08
それはちょうど雪乃の出かける準備が終わったタイミングだった。――出かける準備とは言え、いつも来ているシンプルな真っ白の服から町娘が着ているような素朴な色合いのワンピースに着替えただけだが。
部屋に入って来たニーグは雪乃の服を見るなり、出かける気配を察して雪乃の側に寄る。
「ユキノ様、お出かけでございますか?」
「うん、ニーグ。少し出かけてくるね」
「どちらへおでかけででいらっしゃいますか?」
「うん。ちょっとソルノディオの街に行ってみようかと思って」
「ソルノディオ、ですか。分かりました」
「じゃあ、行ってくるね」
先日、イリアの田舎に出かけた際に神殿の外に出てはいるが、その時はじっくりソルノディオを見ている時間はなかったのだ。せっかくこの町に滞在しているならこの町のことを知りたい。水鏡から町の様子を見ることはできるが、それは『見る』だけで、その場所の空気や雰囲気は分からないのだ。
ニーグに向かってそう言えば、ニーグはにっこりとフードの奥でにっこりと微笑んで後を着いてくる。
「えっと、ニーグ?」
「私もご一緒させていただきますね」
「え」
「何か不都合でも?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「ああ、ユキノ様に合わせて服も目立たないものに変えなければなりませんね。少しお待ちくださいませ」
「……分かった」
――というわけで、雪乃は半ば押し切られるような形でニーグと共に街に出かけることになったのだった。
ソルノディオはアグニスト教の総本山である、聖アグニスト教会を中心に成り立つ町である。西洋の城のように大きな教会を中心にして、波状に様々な商店や宿屋、信徒の民家などが軒を連ねているのだ。この世界最大の宗教の総本山ということもあり、その規模はかなり大きい。
「すごい人……これって」
「ふふふ。お祭りがあるみたいですよね。アグニスト様のお膝元ですから、巡礼の方が多いのです。この辺りは、その巡礼の旅人目当ての商売が流行っているようですね」
二人が歩いている道沿いには小さな屋台のようなものが並び、通りを歩く巡礼者や旅人に向かって忙しなく声を掛けている。くすんだ緑の外套を頭からすっぽり被ったニーグは、楽しそうな声色で話しながら雪乃を見た。先日の短い旅では神官であると分かるように真っ白な衣装に身を包んでいたが、こうして普通の色合いのものを着ているのを見ると一見して普通の旅人のように見える。
「ニーグってそういう服も持ってたんだ」
「はい。一応は普通の旅人に見えるようなものもあります。立場が分からない方が便利なこともございますので」
「もしかしてっていうか、やっぱりニーグって偉い人なんだ?」
「偉くはございません。人は皆平等ですから。しかし、役職という意味では上の方に在官させていただいております。そのおかげでユキノ様の側仕えというお役を戴くことができましたし」
ニーグはそう言って、本当に嬉しそうににっこりと笑う。側仕えと行っても、結局は雪乃の世話係だ。仕事内容は大したものではないが、雪乃が女神であるということを考えると彼の立場も想像しやすい。
二人で並んで歩きながら、何気なく屋台を見るが、その種類は本当に様々だ。そうやって見ていると、ふいに疑問が沸いて出る。
「そ、そっか。えっと、ニーグはこういうものを食べるの?っていうか、アグニスト教って食べちゃいけないものってあるの?」
「特に禁止されているものはございませんね。アグニスト様は自然を愛される神であらせられます。自然の動植物の中で禁止することは不可能でございましょう?」
「なるほど。まぁ、それもそうだよね。私の知ってる宗教だとお酒がダメだったり、お肉の種類を限定するものあったりするからさ」
アグニストの言うことは尤もだ。毒があるとかそういう理由以外で、あれは食べてはいけないなんてことは自然界においてはありえない。特にアグニストは動物から発生した神ではないので、そのようなことについて禁止する理由もないのだろう。彼は生き物がありのまま生きている様が好きなのだから。
