12
雪乃は一つ大きく息を吸った。
「あなたがこうして元気にしていることはとても嬉しいです。でも、私はあなたと共に行くことはできません。ガイウスは今を生きている人ですが、私は生きている人間ではありません」
「それでも!」
「あなたは共に歩める人と一緒に生きなければなりません。それが私の願いです」
「……そうか。分かった」
ガイウスはうんと頷いて、晴々とした笑みを浮かべて顔を上げた。そこで、ガイウスの背後からそっと男の声が届いた。それまで誰もいないかのように存在感が希薄だったために、急に現れたかのように見えたくらいである。
「――陛下」
「ディノか」
「はい。そろそろお時間でございます」
「もうか。早くないか?」
ディノと呼ばれた男はガイウスの部下か何かなのだろう。恐らく近しい存在であるらしく、ガイウスは気安い調子で顔を顰める。だが、ディノもそんなガイウスの様子には慣れているのか淡々とした調子で言葉を翻す様子も見せない。
「何をおっしゃいます。急な出立でご政務は溜まっておりますよ」
「そうか?」
「そうでございます」
「分かったよ。――という訳だ。また来る」
話が終わったかと思うと、ガイウスはにっと笑って雪乃に向き合った。しかし、最後に言った言葉が理解に苦しむ。
「え?だから、私は」
「分かったとは言ったが、諦めるとは言ってないだろう?ではな。俺の女神。――せいぜい俺の女神を大切に守ってくれよ。犬っころ」
「それでは、ユキノ様、ニーグ様。陛下のお相手をしてくださり、ありがとうございました。ユキノ様におかれましては、またお目にかかることができて大変光栄でございます。どうぞ健やかにお過ごしくださいませ」
「は、はい。ありがとうございます」
「それでは失礼致します」
しっかりと否定しようと口をを開きかけた雪乃を止めたのはガイウスだ。ガイウスは自分の言いたいことだけを言い切って、満足したようにそのまま踵を返して歩いて行ってしまう。その姿は堂々としたもので、やはり一般的な服を着ていようとも庶民になんて見えそうにもない。呆気に取られつつも、うっかり笑ってしまうのも無理はなかった。
「不思議な人だね。ガイウス、か」
「犬……か」
「ニーグ?」
くすくすと笑いながら横に立っているニーグを見上げれば、ニーグは顔を顰めてため息を吐いていた。ガイウスとニーグの相性は、お世辞にもあまり良いとも言い切れなかった。だからそのせいかとも思ったが、その表情はどこかそういうものとは違うように見えて首を傾げる。
「あ、いえ。何でもございません」
はっと我に返ったようにニーグは少し頭を振って、雪乃を見た。少し違和感が残るものの、それをそのまま流して雪乃は話し始める。
「そう?あの人、懐かしい気配がした。今日会うまで気付かなかったけど、多分あの人なのかな」
「あの人?」
「昔、怪我の手当てをしたことがあると思う。たまたま水鏡で下界のことを見ていたら傷だらけの男の人を見つけてね」
初めに謁見した時には気付かなかった。こちらに来たばかりの頃は誰の顔も同じように見えていたし、前と今ではその雰囲気がまるで違った。恐らくそれは年齢を重ねたせいだけではなく、彼の十年間の積み重ねで変わったものだろう。少なくとも、昔の彼は今のように王者の風格を感じるような威圧感は無かった。まだ少年から青年に片足を踏み入れたくらいで、まだどこか幼さも残っていたくらいである。
「そんな。危険でございます。近くにまだその者を害した者がいないとも限らないでしょう」
「視える範囲に人の姿も無かったから、近くの山小屋に引き摺っていってしばらく治療してたの。最後に少し話したときにちょっとした加護もつけたと思う。その加護の力が懐かしい感じがしたのかな?」
「なっ……!」
「ニーグだったら傷だらけの人を見ても無視をする?」
「……きっと私にできる範囲で手当てをするでしょうね」
「だよね」
ニーグは顔をさっと青ざめて、昔の話だと言うのにまるで叱るように詰め寄った。そんなニーグにくすくすと笑みを零して聞き返せば、ニーグは不服そうに顔を顰めて納得いかないように言う。
「しかし、私とユキノ様を同じく考えてはなりません!」
「危険なんてないよ?私も考え無しに行ってるわけでもないし」
「それでもです。とにかく、これからはお気を付けくださいませ」
「次はね」
「次がないように、お祈りしております」
「分かったから」
そう言って笑えば、ニーグは安心したように頷く。そんなニーグにくすりと笑みを浮かべて、そのまま雪乃は公園を歩き出す。
「雪乃様」
「何?……ってニーグ?」
名前を呼ばれて振り向いた先にはいつもすっぽりと被ったフードを下ろしたニーグが居た。すっかり見慣れたニーグの顔ではあるが、その姿を見て思わず驚いて言葉を失う。
「いつか気付いていただけるやもと思っておりましたが。こうして姿を晒せば、お気づきになっていただけるのでしょうか?」
「その耳……あなた、グエンなの……?」
いつも神官服のフードを深く被っているので、覗き見えるのは彼の整った面立ちと髪の色くらいで、彼の耳を見る機会はなかった。
しかし、こうしてフードを下ろした彼の頭の上には三角の一対の耳がきれいに並んでいる。それは彼が北の民と呼ばれる獣人の一族であることを示しているということに他ならない。
「北の民の一つ、雪犬一族が私の出身です。私の生まれ持った名前は神官となった際に捨てました。しかし、砂漠の地であなた様に助けていただいたことは忘れることはありませんでした」
ニーグはそう言って優しく微笑んで続ける。
「ユキノ様が私に祝福をくださいました。その日から私の生活は一転したのです。旅の神官に拾われ教会直営の孤児院に入り、そして力を見出だされて私も神官になりました。これも、あの時ユキノ様に出会えていなかったらありえないことでしょう。ユキノ様は私が光の道を歩めるように祈ってくださいましたね。そのおかげで、私は光の加護が付いているらしいのです。これは私が子供の頃に神官が視てくださったので間違いありません。本当に感謝してもしきれません」
「そんな、私は何も……」
確かにニーグ――グエンに雪乃の初めての祝福を送ったが、初めてだったこともあり、そう大きな効果をもたらすようなものでは無かった。そもそもそんな力も持っていないが、思わず言い淀んでニーグを見る。
言われてみれば確かに懐かしい空気を感じる。もしかしたら神殿に降り立った時に感じた懐かしい気配もニーグのものだったのかもしれないと、この時ようやく気付いた。
「あの日ユキノ様にお会いできなければ、私はあのまま死んでいたかもしれません。もし助かっていたとしても今頃どこかでの垂れ死んでいたでしょう。本当に感謝してもしきれません」
「ニーグ……。良かった。あなたにまた会えて、本当に良かった」
あんなに小さかった男の子が、いつの間にか大人になって雪乃の前に立っている。
人の時間は早い。だが再び会えたことが何より嬉しく、成長したニーグを目を細めて重ね見た。
「はい。私も大変嬉しく思います。あなた様はあの日から少しもお変わりありませんね。それが、あなたが神であらせられる何よりの証拠なのでしょう」
ニーグはそう言って寂しげに微笑んだ。




