03
雪乃は音も立てずに大地に降り立つ。先ほどまで居た社の冷たいまでの清廉な空気は消え去り、乾燥して埃っぽい空気が喉を刺激する。
目の前に広がるのは見渡す限りの砂漠と大きな岩、そして僅かな草木だけがある何もない場所である。そんな場所で雪乃は一点を見つめ、まっすぐそちらに向かって歩み出した。
「あなたが私を呼んだ人ですか?」
「……み……ま……?」
家ほどもある一際大きな岩でできた日陰にその姿を見つけた。頭まですっぽりと覆う着古した黒い装束は砂埃に汚れ、首元から垂れる薄い布は僅かな風によって靡いている。風に吹かれて出来た隙間からは、頭の上にある白い毛で覆われた三角の耳が覗き見えていた。
それは燦燦と照る日差しを逃れて日陰で力無く横たわる、雪乃と変わらない背丈ほどの骨ばった人の姿であったらしい。どうやらまだ幼さの抜けない少年であるらしいその人は、ようやく聞こえるような消え入りそうな声でぽつりと神の名を呼ぶ。そしてそれに反応したのが雪乃であった。
「どうしました?」
「み、ず……」
「清廉なる恵みよ――どうぞ」
掠れた声と同時に、襤褸のような黒い服から真っ白な髪が覗く。少年は水を必要としているらしい。幸運なことに水を出すことは、神使となって以来の得意とすることの一つであった。まだまだ滝のような大量の水を出すのは無理だが、人が飲むほどの量であれば何てことはない。雪乃は杖を小脇に抱えると両手を器のようにして、そこへ水を貯めて少年に差し出す。
少年が驚いたようにそれを見たのはほんの一瞬で、すぐに一心不乱に水を飲み始めた。そして一頻り水を飲むと、ようやく落ち着いたように顔を上げた。
「……ふぅ」
「落ち着きましたか?」
「ああ。本当に助かった。大きな砂嵐で方角を失ったせいで食べ物も水も尽きちまって、死を覚悟したところだった。俺はグエン。アンタは?」
「私は雪乃。あなたの姿を見かけてここまでやって来ました」
「俺の姿を?」
「ええ」
家も町も近くにない上に水を失うというのは、この環境では死を意味するに等しいだろう。グエンはにへらと笑って右手で頭を掻く。
「……ふぅん。そういえば、ユキノだっけ?さっき呼んだかって聞いたよな?」
「ええ。あなたに呼ばれましたから」
「俺に?」
「神を呼んだでしょう?」
「……ははっ!それで、アンタが神サマだとでも言うのか?」
「ええ。そうです」
雪乃は至って真面目であったのだが、少年はさも可笑しそうに笑って雪乃を見た。そしてその表情に冗談という言葉が書かれていないのを読み取って、今度は神妙な顔で雪乃に尋ねる。
「それじゃあ、さっき水を出したのは何だったの?」
「それは私の力です。水が私の属性ですから」
「神サマの?」
「ええ」
滝つぼで死んで生まれたせいなのか、それとも白瀧津姫神の神使になったせいなのか、雪乃は水を扱うことを得意としていた。グエンに差し出した程度の水であれば痛くも痒くもない。それこそ、息をするように水を出すことができるだろう。
「へぇ。じゃあ、神サマ。オルタスまでの道は分かる?さっき言った通り、俺は方角を失っちゃってさ」
「……そのオルタスの近くに泉か何かありますか?」
社まで戻って水鏡を見れば簡単だ。だが、水鏡からグエンに案内することはできない。
雪乃は少し考えて、グエンに水のありかを聞いた。
「あるよ。ここらでは一番大きなオアシスがあるんだ」
「なるほど。それならば、あちらです」
雪乃はすっと杖を持ったのとは逆の手で指し示した。この辺りの地理をよく知っているわけではないが、そこに水があるか分かれば簡単である。水の力を得たおかげで、その気配を読むことができるのだ。
迷いもなく方角を示した雪乃を、グエンは困惑したような表情で見つめている。信じるか否か判断しているのかもしれない。
「でもさ、砂漠の道は分かりにくいんだよね。また迷子になったら洒落にならないから、神サマが案内してくれない?」
「私が?」
「……それとも、こんな下々の者と歩くなんて耐えられない?」
「下々?」
グエンは暗い笑みを浮かべてじっと雪乃を見た。しかし、雪乃はその言葉の意味を理解できずにきょとんと首を傾げた。神になったおかげでどんな言葉も理解できるようになったが、その土地独自の文化や雪乃が知らないものに関しては上手く理解ができないのである。
「だって気付いてるんだろ?俺が北の民だって」
「北の民というのは分かります。あなたはこの辺りの生まれにしては、白すぎますから」
グエンの肌は南の砂漠に生きる者として考えるならば、白すぎた。きっと日に焼けると真っ赤になってしまうのだろうと思わせる色である。だからきっとこの辺りの生まれではなく、北の方の生まれであるだろうことは簡単に推測できた。
「……そう」
「では、行きましょう。それとも、もう少し休みますか?」
