえてくる。誰だろうかと振り返れば、プラチナブロンドの青年がそこに立っていた。
「あー、ティア様、ここにいたんですね。探しましたよ。本なら俺が取って来ますから、お部屋にいてください。あれっ、お嬢様もご一緒されてたんですね」
「はい。ごめんなさい、私がお兄さまとお話していたせいで、手間を取らせましたね」
「いえいえ、いいんですよ。坊ちゃんがすーぐ抜け出すのが悪いんです。ああ、お嬢様からも言ってやってください。部屋にいてくれないと、もう二度と口きいてやんないよって」
「ふふ、いいですね。でも、嘘は言えませんから」
「そうやって甘やかすから駄目なんですよ! 坊ちゃんには誰かガツンと言ってやれる人がいないとー。さあ、お部屋に戻りますよ。お嬢様も病み上がりなんですから、お早めに休まれた方がいいですよ」
「はーい」
半ば引き摺られるようにして、兄は書庫を出て行った。去り際にその唇が、「またね」の形を作ったのを、私は見逃さなかった。
彼が兄の侍従で良かったなあ、と思う。お喋りで世話焼きな、プラチナブロンドに碧眼の青年、ケイ・リッテン。無口な兄の隣に並んでいると、なんだかずっと独り言を言っているように見えてちょっと面白い。
さて、と机に置かれた本とメモ用紙を腕に抱える。今日からは自分の部屋に帰っていい事になっている、あの無駄に広い治療部屋とはお別れだ。浮かれて足を踏み出し、そういえばぶつかった本棚の周りを片付けるのを忘れていたな、と思いだし、気分が沈む。一旦使用人の誰かを読んできて手伝ってもらおう、高い所には届かないし。
この歳にもなって、こんなしょうもないことで怒られるの嫌だな。いや、よく考えなくても私はまだ八歳か、なら仕方ないかなぁ。なんてどうでもいいことを考えながら、重い足を動かした。