13 白の少年
もう記憶の片隅に追いやられてしまったその場所は、一年の大半を雪で覆われ白に染められた土地だった。
北の民と呼ばれるのは、俺たちが北の雪に閉ざされた土地でひっそりと暮らしているからだ。一概に北の民と言えども、その種族は様々である。ただどの種族も一般的な人間と違い、体のどこかに獣に似た特徴を持っていた。犬や猫、狐や羊、それから熊や蜥蜴まで様々な種族がいたと思う。
俺はその中の雪犬と呼ばれる種族に生まれた。白い髪と犬のような三角の立ち耳、頭と同じ色の豊かな飾り毛の尻尾。それが雪犬一族の外見的な特徴である。そして他の北の民と同じように聴覚や嗅覚、敏捷性や筋力も人間よりも圧倒的に秀でていた。
あれはもう何年前のことだろうか。まだようやく五才になったばかりの頃だったのかもしれない。
俺は両親に一人で出歩くことを許されるようになったばかりで、明らかに浮かれていたのだろう。そこを人拐いに狙われたらしい。
呑気に森で遊んでいたところを薬で眠らされ、気が付いた時には雪のない緑と茶色の景色が小さな瞳に写っていたのである。
しかし子供とは言え、誇り高き雪犬一族の男だった。どうにか逃げ出し売られることは免れたものの、逃げ出した頃には幼い少年にはもう故郷の場所は分からなかった。それだけ遠くの土地まで連れて来られていたのである。
そして、その日から一人で生きることとなった。頼れる父と優しい母、明るい妹はもういない。しかし、子供と言えども普通の人間よりも身体能力が優れていたことが助けとなった。砂とオアシスで囲まれ交易で栄えた町で、優れた耳と鼻を頼りに道案内人として働き始めたのである。
「――俺、死ぬのかな」
ぽつりと漏らした言葉に返してくれる人はいない。強い日射しを避けて岩陰に身体を横たえたものの、よく聞こえる耳に届く音は風で砂が滑る音だけである。
その日、俺は新たに仕事の範囲を広げるために今まで行ったことのない砂地へ足を伸ばしていた。だが、それが間違いだった。
少しだけのつもりが、慣れが慢心を呼んだ。後少し、後少しと歩いているうちに完全に道を失ったのである。こうなってしまうと、歩けば歩くほど体力も気力も失う。気が付けば水もなく、近くに水の匂いも草木ない。あまり人が足を踏み入れない場所を歩いていたせいもあって、最早絶望的な状況だった。
「かみ、さま」
朦朧とした意識の中でぽつりと呟いたのは祈りの言葉。だが、それは誰にも届くことなく消えるはずだった。
「あなたが私を呼んだ人ですか?」
「……み……ま……?」
瞬きを一つ。朦朧とはしていたが、時間にしてそんな僅かな時間だった。
先ほどまでは人どころか、獣一匹、草の一本も存在しない砂漠。確かに人の気配も生き物の気配もなかったはず。
目の前には真っ直ぐの黒髪を片方に流した若い女。年齢は俺より少し上くらいだろうか。容姿は至って平凡であったが、彼女が着ているものは明らかに普通ではなかった。大きなオアシスの側にあるオルタスは交易の町で、多種多様な文化を持つ人の出入りがある。だから俺も色々な服を見たことがあった。それなのに、この人の服は一度も見たことがない形だったのである。何の色も持たない真っ白な布というだけで高価なのに、それを幾重にも重ねた不思議な形。暑くないのかと疑問だったが、彼女は平然としている。
「どうしました?」
色々疑問に思っていることも驚いていることもあったが、それよりも欲しているものがあった。
「み、ず……」
「清廉なる恵みよ――どうぞ」
彼女が手のひらを差し出すと、そこへ透明な液体が現れる。それに驚く間もなく、彼女に差し出されたそれを夢中で飲んだ。
そして彼女――ユキノが案内してくれるままに後を着いて行った。
どこか素っ気ないような態度に彼女が北の民である俺を厄介に思っているのかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。彼女の態度に他意はなく、北の民に対しても思うところはないらしかった。
途中、俺が渡したサボテンの実を嬉しそうに食べて笑顔を浮かべる。すごい魔法を使って、神様だと名乗る彼女。