「そういう神もいらっしゃるのですか?それはどこの宗教なのでしょう?そういえば、ティアナ教では卵を禁じていると聞いたことがありますね」
「いや、私が知ってるのはこの世界のではないんだけど。まぁ、そういう考えもあるってこと」
「なるほど……。神々の理には様々なものがあるのですね」
ニーグは感慨深そうに呟いて、何か考え込むように頷いていた。
「……これって」
「ああ。これはユキノ様がご光臨なされた際の姿絵でございますね」
「……いや、これは、こんなんじゃなかったよね?」
「とても神々しく、素晴らしい光景でした……。教皇様があの光景を信徒にも伝えねばならないとのことで、姿絵の流布を許可しているのですよ」
ニーグはしみじみと言っているが、その表情に冗談のようなものは感じられず、顔は真剣そのものだ。しかし、雪乃の視線の先にある姿絵とやらはどう見ても現実と異なりすぎるものが描かれている。同じなのはせいぜい髪の色くらいかもしれない。
顔はスタイルの良い西洋風の神秘的な超絶美人に仕上がっているし、髪は艶やかにゆるいウェーブを描いて足のつま先まで広がっている。着ているのは雪乃が着ている着物風のものではなく、豪華で扇情的なドレスにゴテゴテと飾られた金色の装飾品。背景には後光が差し、どこからともなく緑の蔓や草葉、そして百合に似た花が咲いている。
とりあえず、雪乃の顔は平凡そのもので、ほとんど癖の無い髪の毛は長く見積もっても精々胸のあたりまでしか伸びていない。
「……まぁ、不細工に描かれるよりはいっか。逆に堂々と町を歩けるしね……」
「ええ。とっても美しく描かれておりますね。でも、実際のユキノ様の内から溢れ出す美しさは描ききれていないのが残念です」
ニーグは肩を落として心底残念そうに言い切って、小さくため息を吐いた。
そんなニーグを苦笑しながらやり過ごしていると、ふいにある建物が目に留まる。それは淡い黄色のレンガで建てられた建物なのだが、扉の上にひっそりとアグニスト教の証でもある蔓のような草の模様が刻まれいるのだ。少し入ったところに見える開かれた窓からは賑やかな声が聞こえて、厳正なる雰囲気の教会とは違って見える。
「あれは?」
「……ああ。あれは教会が運営する孤児院です。寄ってみますか?」
「こんなに急にいいの?」
「はい。園長は知っている方ですし、子供たちも来客を喜びますから」
「それじゃあ、ちょっとだけ……」
そして雪乃はニーグに連れられて孤児院の門をくぐった。
「――あらあら!今はニーグ様、かしら?」
「はい。お久しぶりです、院長先生。こちらは、私の上司のユーノ様です。――ユーノ様、こちらはこの孤児院の院長のトフィー先生です」
「ユーノです。初めまして。突然お邪魔してしまってすみません」
「トフィーです。ユーノ様、初めまして。大したおかまいもできませんが、どうぞこちらでお茶でも飲んでいってくださいな」
建物の中に入ると、すぐに奥から初老ほどの女性が出てきた。白いものが混じった髪の毛をきちんと一纏めにし、淡い水色のワンピースの上にエプロンを重ねた、清潔感のある女性である。
ニーグに院長先生と呼ばれたトフィーは、目尻に皺を寄せながら優しい笑みを浮かべて二人を迎え入れた。
「先生!誰!」
「だれだれー?」
「みんな、お客様ですよ。ご挨拶は?」
「こんにちはー!」
「こんにちは。元気一杯ですね」
「うるさくてごめんなさいね。先生はお客様とお話があるから、みんなは部屋の外で遊んでいてね」
「はーい!」
トフィーはよほど子供達に慕われているのだろう。彼女が歩くと子供達がどんどん増えて、まるで団子のようにくっついて歩く。その子供の人種は多種多様だ。色白の西洋風の容姿の子供から、浅黒の肌の子供、雪乃のようにあまり堀の深くない子供、所謂北の民と呼ばれる動物の耳を持つ子供までがいる。しかし、賑やかにしていた子供達もトフィーが言い聞かせると聞き分け良く部屋を出て行った。