「え?いや、もう平気。……いいの?俺、北の民なんだぜ」
先を行こうと歩き出そうとした雪乃をグエンは驚いたように見つめた。
「ええ?私にはたくさん時間があるので問題ありませんよ。それに、あなたの姿にはこの砂漠は辛いでしょうね。急げば日が暮れる前に町に着きますよ。」
「う、うん!」
雪乃には時間がある。
恐らくこの世界が終わるまでの果ての無いような時間だ。今、困って雪乃に助けを求める人に手を貸すことは悪いことではないだろう。アグニストも困った人には手助けするように言っていたはずである。
白瀧津姫神を思い出して穏やかに微笑んでグエンを見ると、グエンは嬉しそうに頷いて黒い装束を靡かせながら雪乃の後に続いた。
しばらく進むと、大きな岩の陰に調度良い日陰があるのを見つけて雪乃は足を止めた。
「少し休憩しましょう。水筒をください。水を入れます」
「ありがとう」
「はい、どうぞ」
「それにしても不思議だな。何の触媒も必要としないなんて。……本当に神様みたいだ」
グエンの水筒に水を入れて返すと、それをまじまじと眺めながら感心したように呟いた。この世界では魔法という概念も存在しているが、それを使うためには様々な道具と素材が必要である。そのため、一つの術を行使するためには入念な準備を必要とする。そのことを考えると、雪乃がいとも簡単に水を出して見せるのは彼にとって信じられないことであるのだろう。
「ええ。まだ新米とは言え、神に連なるものですから。姫神様でしたら、この一帯を湖にするくらい訳無いのですが……」
「……すごいんだな。そうだ、これやるよ」
「これは先ほど植物から採っていた実ですか?」
思い出したようにグエンがぽんと何かを投げて寄越す。手のひらに収まったそれを見れば、真っ赤な植物の実らしきものである。それを見て、そういえばと歩きながら彼が何かを採っていたことを思い出した。
「これを見つけられるのはかなりの幸運の持ち主なんだ。やっぱ、神サマのおかげかな?これはサボテンの果実。中を割って食べると甘いんだ」
グエンは自分が持っていた方の実を半分に割ると、食べ方を示すように大きく口を開けて齧って見せる。それを見て、雪乃も小さく口を開けて恐る恐る齧り付いた。
「……甘い……!」
「そんなに甘いか?」
「ええ。とっても」
グエンに勧められるままに口に含んだサボテンの実は信じられないくらい甘かった。思わず目を見開いて驚く雪乃をグエンは信じられないような目で見ている。きっと彼にとっては何てことない味に違いないのだろう。それでも、雪乃にとっては特別な食べ物だったのだ。
「……じゃあ、これもやる」
「私は食事を必要としませんから……」
「必要としないって?飲まず食わずでも生きていけるって?」
「厳密に言うと、私は生きていませんから。食事を必要としないのです」
「でも、それ美味いんだろ?」
「ええ……。久しぶりに味がするものを食べました」
人の身でなくなって以来、味を感じるのは初めてだった。数百年ぶりの味覚は以前の食事を思えば、ほんの僅かな甘みでしかないのかもしれない。それでもサボテンの実の素朴な甘さが雪乃に力を与えるかのように、急に力が漲っていくようにも感じる。今だったら何だってできるような、そんな感覚だ。
「はは。何だよ、それ。もう一つあるから。それはこの水の礼だよ」
「ありがとうございます」
「なんで神サマが礼を言うんだよ。礼を言うのはこっちだっていうのに」
グエンは水筒を示して照れくさそうに笑みを浮かべる。
「……それじゃあ、神サマ。そろそろ行こうか」
「はい。もう少しで町に着きますから頑張りましょう」
二人は再び歩き出す。雪乃のその歩みに迷いはなく、グエンも疑うことなくその後ろに続いた。
「……すごい。本当にオルタスに着いた」
グエンは呆然と信じられないものでも見るような顔で町を見た。遠くに見えた時にはまだ蜃気楼の可能性があるので彼も信じている様子ではなかったが、それでもこうやって目の前に町が現れるとそれが現実であると理解せざるを得ない。
「オアシスの場所ならば分かりますから」
「うん。そうだったな」
「では、私はこれで」
これで雪乃が頼まれた役目は終わった。グエンをオルタスに送り届けて、あっさりと踵を返そうとしているとそれをネージュが止めた。
「あ!ちょっと待って」
「何か?」
「甘いもの好きなんだろ?お礼に名物の果物を奢る」
「お礼は必要としません」
「俺が気にするの!借りは作らないタチなんだよ。ほら、来て!」
「え?……きゅ、急に引っ張らないで!」
そう言ってグエンは雪乃の腕を掴んで強引に町の中へ雪乃を連れて行く。勝手知ったるとばかりに、町の中での足取りはしっかりとしたもので、目的の場所に向かってまっすぐ進んでいる。
「そっちが素?」
「えっと、あの」