もしかして、本当に?――そう思う頃に、見慣れたオルタスに着いて呆然としてしまった。
「……すごい。本当にオルタスに着いた」
「オアシスの場所ならば分かりますから」
表情は少ないが、その言葉はどこか自信に満ちている。そんな彼女がおかしくて、つい笑いを溢しながら頷いた。
「うん。そうだったな」
「では、私はこれで」
「あ!ちょっと待って」
「何か?」
この町に用は無いとばかりに、彼女は町を目前としたところでくるりと踵を返した。この暑い砂漠にまたその厚着で戻ろうとでも言うのだろうか。
それをそのまま見送るでもなく、気が付くと俺の手は彼女の手をしっかりと掴んでいた。
「甘いもの好きなんだろ?お礼に名物の果物を奢る」
「お礼は必要としません」
「俺が気にするの!借りは作らないタチなんだよ。ほら、来て!」
「え?……きゅ、急に引っ張らないで!」
そう言って引っ張って歩くと、ユキノは困ったような顔をする。そんな彼女を見るのが何故だか楽しかった。
「そっちが素?」
「えっと、あの」
「そっちの方が良いよ!俺には敬語なんていらないし」
「でも、それは、その」
「いいから!神サマなんでしょ?敬語なんていらないって」
「……うん。分かった」
にかっと笑ってユキノを見れば、彼女はまた困った顔をしつつも小さく頷いた。そうやってオルタスの喧騒の中を歩いていると、見慣れた顔の出店の親父が楽しげな顔でユキノを見る。
「――お。グエン、彼女か?」
「んー。今口説いてるとこだから放っておいてくれよ。もう少しで着くから着いてきて。危ない場所も結構あるから離れないで。ユキノなんてあっという間に身ぐるみ剥がされちゃうから」
「う、うん」
「じゃあ、うるさいやつらに捕まらないうちに行こう」
街の規模が大きく、人の出入りの多いオルタスは俺のように流れ着いてやってくる人間も当然多い。だが、やって来た人間が全てこの街の恩恵を受けて豊かに暮らしていけるかと言えば、当然ながらそうではない。そして仕事にありつけなかった貧しい人間が最後にすることは、大体が犯罪だ。オルタスも一見すると賑やかで楽しい町だが、表通りから外れた小さな裏通りには女や子供は近付かないのが暗黙の了解である。もし裏通りに女や子供が居たとしても、決して近づいてはいけない。親切心のつもりで身包みを剥がされるのが目に見えるからだ。
「すごい、人だね。今日はお祭りか何かなの?」
「ははは!違うよ。これがこの町の普通!――おばちゃん、今日置いてる果物を一つずつ!ちゃんと美味いやつな」
「うちのは全部甘くて美味しいよ!ほら。嬢ちゃん、持ってきな!」
「……わっ、こんなに沢山!」
彼女の腕の中では沢山の種類の果物が零れ落ちそうになっていた。色とりどりのそれたちは色々な場所からこの街へとやって来た交易品である。だからこの辺りでは見たことないようなものですら普通に店に並んでいた。尤もそれも金さえ出せればであるが。
随分と軽くなった財布をしまい、ユキノを見れば色鮮やかなそれに驚きつつも目を輝かせていた。そんな彼女を近くの日陰のベンチまで連れて行って、そのまま座らせる。日陰に入ると少し暑さがゆらいで、俺は小さく息を吐きながら真っ黒な服の首元を僅かに緩めた。
「オルタスのオアシスは交易の町でもあるんだ。だから、あちこちから物や食べ物が集まる。果物の取り扱いもこの辺りじゃ一番なんだ。この中に知らない果物はある?」
「……全部見たことない」
「ふぅん。嘘を言ってるような顔じゃないな。最初に食べるならこれがおすすめ」
「これは、えっと、どうやって……」
「こうやって、中を割って。ほら」
神であると言いつつも、本当はどこかのお嬢様かと思っていた。いや、多分分かっていたけど信じたくなかったのかもしれない。
「あの」
「ほら。口開けて」
ほらと言って果物を割ってユキノに差し出したが、彼女の手は果物で埋まっていてそれを受け取ることはできなかった。そう言えば袋を貰わなかったなと思いつつ、彼女の口にそれを差し出す。
「……いただきます」
「どう?」
「甘酸っぱくておいしい!」
「だろ?」
恐る恐るそれを口にした彼女は本当に嬉しそうに頬を緩めて笑った。さっきまでの無表情とは大違いの笑顔である。
