04
その日も大地へ降りて迷子の手助けなどをしていた雪乃がようやく天にある社へと戻って来ると、悠然と寛ぐ男が一人。ここへ来ることができる者は限られていて、考えるまでもなくそれは創造神であるアグニストに他ならない。
「――よう。ユキノ!」
「アグニスト様。お久しぶりでございます」
ちょうど社に降り立ったところで、自分で用意したのだろう見覚えのない長椅子にゆったりと寝そべったアグニストがひらりと手を上げて雪乃を見た。その姿は疲れ切ったようにぐったりと顔色は悪く、よほど忙しかったのだろうと想像できるものである。神に体調の変化があるのかは分からないが、とにかく雪乃にはそのように見えた。
「いやぁ。新しく作ってる第二千三百二世界に手こずっちゃってさ。おかげですっかりまかせっきりにしてしまっていたけど、問題は無さそうだね?」
「……はい。恐らくは」
「そんなに自信無さ気に言わなくても、よくやってくれてるって!君がこの世界に留まってくれれば、それでこの世界は保たれるんだから」
雪乃が自信無く頷くと、アグニストはそれを笑い飛ばすように言ってのける。しかし、彼の発言の内容に新たな疑問が生まれた。
「留まっていれば?」
「うん。ユキノはこの世界の核なんだよ。君が存在するだけで、この世界の存在は保たれるってこと」
「それは責任重大ですね……」
「そう難しく考えることはないよ。君の好きなように過ごしたら良い。今までみたいにね?」
神としての格は違うアグニストにはきっと全てをお見通しで、雪乃が時折大地に降りて人と接触しているのにも気付いているのだろう。パチンとさりげないウィンクをしてにっこりと笑った。
「あの、それは」
「人の営みは面白いよね。だから俺は人のことが大好きなんだ。俺なんて本性は光だからこんな風に人の形は持っていないんだよ。でも、こういう姿をしていると人の子たちと接触しても受け入れられやすいでしょ?」
「確かにそうかもしれませんね」
にこにこと人好きのする笑みを浮かべたアグニストはそう言って、優しい目で雪乃を見た。アグニストは光から生まれた神であるので、その本当の姿はただの光でしかない。しかしそんな彼が常に人の姿を保っているのは、人が好きだという何よりの証拠に他ならないのかもしれなかった。
「……と、いうわけでユキノにお願いがありまーす!」
「お願いですか?」
「そう。ちょっとしばらく大地に降りて来てくれない?」
「……はい?」
突然アグニストが立ち上がったかと思うと、雪乃の目の前に向かい合ってその両肩にぽんと手を置いた。そして有無を言わせない調子で、はいと頷くまでは手を離さないという雰囲気で雪乃を見ている。
「俺もね、大地に降りたいのは山々なんだけど。俺だとちょっと力が大きすぎて、まだ安定していないユーティノトスには影響が大きすぎるんだよね」
アグニストは大きくため息を吐いて、渋々という様子を隠そうともしない。
「ちなみにどんな影響がありえるんですか?」
「んー?季節関係無しに植物が咲乱れたり、天気が目まぐるしく変わって晴天から未曾有の大雨、さらには大地変動までが入り乱れる感じ?」
「分かりました。私、大地に降ります」
本当にアグニストが言うようなことが起こってしまうのであれば、ユーティノトスは壊滅どころかこの世の終わりである。雪乃は考えるまでもなく即答で頷いて、目の前でため息を吐いている神を見た。
「ありがとう!下にいる人の子たちには俺からよろしく言っておいたから。さぁ、行っておいで!」
「えっ!あ、アグニスト様ッ!?」
「たまに連絡入れるからねー!」
雪乃が頷くとアグニストは表情を一転させて、水鏡へと雪乃を押した。そして心の準備をするまでもなく、大地へと落ちていく。朗らかな顔で手を振るアグニストに、文句を言う暇などはもちろん無かった。
「――ほ、本当に……ご降臨なされた……」
冷たく感じるまでの清廉な空気。雪乃が降り立った先には揃いの頭までをすっぽりと覆う白装束を着た、たくさんの人が膝を着いて天を仰いでいた。大きな空間であるが、そこは屋内であるらしくひんやりと空気が止まっている。重厚な石作りの建物は雪乃が知る教会によく似ているかもしれない。
