05
「ユキノ様。どうぞこちらをお納めくださいませ」
ニーグはそう言うと、雪乃の前にたくさんの果物が載せられた皿を並べた。食べやすいように皮を剥かれ切られたものから、そのままのものまで様々な種類のものが何皿も目の前に並べられている。その量は何日分どころか、何ヶ月分だろうかとも言うほどだ。
「ありがとう。でも、こんなにたくさんどうしたの?」
「女神様へのお供え物でございます」
「……これ全部?」
「はい。ユキノ様は果物がお好きでいらっしゃるのですよね?」
「……とりあえずいただくね」
「はい。どうぞお召し上がりください」
確かに雪乃は果物が好きだ。しかし、こんなにたくさんは物理的に食べることができないだろう。いくら人の身から離れた身とは言え、胃はブラックホールではない。
「あれ」
「どうかなされましたか?」
「……こんなにたくさんあるんだから、ニーグも食べて」
「いえ、それは……」
「いいから。ほら、これ。口を開けて」
目の前には実際にすぐに食べきれないほどの果物がある。一口サイズに切られた果物の一つを手にとってニーグの目の前に差し出す。ニーグはその果物を見つめてしばらく逡巡するような様子を見せた後、意を決したようにそれを受け取って自分の口に運んだ。
「……いただきます」
「どう?」
「甘酸っぱくて美味しいです」
「そっか。ちなみにこれを私にくれた人は誰?」
「この神殿からでございます」
「そうだよね。神殿からの供物はこれっきりにしてもらえる?」
「何故ですか?何かお気に召さないことがございましたか?」
「ううん。気持ちは嬉しかった。だから、これで終わり。これは私から――女神からのお願いです。聞いてもらえますね?」
「……はい。畏まりました」
渋々という感情が言葉に染み出ているニーグに苦笑いを浮かべて、雪乃は果物に手を伸ばす。綺麗に切られた橙色の果物であるが、爽やかな香りとは正反対に口の中に入れると味はほとんどしない。薄く甘酸っぱいような味がしないでもないが、それも僅かなものである。考えるまでもなく、ニーグが感じている味とは違うはずだ。
原因は恐らく、これを私にくれた人が女神ユキノに対する信仰心を持っていないためだろう。この神殿は元々アグニストのためのもので自分の神殿ではない。そのために急に現れた守り神を受け入れられない人がいるのも当然である。
「そう言えば、私はここですることはある?」
「いいえ。ユキノ様はこちらでごゆるりとお過ごしください。ユキノ様がこの地でお過ごしくださることで、その恵みを与えてくださるのでございます」
「本当にいるだけでいいの?」
アグニストも雪乃がこの世界に留まっていることに意味があると言っていた。しかし、と確認するようにニーグを見る。
「はい。すでにユキノ様が訪れてから近くのオアシスで水の出が良くなったとの知らせが届いております」
「本当に?まだ一晩しか経ってないのに」
「とても有難いことでございます。この恵みに心より感謝致します」
ニーグが部屋を出て行って一人になると、ぼんやりと窓の外を眺めた。ここに居るだけで良いと言われても、長い間神使として働いていたために何もしないでゆっくり過ごすなんて無理である。すでにやることがないかとニーグに聞いてみたものの、とんでもないとばかりに丁寧に断られて終わりだった。女神にさせる仕事がないのも当然なのかもしれないが、手持ち無沙汰なものは手持ち無沙汰なのである。
その時、窓の外から若い女性たちの明るい声が聞こえてきた。どうやらそう遠くない場所で下働きの女性たちが洗濯をしている水場があるらしく、そこから声が聞こえてきているようだ。雪乃は少しだけ考えた後、すぐに決行に移すことに決める。ニーグは数時間は戻らないと言っていたので、まさに好都合だ。
「――こちらで手伝うように言われたんですが」
「あら、新入り?私はここの洗濯場を纏めてるイリア。アンタの名前は?」
「ゆ……ユーノです」
「分かった。ユーノ、こっちの服を色別に分けてもらえる?仕事は山程あるんだ。たくさん働いてちょうだい」
「はい!」
イリアに返事をすると、雪乃は洗濯物の山に向き合った。籠一杯にこんもりと盛られているのは、黄色や水色、そして桃色など明るい色合いのものが多い。
「随分と色鮮やかですね?」
「ああ、それは行儀見習いのお嬢様方のだね」
「行儀見習い?」
「結婚前に三ヶ月ほど神殿に仕えて、穢れの無い身だっていう証明にするんだと」
雪乃が見た限りではあるが、神官などこの場所に仕えている人間の服は白で統一されているようだった。しかし、ここにあるのはそうではないものばかり。神殿で働く洗濯婦が神殿のもの以外を洗濯するはずもないので、それはおかしな話のようにも思えた。傍で丁寧に洗濯をしている洗濯婦に聞いて見ると、彼女は何てことのないように答える。
「なるほど」
「あ。その青のドレスは丁寧にやった方が良いよ。どこの糸が解れただの、何だのって煩いんだ。令嬢たちにはある程度服装の自由は許されてるとは言え、みんな簡素なものにするのが暗黙の了解だってのに派手なドレスばっかり持ち込んで困るよ」
雪乃が手に持っていたのは、このままどこかのパーティーにでも出かけるのではないかと思うほどの華美なドレスである。他のドレスと比べても、それは一目瞭然の違いがあった。色分けをするために持ち上げると、その重さからして違う。きっと立派な家の令嬢であるのだろう。
