07
雪乃の生活は日常に戻った。それは朝、ニーグと少し過ごした後、人々に紛れて生活をするという日常である。
「――ユーノ。私、この仕事辞めることにしたの」
洗濯物をピンと伸ばして干す作業をしていると、横で同じように洗濯物を干していたイリアが何気ない調子で告げた。
「辞める?もしかして、あの人と……」
「違う違う!あの伯爵様との話はきっぱり断わったから。ありえないでしょ!あたしがいくら美人だからって、あんなのの後妻とか絶対嫌。お金は無くてもいいから、優しくて穏やかな人と結婚するのがあたしの夢なんだからねっ!」
雪乃がベルトラン伯爵の姿を脳裏に思い浮かべながら聞き返すと、イリアは慌てて首を振って否定した。列挙する条件を聞く限り、確かに彼女の希望に叶った相手では無さそうである。しかしそうなると、彼女が仕事を辞める理由は分からない。
「そ、そうでしたか。えっと、それではなぜ辞められてしまうのですか?」
「あたしの弟が病気だって話は誰かから聞いてるでしょ?」
「……はい」
イリアから直接聞いた話ではなかったが、この洗濯場の女たちの中ではよく知られた話で雪乃のこっそり教えてくれたのもその中の一人だった。雪乃が小さく頷くとイリアは気にした様子もなく笑って話し始める。
「それでね。まぁ……色々あったんだけど、実家でやってた温泉宿が良い値で売れたの。それで少し余裕ができてさ。お父さんたちもこっちで仕事見つけて、親子四人で暮らすことになったの。それもあって仕事をいくつも掛け持ちする必要はなくなったのよ。家族も少しはゆっくりしろってうるさくてね」
「そうだったんですか。それは良かったですね」
イリアの言葉に冷たい色は見えなくて、雪乃はほっと胸を撫で下ろす。きっと、家族とゆっくり過ごす時間を大事にするということなのだろう。
「だから、ありがとうございました」
「え?」
「……言っておきたかったの。女神様。本当にありがとうございました。――それだけ!あたしは先に戻ってるから」
イリアは言い逃げするように言い切ると、そのまま空の洗濯籠を持って走り去ってしまった。雪乃も空の洗濯籠に温かい気持ちを入れて持ち上げる。空っぽで大した重さのない籠であるが、思わずぎゅっと抱きしめるように持ってしまう。
そして洗濯場の方へ歩こうとすると、後ろからがさりと草を踏む音がして振り返った。
「彼女に気付かれてしまったようですね」
「……ニーグ」
振り返った先に居たのは心なしか疲れた表情を浮かべたニーグだ。ニーグはそのまま雪乃の側にやって来ると、隠そうともせずに大きなため息を一つ吐く。
「探しましたよ。ユキノ様がどちらに行かれたのか散々探させていただきました。まさかこのようなところにいらっしゃるとは思いもしませんでした」
「えっと、その、ごめんね?」
「いいえ。私はユキノ様にお仕えする身。たとえユキノ様が居場所を告げずに居なくなろうとも、それをお探しするのが仕事でございますから。全く、全然、これっぽっちも気にしておりませんよ」
「……ごめんなさい」
「ユキノ様の行動を制限するつもりはございません。次からは居場所だけは必ずお知らせしてくださいませ」
「……はい。気を付けます」
ニーグは口元ににっこりと笑みを浮かべてはいるが、その形の整った目元は笑っていない。その表情からも、彼が少なくない時間を雪乃を探すのに使ったことが分かる。慌てて謝罪の言葉を重ねることで、ニーグの表情がようやく和らいだ。
「それにしてもよろしいのですか?気付かれてしまったようですが」
「うん。多分、イリアは他の人に言うことはないと思うから」
「……」
「ニーグ?」
「ユキノ様が……」
「私?」
「……笑みを浮かべていらっしゃるのを初めて拝見いたしました」
そう言うとニーグはさっと目元に朱色を乗せて目を伏せた。
「え?私、笑ってた?」
「はい。あの……もう一度」
「こう?」
「……」
にっこりと雪乃なりの笑みを浮かべてニーグを見るが、ニーグは固い表情のままくるりと踵を返して歩き始めた。
「ちょっと、どこ行くの」
「少し仕事を思い出しました」
「ニーグ!」
雪乃が止める声も聞こえないようにニーグはそのまま居なくなってしまう。しかし、その代わりに聞き覚えのある艶やかな女性の声が楽しそうに笑い声を上げた。
「はっはっは。素直な男じゃのう」
「姫神様!?」
そこに居たのは懐かしい白瀧津姫神だった。こちらでは見ることのない、幾重にも重ねた鮮やかな着物を身に纏い華のある笑みを浮かべてこちらを見ている。そんな姫神に走り寄ると、姫神は嬉しそうに目を細めて雪乃を見た。こちらに来る前、手助けすると話してくれたことを思い出して自然に顔が綻ぶ。
「久しぶりじゃのう。元気にしておるようで何より」
「どうしてこちらに?」
「様子を見に来たのじゃが、その様子じゃ心配は無さそうじゃな?」
「そうだったのですか……。ありがとうございます」
「あの男はそなたの神使にするのか?」
あの男と指すのは間違いなく、ニーグのことだろう。しかし、雪乃にその考えは無い。しっかりと首を振って答えると、姫神は悲しそうに眉を下げた。
「え、いえ、それは考えておりません。ニーグは大地で生きる者ですから」
「そうか……。一人は辛いぞ?」
「分かっております」
「やや。もう時間が無い。やはり無理して次元を超えるのは難しいのう。この妾ですら仮初の体を飛ばしても短い時間がやっとじゃ」
姫神は大きくため息を吐いて肩を竦めて、優雅に扇いでいた扇子をパタンと閉じた。仮初の姿と言うことは、今はっきりとここに居るように感じる彼女の姿も実体ではないということなのだろう。こんなにも現実感を持っているというのに、恐らく彼女の行使する神術の何かなのかもしれない。神としてはまだまだ新米の雪乃とは違い、土地神とは言え数十人の神使が使える姫神とは位が違うのだ。
「もう行ってしまわれるのですか」
「また様子を見に来る故、心配するでないぞ。それと最後に一つ」
「はい」
先ほどまでの笑みは消え、真顔になった姫神はじっと雪乃の目を見つめて口を開く。
「そなた……感情を取り戻して始めておるな?」
「……はい。そうだと思います」
雪乃の心は真っ白な色の無い場所では無くなっている。もう今までの自分がどうやって長い月日を過ごしていたのか思い出せないくらい、胸の中には温かいものが溢れているのだ。姫神はそれすらも見据えたようにじっと雪乃を見つめている。
「これは雪乃のために言っておく。一度忘れたものは忘れたままでいる方が良いのじゃ。これ以上、思い出さぬ方がそなたのためぞ?」
「……」
「ではな。息災にな」
姫神はそう告げると、人形の紙を残して霧のように姿を消してしまった。先ほどまで彼女の香の香りすら香っていたというのに、その残り香すら残っていない。まるで彼女がここに居たことが幻であったかのようだ。
雪乃は姫神の人型をの紙を拾い上げ、じっと考える。
「忘れたものは忘れたまま……か」
そう呟いた言葉を誰に聞かれることもなく、シーツをはためかせる風に消えた。