「すっかり立派になられましたね」
「いえいえ。私なんてまだまだです」
「あの、もしかして……」
案内されるままに応接用のソファーに座ると、トフィーは懐かしそうに目を細めて感慨深そうにニーグを見つめた。ニーグはそんな視線を受け止めて、照れ臭そうに首を振る。
そんな様子を見ていると、やはりと確信めいた考えが浮かんだ。
「はい。私はこの孤児院出身なのです」
「とは言っても、ニーグ様は二年ほどでここを出てしまわれたのですよ。とても優秀な方で、早くから神官としてお務めを始められましたから」
「そうだったんですか。確かにニーグはとても優秀で、私も助かっていますよ」
「ユーノ様!たまたまです。運が良かっただけです」
トフィーの言葉になるほどと頷いて同意すれば、ニーグは大きく首を降って謙遜を始めた。そんなニーグを見て、トフィーはさらにとぼけたように不思議そうに続ける。
「あら。その運に恵まれることもアグニスト様の御導きと、ニーグ様の行いの良さということでしょう?」
「お二人ともからかうのは止めてください」
「あら。私は本当のことしか話してませんよ?」
「うん、そうだよ」
「……お二人が仲良くなられたのは分かりました」
ため息を隠しもせずに吐き出したニーグを見て、トフィーと雪乃はくすくすと顔を見合わせて笑う。
「こうしてニーグ様が姿を見せてくれて嬉しいのです。貴方がお務めに熱心なのは分かりますが、たまには休まないといけませんよ?」
「そんなに心配なさらずとも、きちんと休んでいますよ」
小言の様な調子で話すトフィーはまるでニーグの母親のようでもある。そんなトフィーに向かって、素っ気ない態度で返すニーグはまさに息子だ。こうしてトフィーと話すニーグは、いつもの落ち着いているニーグとは少し違って見える。いつもは大人っぽく見えるが、今日のニーグは年相応の表情だからなのだろう。
「どうでしょうね。貴方がこちらに居られた時も、ろくに眠りもせずに本を読み漁っていたことはよく覚えていますよ。それに、仕事を終えた後の自由時間に、貴方はいつも祝詞の練習をしていました。それから――」
「ええ?そんなに勉強熱心だったんですか?」
「そうなのです。この人は真面目と言うか、思い込んだら一直線と言うか……」
「分かりました!分かりましたから!」
「ふふ。よくお分かりいただけたようですね?ああ、こちらのクッキーを召し上がってくださいな。ちょうど子供達と焼いたばかりなんですよ」
トフィーがにっこりと勝ち誇った笑みを浮かべて、二人にクッキーを進める。そんな様子をまるで聞いていたかのようなタイミングで、それまで閉まっていた応接室の扉ががちゃりと開いた。
「――先生!お茶は足りる?」
「あたらしいおちゃ、もってきたの!」
「まぁまぁ、あなたたち……」
扉から顔を出したのは、まだ小さな子供が数人だ。
「トフィーさん、大丈夫です。良かったらお茶をもらえますか?」
「はいはーい!わたしやる!」
「ユーノ様、ニーグ様。申し訳ありません」
「いえいえ。子供達が元気に健やかにいることは、我々アグニスト教にとってはとても喜ばしいことです。アグニスト様もお喜びになります」
「そう言っていただけると気が楽になります。でも、みんな。今度からは入るときに必ずノックをしなければ駄目ですよ?」
「はーい」
今にも叱ろうとしていたトフィーに言えば、彼女はほっとしたように表情を崩した。子供達はトフィーが雰囲気を弛めたと見るや、元気に返事をして言葉通りにお茶のおかわりを淹れている。
「ここには色んな人種の子がいるんですね」
「はい。人種別にしている孤児院もあるなんて聞きますけど、この子達は少し見た目に違いがあるだけですから」
「そうですね。みんなかわいいに違いありませんね」
「ふふ。そうですよ」
ニーグはそう言って笑い合う二人を静かに見つめていた。