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「――ははッ!あははははッ!」
雪乃とニーグがイリアの案内で村の広場までやって来ると、そこには大きな水の塊を宙に浮かせて不自然に笑う青の教団の司祭、エイベルが居た。エイベルは先ほどまでの理知的な姿とは打って変わって、まるで人が変わったように笑い声を上げている。それはまさに彼が狂ってしまったようにしか見えない姿だった。
「何があったの?イリアは見た?」
「はい。あの、何かを唱えて術みたいなものを使おうとしたと思ったら、急に体を大きく震わせて苦しみ出して。そしてしばらく黙りこんで、今度は杖が眩しく光って何もないところから水を出して笑い始めたんです」
「……分かった」
イリアはずっとエイベルの後を着けていたので、その時の様子を難なく説明した。どうやら急に今のように様子がおかしくなってしまったようだが、その説明を聞いて雪乃はうんと頷く。
「何かお分かりですか?」
「うん。これは精霊の暴走とでも言えばいいかな。あの杖が精霊の力に耐え切れなくなったんだと思う。見て、杖の先に付いている石が割れているのが分かる?」
雪乃はニーグとイリアに示すようにエイベルが持つ杖を指で指した。二人は雪乃の手の動きに沿ってエイベルの杖を注意深く目を凝らして見つめる。
「確かにさっき見たときは綺麗な青い石だったのに、亀裂が入っているように見えます」
「そうなの。多分あの人はよほど大きな力を使おうとしたんだね。だけど、その力に石の方が耐えられなかった。だからあの杖の要である石が割れて、中にいる精霊を留めて置くことができなくなって暴走してしまったんだと思う」
杖を見ていたイリアが気付いたように口にする。その返答に雪乃は頷いて細かく説明を始めた。
すでに多くの技術や知識が失われ、アグニスト教では精霊術に関する知識は薄い。二人に説明してやれば、二人は難しい顔で雪乃の話をじっと聞いている。
「――あの司祭に意識はあるのですか?」
「それは、どうかな。多分、意識を乗っ取られているんじゃないかな。一応この村を救おうとした人間が、あんな風に力を使おうとするっていうのはありえない気がするし……」
ニーグは同じ神官として気になるのだろう。もし彼が善意でここへ来て何とかしようとしていたのに、その力を使って村を滅茶苦茶にしてしまうなんて考えただけで悲しい。
「何かお考えがおありなのですか?」
「一応ね。さっきの祠の石、重かったでしょ?大丈夫?」
「いえ。これくらいならば」
「ありがとう。私の方に見せて」
「はい」
先ほどの祠からこちらに来る際にニーグには石を持って来てもらっていた。先ほどまでしっかりと石全体に入っていた亀裂は半分ほどまで消えている。
「――起きて。あなたはもう意識があるはずでしょう」
雪乃はまだ残っている亀裂に指を這わせながら、眠っている人を起こすように語り掛ける。そして石の亀裂が完全に消えたところで、石がつるりと綺麗な形に整った。まるで誰かに磨かれたかのように。
「……あなた、だれ?」
その声は幼い子供の声だった。まだ眠そうなぼんやりとした女の子の声である。
「姿を見せて。大丈夫。あなたならできるはずだから」
石に向かって雪乃が勇気付けるように囁けば、ふんわりと発光した後にこの地方の古い民族衣装を身に纏った小さな女の子が三人を見上げていた。
「この女の子は……まさか」
「静かに……!」
突然目の前に現れた幼い少女の姿にイリアは驚いたように声を上げた。それをニーグが制して、二人は静かに雪乃たちの様子を見つめた。
雪乃はその場に屈んで少女に視線を合わせると、優しく問い始める。
「私はアグニスト様に命じられし守り神の雪乃。あなたの名前を教えてくれる?」
「なまえ……リリスの水石」
「それがあなたの名前なのね?」
「なまえじゃない。でも、わたしをここにおいた人がそうよんだ」
「じゃあ、あなたの名前は今日から水神のリリス」
名前を尋ねれば、少女は少し困った顔を浮かべて答えた。恐らくそれは術具としての名称なのだろう。もしかしたら、リリスと言うのもここに水を施した術者の名前なのかもしれない。だが、今はそんなことは分からないし、知りようもない。付喪神たちの名前は道具としての名前を使うことも多いので、あまり大した問題ではないだろう。雪乃はそう思って、彼女にその名前を付けた。
「わたしの名前……リリス!嬉しい!ユキノ様がつけてくれた!リリスの名前!」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
雪乃の周りを跳んだり跳ねたりしながら喜びを爆発させている姿はまさに少女の姿に似つかわしい。思わず笑顔になりながらリリスをひと時眺めていると、ニーグが慌てたように声を掛けて来た。ふと気付けば、広場の周りでも僅かに残った村人たちが何事かと空を見上げている。
「ユキノ様、水の塊が大きくなってきているように見えるのですが……」
「そうみたいだね」
「どうなさいますか?」
「うーん、どうしようかなぁ」
「ゆ、ユキノ様!逃げましょう!ニーグ様!」
「私は村人に非難するように言って参ります!」
ニーグが言う通り、エイベルが掲げる水の塊は先ほどよりもさらに大きくなっていた。住宅数軒分はあろうかというほどの大きさである。きっとそれが落ちてきたりしたら水浸しで済むどころか建物は壊れ、怪我人が出ることは間違いないだろう。
雪乃はそれを見ながら自身の残りの力を照らし合わせるが、目の前のリリスに大分明け渡してしまったために心もとない。どうしたものかと考えていると、イリスとニーグは焦ったように雪乃に言ってきた。
「――ユキノ様はアレが邪魔なの?」
「邪魔というか、ちょっと困ってるって感じかな」
すると周りで跳ねていたリリスが立ち止まって小首を傾げて雪乃を見た。雪乃が困ったように頷いて返せばリリスは再び質問を重ねる。
「アレなくなったら喜ぶ?」
「うん?それは助かるけど……」
「分かった!」
リリスはそう言ってにっこりと無邪気に笑うと、エイベルに向かって両手を翳した。そして目の前に広がっていたはずの水の塊は忽然と消え失せたのである。
「ユキノ様喜んでくれた?」
「そっか。ここではリリスが土地神だから、生まれたての神でもリリスの方が上位なんだね。リリス、ありがとう」
「えへへ!」
雪乃に頭を撫でられて、リリスは嬉しそうにされるがままになっている。リリスは生まれたばかりの神であるが、この土地の土地神でもあるのでこの村での強制力は強い。そのために、強い力を持つ精霊に対してもその力を吸収してしまえたのだろう。
「――それじゃあ、精霊を解放しに行こうか。あの様子を見るに、力は使い果たしてるはずだよ」
「はい!」
視線の先には杖を頼りに何とか体を起こして、肩を上下して激しく呼吸をしているエイベルの姿があった。すでに力を使い果たしたようで、水は消えて杖の先に付いた石も濁ったような色に変わっている。これならば人間の二人が着いて来ても問題ないと判断して、二人を連れてエイベルに近寄った。