今食べた果物はそれほど高価なものではなく、一般的に出回っている種類のものだ。それなのに彼女は初めて食べると微笑む。思わず彼女から顔を背けると、彼女は困ったような声色を出した。
「ありがとう。でも、こんなにたくさん……良いのかな?」
「いいんだよ。神サマに助けてもらわなかったら、俺は砂漠で干からびるしかなかったんだから」
「……分かった。それじゃあ、私はこれで」
「あ、」
引き止めるように声が出ていたことに、ユキノがこちらを見たことで気付いた。
「どうかした?」
「また会える?」
「それがあなたの望みなら、きっと」
思わずそんなことを聞いていた。まるで軽いナンパみたいな台詞である。でも、そんな台詞にもユキノは透明な声で頷いた。
「……ありがとう。まだ言ってなかったと思って」
「こちらこそ。こんなにたくさんありがとう。これからのグエンの道が光に照らされていますように――」
ユキノが祈るように呟くと、俺の体にきらきらと光の粒のようなものが纏わり付く。暑いわけではないが、温かい。何かに包みこまれるような、そんな不思議な感覚であった。光が現れたのは恐らく一瞬のことで、戸惑っているうちにそれは収まったらしい。
「え?これ?」
「グエンのおかげで新たな力に目覚めたみたい。私の初めての祝福をあなたに」
ユキノはそう言って微笑むと、そのまま姿を消した。それが、彼女が人ならざるものである何よりの証拠であったのだろう。
さっきまで手が届く距離に居たはずの彼女がそこに居た形跡は少しも残されていない。まるで初めから何もなかったかのように。
あれから十五年の年月が過ぎた。
砂漠の案内人として細々と暮らしていた私は巡回の神父に女神の加護を見出され、オルタスからソルノディオと住処を変えた。まだ年齢的には子供であり、常識や学力が圧倒的に不足していた私は孤児院でしばらく学び、そしてその後はいつかの神官の口利きでアグニスト教神官としての道を歩み始めることとなる。そして神官として生きることとなった時に、私の名前はニーグとなった。
「――お呼びでございますか。神官長」
「ユニスで良いですよ。今は二人だけですから」
「それで用件は何でございますか。神官長」
「……はぁ。昔はあんなに可愛かったのに、男の子はダメですね。可愛げがなくなってしまって」
しょんぼりと肩を落としたのは、いつかの巡回の神父である。今はアグニスト教の神官を統べる立場になったというのに、その気安さはあの頃と変わらない。それでも、信徒の前に出ると立派に神官長をやるのだから不思議なものである。
「分かりましたから、何が用事があってお呼びになられたのでしょう?」
「そうでした。実は神託が下りたのです」
「それは私がお聞きしてもよろしいものですか?」
神託は神官長にのみ聞こえる神の言葉である。私たちが信じるアグニスト様のそのままの声が聞こえるらしい。その内容は様々なもので、上位の神官であるとは言え聞いて良いものだろうかと聞き返した。
「はい。あなたにも関係があることです。――近く、女神様がご降臨なされます」
含みを持たせるように神官長は笑みを浮かべてニーグを見た。その言葉の内容にぶわっと尻尾の先の毛までが逆立つような感覚を感じる。
「女神様、ですか?」
「ええ。女神様の名はユキノ様。この大地の守り神となられた方です。そしてそれに当たって、女神様の手足となる人間が必要です」
「……はい」
「この仕事をニーグ、あなたに任せます」
「それは……本当に?」
「はい。しっかりとお仕えするように。あなたであれば何の問題もないでしょうが」
思わず聞き返せば、神官長は確かに頷いた。悪い冗談かとも思ったが、彼はこの種類の冗談を言うような人間でないことは長い付き合いの自分が一番よく分かっている。
いつか彼女は言った言葉を思い出していた。私が望むならまた会えるだろうと。
あれから十五年、確かに私は仄暗い道から光に照らされた道を歩いてきた。道を踏み外しそうな時も、照らされた道をなんとか踏みとどまって来たのだ。再び会うときに恥ずかしくない人間であるように、と。
「――しっかりとお仕えさせていただきます」