「でも、一度くらいこんなドレスを着てみたいなぁ」
「はっはっは!あたしらには無理無理」
色鮮やかなドレスを見ているうちに洗濯婦の中の若い娘がぽつりと羨むような声を上げたのを、横にいた別の女性が笑い飛ばす。確かに彼女たちが着ているのは清潔に洗われてはいるが、ごわごわした生地の灰色ワンピースと同じように色のくすんだエプロンである。若い女性であれば余計に目の前の色鮮やかなドレスに憧れずにはいられないのだろう。
「でも、イリアならきっとこのドレスも似合うんじゃない?美人でスタイルも良いし」
「確かにねぇ。ちょっと、イリア!このドレスを当ててごらんよ」
「え?何言ってんのさ」
「いいからいいから。――本当!この青のドレス、イリアによく似合うよ」
押し切られるように青のドレスを当てたイリアは戸惑ってはいたが、本当に良く似合っていた。まるで彼女のために作られたのではないかと思えるほどである。
「――はいはい。遊びは終わり!早くしないと仕事が終わらないよ」
「はーい」
イリアが嗜めるように言ってドレスを退けたことによって、その遊びはあっという間に終わった。洗濯婦たちはあっという間に持ち場へと戻り、再び仕事に戻っている。
「イリアも少しは息を抜けると良いんだけどねぇ」
「どうかしたんですか?」
「あの子の弟が病気なのさ。昼間はこうやって洗濯婦をして夜は食堂で働き詰めて薬代を稼いでいるんだ。家に帰ったら母親と代わって弟の看病。あの子が身体を壊さないかって、みんな心配してるんだよ」
「なるほど……」
横目でチラリと覗き見たイリアの顔は確かに疲労の色が濃かった。それがさらに彼女を美しく見せているとも言えたが、よく見れば僅かに出ている彼女の腕は驚くほどに細い。腕の細さから見るに、きっと彼女はかなり痩せてしまっているのだろう。薬代がどれだけのものか知らないが、一日働き詰めで碌に食べもしていないのかもしれない。
「ユーノ!洗い終わったドレスを干しに行くから手伝ってちょうだい」
「はい。分かりました」
雪乃は洗い終わったものが入った桶を持ってイリアに続いて歩く。ある程度水を絞っているとは言え、それなりに水を含んだ布は重い。それでもイリアの足並みはしっかりとしたもので、ピンと背筋を伸ばして歩く姿は後ろから見ても美しかった。
干し場に着くと、イリアに指示されるままにどんどん干して行く。たくさんの服や布が吊るされて風に靡いているところを見ると、達成感がある。それはイリアも同じだったようで、イリアの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「あたし、こうやって干してあるの見るの好きなの。なんだか気持ち良いじゃない?」
「……はい。何となく分かります」
そんな穏やかな空気もすぐに一転した。突然建物の影から男性が現れたかと思うと、その姿を見てイリアの表情は固くなる。
「――イリア。またこんなところに居たのか」
「……伯爵様」
「そんな呼び方じゃなくて、ベルトランと呼んでくれて良いって言っているだろう?」
イリアの様子になど気付いてもいないのか、ベルトランはイリアの髪を一房掴んで口元に近づけた。それが色男であれば様になったのかもしれないが、目の前にいるのはイリアと親子ほども年の離れたふくよかな男性である。その大きなお腹周りのせいで、どうにも身体は重そうで滑稽なものに見えてしまう。
「私のような者が名をお呼びするわけにはいきませんので」
「僕とイリアの仲なんだから気にしないって言ってるのに」
「いえ、そのような仲ではありませんから」
「イリアは真面目だね。まぁ、そこも君の良いところなんだけど」
イリアの感情を感じさせない声色にも気にしていないのか、ベルトランは上機嫌に笑っている。
「……私、仕事がありますのでこれで失礼致します」
「こんな仕事早く辞めたら良いのに。まぁ、良いさ。あの話、良い返事を期待しているよ」
ベルトランは大きなお腹を揺らして、去って行ったがイリアの表情は暗い。雪乃がイリアを見れば、イリアは首をゆるゆると振ってぎこちなく笑う。そして地面に置いていた桶を持つと再び洗濯場へと足を進める。その足取りは重く、イリアの纏う空気も重かった。そんなイリアを何だか見ていられなくて、雪乃は戸惑いがちに声を掛ける。
「イリアさん、大丈夫ですか?」
「あー……あたしの実家さ、田舎でちょっとした宿をやってんの。でも、それがあんまり上手く行ってなくってね。ついに病気の弟の薬代も払えなくなっちゃってさ。それであたしは少しでも稼ぎの良い仕事と思って町に出てきたの。でも、大した教養もないあたしじゃ就ける仕事なんて限られてるでしょ?そこへ伯爵様が妾にならないかって話掛けてきたのよ」
「……イリアさん」
「ほら、あたしって結構美人だし?まぁ、伯爵様の目にも留まるのも当然じゃない。伯爵様の女になったら色々融通してくれるって話だし、悪い話じゃないわよね。……ってあたし何話してるんだろ。こんな話を急にされても驚くってね」
「いいえ。お話ししてくれて嬉しいです。……あまり無理をなさらないでくださいね」
「……うん」
イリアは小さく頷いて、さっきよりもいくらか強張りを解いた笑みを見せた。