ようやく雪乃が現れたことに気付いたのか、それまで同じように祈りを捧げていた彼らの声がぴたりと止まる。そして信じられないという顔で、目の前に降り立った雪乃へと視線が集まった。
「――ここは?」
雪乃は一番前で膝を着いていた初老の男性の目をじっと見た。すると、彼は小さく身体を震わせて頭を垂れて口を開く。
「……ここはソルノディオにある創造神アグニスト様の神殿でございます」
「アグニスト様の。あなたはこちらを管理されている方ですか?」
「はい。私の名はユニス。神官の長を勤めさせていただいております」
「あなたは私のことを知っているんですか?」
「アグニスト様よりご神託を賜っております。ユキノ様は我らが世界を守護する神であらせられますとのこと。水と慈愛の女神だと聞き及んでおります」
建物に視線を遣ると、見覚えのある装飾が柱や天井に施されていることに気付く。それは雪乃が普段過ごしている社にあるものとよく似た装飾が施されている。おそらくアグニストが好きなのであろう、炎をモチーフにした装飾だ。見覚えのあるそれに納得して神官長を見れば、彼は神妙な顔で頷く。
「アグニスト様から?」
「はい。この大神殿にてユキノ様をお祀りし、お仕えするようにと。さすれば大地には大いなる恵みが齎されるだろうとのお告げを頂きました」
「……なるほど」
確かにこの神殿は雪乃にとっても居心地が良い気と懐かしいような空気で満たされている。きっと神官たちの信仰による神力のおかげで、アグニストのためだけでなくユキノをも信仰する気が満ちているのだろう。
そう言えば、つい先日久しぶりに社にやって来たアグニストが水鏡の前で何かしていたことを思い出して、このことだったのかと納得しながら頷いた。彼なりに白瀧津姫に言われたことを守っているのかもしれない。
「ここはユキノ様の神殿。つまりはユキノ様のお屋敷でもございます。どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ。――ニーグ、こちらに」
「はい」
「彼は?」
神官長のユニスの声で、一人の青年が雪乃の前に躍り出て目の前に膝を着いた。彼も他の神官たちと同じように頭までをすっぽりと覆う、揃いの白い服を着ている。フードからは灰色の細い髪が、綺麗に編まれているのが見えた。フードの下にある端正な顔は緊張したような表情を浮かべている。
「ニーグはユキノ様の手足となる者です」
「手足?」
「何なりとこの者にお申し付けくださいませ」
「ユキノ様のお部屋にご案内させていただきます。何かご質問がございましたら、そちらでお答え致しますので」
「……分かりました。案内を頼みます」
「はい。畏まりました」
カツンカツンと雪乃が杖をつく音が石の廊下に反響している。顔を伏せたままのニーグの後を着いて、広間を抜けて石造りの廊下を歩く。背丈は雪乃よりも頭一つ分は大きいだろう。ニーグの背中を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、雪乃の部屋だという場所に着いたらしい。ニーグの歩みが止まり、扉を開けて頭を下げた。
「――こちらでございます」
「ありがとうございます。結構広いけど、本当にここを私が使ってもいいんですか?」
「私にお礼など必要ございません。私たちは神の僕。どうぞお言葉も崩してくださいませ。こちらは雪乃様のお部屋で間違いございません。内装等、お気に召さなければ変えますので仰ってくださいませ」
「ええと、ありがとう。部屋は気に入ったからこのままで大丈夫」
先ほどの広間がちょっとした運動場ほどの広さであったとすれば、この部屋は部屋と言うには広すぎるくらいの広さである。そして先ほどの広間と違うのは、温かみのある家具が備え付けられていることかもしれない。若草色の長椅子に、猫足のようなデザインが愛らしい書き物机。壁には草花や小動物が描かれた絨毯が飾られ、背の高いスタンドランプが部屋の四隅に置かれている。部屋の一面には大きな掃き出し窓がついており、レースのカーテンが揺れていた。ガラスの質は荒く、小さいガラスを組み合わせているものだが思っていたよりも文明が進んでいるのかもしれない。
「それは宜しゅうございました。他に何か必要なものがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