「そっちの方が良いよ!俺には敬語なんていらないし」
「でも、それは、その」
「いいから!神サマなんでしょ?敬語なんていらないって」
「……うん。分かった」
そしてしばらく進んだ先は賑やかな喧騒の中だった。こんな砂漠の真ん中にこんなにも人がいるのかと驚きつつも、物珍しさに周りに視線を彷徨わせる。すると、一人の物売りの男性とばっちりと目が合った。
「――お。グエン、彼女か?」
「んー。今口説いてるとこだから放っておいてくれよ。もう少しで着くから着いてきて。危ない場所も結構あるから離れないで。ユキノなんてあっという間に身ぐるみ剥がされちゃうから」
「う、うん」
「じゃあ、うるさいやつらに捕まらないうちに行こう」
男性はからかうような調子でにやりと笑ってグエンに言うと、慣れたようにそれを流して雪乃の腕を引っ張っていく。
「すごい、人だね。今日はお祭りか何かなの?」
「ははは!違うよ。これがこの町の普通!――おばちゃん、今日置いてる果物を一つずつ!ちゃんと美味いやつな」
引っ張られて歩いている最中もたくさんの人とすれ違う。まるでその光景は雪乃が知るお祭りさながらである。思わずグエンに問えば、可笑しそうに笑い声を上げて首を振った。そして目当ての店の前で止まると、さっさと注文を済ませてしまう。
「うちのは全部甘くて美味しいよ!ほら。嬢ちゃん、持ってきな!」
「……わっ、こんなに沢山!」
グエンの目的地は果物売りの前であるらしかった。グエンに注文された通り、果物売りの女性は店先に並ぶそれを一つずつ雪乃の腕の中に投げ入れる。そしてあっという間に腕の中は、甘い香りのする果物で山盛りとなった。それを両腕で抱えたまま、オアシス側のベンチに座る。ちょうど気の影で日陰になったそこは太陽の日差しも届かなくて涼しい。あまり暑さが得意ではないのであろうグエンも少しだけ前を寛げて一息吐いているようだった。
「オルタスのオアシスは交易の町でもあるんだ。だから、あちこちから物や食べ物が集まる。果物の取り扱いもこの辺りじゃ一番なんだ。この中に知らない果物はある?」
「……全部見たことない」
「ふぅん。嘘を言ってるような顔じゃないな。最初に食べるならこれがおすすめ」
「これは、えっと、どうやって……」
「こうやって、中を割って。ほら」
戸惑う雪乃の目の前でグエンは果物を割ると、その中の一房を手にとって雪乃の口の前に差し出した。しかし、雪乃の両手は果物で塞がっていて受け取ることができない。
「あの」
「ほら。口開けて」
「……いただきます」
「どう?」
「甘酸っぱくておいしい!」
「だろ?」
思い切って開けると、甘酸っぱい果物の果汁が口いっぱいに広がった。これもまた、先ほどのサボテンの実と同様に味を感じることができる。
「ありがとう。でも、こんなにたくさん……良いのかな?」
「いいんだよ。神サマに助けてもらわなかったら、俺は砂漠で干からびるしかなかったんだから」
「……分かった。それじゃあ、私はこれで」
「あ、」
「どうかした?」
「また会える?」
「それがあなたの望みなら、きっと」
「……ありがとう。まだ言ってなかったと思って」
「こちらこそ。こんなにたくさんありがとう。これからのグエンの道が光に照らされていますように――」
それはただ雪乃が思ったままに呟いた祈りの言葉であったはずだった。しかし、果物を食べて力が漲ると感じたのはどうやら現実であったらしい。雪乃の言葉には僅かに力が込められていた。それを人は祝福と呼ぶのだろうという程度には。
そこは日陰であったはずなのに、グエンの身体にキラキラと光の粒が纏わりついた。しかしそれも瞬きをする間に消えてしまうくらいの一瞬の出来事でしか無かったようで、グエンは戸惑ったような顔で雪乃を見ている。
「え?これ?」
「グエンのおかげで新たな力に目覚めたみたい。私の初めての祝福をあなたに」
雪乃はそう言ってベンチから立ち上がると、今までのそれが幻であったかのようにそのまま姿を消した。
そして再び雪乃が足を着いたのは白い社である。
「――力が……」
雪乃しかいない社で、嬉しげな声が響いた。
ただの食べ物には味がない。しかし、同じ食べ物であっても人にもらったもの――供物であれば味のある食べ物になる。そして、それを食べることによって神は力を得ることができるのだ。おそらくは、グエンにもらった果物が供物という分類になったのであろう。前までは一度に出せるのは大きな桶一杯の水程度だったのに、今ではお風呂の水くらいなら楽々と出せそうなくらい力が満ちている。
きっとこれは、雪乃が神としてレベルアップしたということに他ならないだろう。
雪乃はそのまま齧れそうな果物をしゃくりと食べながら、再び水鏡の前に立つ。そして大きな杖をゆっくりと回しながら、再び世界を見守る。どこかで神を呼ぶ声が聞こえる気がした。