「そうだ。何か盥のようなものはある?深くなくて良いからお盆みたいに平べったい形のものが良いんだけど」
「それはどれほどの大きさのものでしょうか?」
「この机に載せられるくらいが望ましいかな」
「……畏まりました。少々お待ちください。戻るまで、どうぞお寛ぎになってくださいませ」
部屋には雪乃が手を広げたくらいの大きさの書き物机があった。それを示してニーグに言えば、彼は恭しく頷いて足早に部屋から下がる。
大きな窓に近付いて外を覗いて見れば、この建物は大きな塀に囲まれているようで思いのほか外は見えない。しかし、窓の下には少しの木や花が植えられていて、雪乃が女神であることを意識した作りなのだろうと考え付いた。
そしてニーグが出て行ってからそう長くない時間が経った頃、ニーグが閉めていった扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
「ニーグです。水盥をお持ちしました」
「どうぞ、入って」
ニーグの両手に大事に抱えられてきたのは蔓と花が美しく描かれた、花器のようなものだった。それを机の上へ置くと、初めからそうすることが正しいことであったかのようにしっくりとくる。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。ありがとう」
「こちらに水を入れるとおっしゃっておられましたが、もうご用意してよろしいでしょうか?」
「いいえ。水はいらないの。これに入れるのは特別な水だから」
「特別でございますか?」
「清廉なる流れよ、その恵みを与え給え」
そう言って不思議そうに首を傾げたニーグに小さく笑みを浮かべて、両手の手のひらを上に向けて花器の上にかざす。ふっと息を吹くと手のひらから水が零れ、花器に注がれる。そして花器の半分まで溜まると、手のひらの水が消えた。
「これは水鏡にするの」
「ミズカガミ、ですか?」
「そう。この水面を撫でると、遠くのものが見えるの」
本来の社にある大きな水鏡は杖で動かしていたが、机の上に置かれた花器にはそれでは不適当だ。水面を右手の薬指でくるくると撫でるように回すと、ただの透明の水であったものが水底の陶器とは違う何かを映し始める。
「……これは、ソルノディオの街……?」
「この塀の外で合ってる?」
「は、はい。今映し出されているのは、このソルノディオの出店の界隈に違いありません」
「そう。でも、まだ遠くを映すには力が足りないみたい」
「……いえいえ!とても素晴らしいお力でございます。ユキノ様はいつもこうやって地上を見渡されておいでなのですか?」
「それが私の役目だから」
「ありがとうございます。卑小な身ではございますが、心から感謝申し上げます」
「そんな、大げさだから」
「いいえ。ユキノ様に見守っていただいていると思うと、それだけで幸せな気持ちでございます」
「……そっか」
ニーグが本当に幸せそうに笑うものだから、否定していた雪乃までつられるように言葉尻が軽くなった。ふんわりと胸が温かくて、そんな感覚すら何百年ぶりのことだろう。人だった頃の忘れていた感覚は、こんな感じだったのかと感慨深い。
そして雪乃は気付いてしまった。
「……感情?」
「え?」
雪乃の呟きにニーグは怪訝そうな表情を見せる。
「いや、嬉しいとか悲しいとか意味は分かるの。でも、自分に存在していないことに気付いたっていうか。……そうか、神になるってこういうことなんだ」
その言葉がしっくりきた。神使になって数百年。その時間は決して短いものではなく、人として数度の生を全うできるほどの時間である。神使としての生活は人間であった頃のそれとは違い、毎日が変わらない日々の繰り返しだ。その長すぎる時間は人間としての感情を削り取るのに十分であったのだろう。
「神になるとは……?」
「ああ、私は昔人間だったの。何百年も前だし、この世界でのことではないけどね」
「そうなのですか……」
「ニーグには感謝しなきゃ」
「感謝だなんて、そんな」
「久しぶりに感情を思い出すことができたから。ニーグが笑ったのを見たら胸が温かくなったの。きっとこれが嬉しいってことなんだよね?ありがとう」
感情に温度があるわけでもないのに、胸の中は確かにふんわりと温かかった。