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11 ある王子の追憶

「――大丈夫ですか?」


 まるで靄が晴れるように、朦朧とした意識に声が届く。その声に導かれるように、ゆっくり瞼を抉じ開けると、目の前には一人の若い女がいた。


「くっ……っ」

「無理して動かない方が良いです。応急処置はしましたが、酷い怪我です。この怪我では体を動かすのも辛いでしょう」


 どうにか起き上がろうとしたものの全身に痛みが走る上に体は鉛のように重く、腕で支えて起きることすら出来ない。すると、女は俺が起き上がるのをやんわりと制してそのまま寝かせた。


「……ず」

「水ですね?頭を少し上げますよ」

「……あなたは?」

「まずは体を休めましょう。大丈夫。ここに危険はありません」


 その声は優しく、女神の調べのようだった。そのまま誘われるように再び瞼を閉じる。久しぶりに良い夢が見られそうだった。

 そしてそれから、幾日が過ぎた。意識はまだ朦朧としてたが、夢うつつに全身の怪我の痛みに唸る俺を女は献身的に看病していたことは何となく覚えている。そんな数日を過ごし、怪我から出る高熱が引いた頃、俺の意識も晴れた。


「起きられましたか?」

「ああ。俺は……」


 意識を取り戻して、ようやく自分が居る場所を確認出来た。恐らく、使われていない山小屋か何かなのだろう。全体的に古い上に最低限のもの以外は何もなく、俺が寝ているのは枯れ草にシーツを敷いただけのものだった。簡素な暖炉にはお湯の入ったやかんが吊るされており、それがシュンシュンと音を鳴らしている。

 それから視線を動かせば、小屋の中にもう一人いることに気が付いた。若くはあるが、黒い髪のせいか地味な印象の女だ。


「この森で倒れているのを見つけたんです。人手が無いのでここに運び、怪我の手当てをさせてもらいました」

「それで。それにしても、怪我の治りが早いような……」


 なるほどなと納得しつつも、傷の治りが思っていたよりもだいぶ早かった。一度死を覚悟したと言うのに、そんな大それた傷は見当たらない。まだ体を動かないのは辛いが、それでも起き上がれないほどではなかった。


「あなたには私の薬がよく効いたみたいですね。何か食べられるなら食事を。簡単なものばかりですが、何か食べないと」


 女はそう言って立ち上がると、手際よく食事の準備を始めた。女が言うのは正論である。だが、俺には女のそれが胡散臭く見えて仕方無かった。目の前にあるものは全て疑って見る。それのおかげで俺はこの年まで生きてこられたのだから。


「……なぜ?」

「なぜ助けたか、ですか?それは目の前に、傷付いている人間が入れば助けます」

「あのまま放って死なせてくれれば良かったものを。俺を助けてお前に何の得がある?」

「得はあるかもしれませんね」


 女はそう言うと笑いもせずに首をかしげた。


「……何が狙いだ?」

「狙われるようなものがあるんですか?」

「……もう無い」


 もう何も残っていなかった。俺の側に誰も残っていない。それが、全てを物語っているのだ。俺は敗者だった。

 罠を張られ、王位争いに負け、城からも逃げ延びた男。ここに来るまでに一緒にいた部下たちは、一人、また一人と散った。俺だけが生き永らえていることに、一体何の意味があると言うのだろうか。


「そうですか。それじゃあ、これを食べてください。その後、傷を見ます」


 女は淡々とした調子で言って、俺に匙を押し付けた。俺もそのまま無言でそれを口に運び、胃に入れる。城にいた媚びへつらう、淑女と名ばかりの女共の誰よりも何故か心地よかった。


 一緒に過ごすうちに女はユキノと聞き慣れない名前を告げた。しばらくは上体を起こすのが精一杯であったが、味のほとんどしない野菜スープのようなものもいくらか栄養はあったらしい。しばらくして、立ち上がることができるくらいに体は回復していった。まだ剣を握れるほどではないが、それすらももう間もなくのことだろう。

 そんなある日。薄い板が立て掛けているような扉を力強く叩く音が小さな小屋に響いた。思わずほとんど置物と化していた剣の柄に手を伸ばすが、ユキノはゆるゆると首を振って何の確かめもせずに扉を開ける。


「はい」

「あの、失礼ながら、このあたりで二十歳前後の負傷した男性を見かけませんでしたか?肌の色は褐色で、髪は金色なのですが」

「それなら……」


 ユキノが扉の前で話をしていたのは若い男の声だった。どこか焦ったような調子で、急ぐように言葉を紡ぐ。しかし、そんな男の声もどこか聞き覚えがあった。そんなことを考えていると、ユキノが扉の前から体を横にずらし、男が小屋の中へ足を踏み入れた。


「――殿下!」

「……ディノ。お前、生きていたのか」

「それはこちらの台詞ですよ!殿下の行方が知れず、まさか討たれてしまったのかと、私達は……!」


 目の前に現れたのは、死んだと思っていた腹心の部下だった。幼少より行動を共にし、いつも側で仕えてくれた仲間。本当の家族よりも家族のように大切な親友でもある。


「心配を掛けたな」

「全くです。反撃の準備は整っております。いかがなされますか?」

「聞くまでもないだろう?」

「はい。かしこまりました。では私は外で待っている者に伝えて参ります」


 ディノはそう言うと、踵を返して小屋から外に出ていく。それを見送って、俺はユキノに向き合った。


「ユキノ。共に来ないか。普通では味わえない贅沢な暮らしをさせてやるぞ?」


 死にかけたと言えども、王族だ。普通の庶民ではできないような暮らしは十分にさせてやれる。こんな今にも朽ちそうな小屋よりも、ずっとずっと贅沢な暮らしは出来るだろう。


「気を付けて。まだ、体は万全ではないのですから」

「側で見守るつもりはないんだな?」

「はい」

「――殿下。急ぎましょう。追手に気付かれます」


 しかし、ユキノの答えは否だった。俺の体を心配しつつも、側に居るつもりはない。粘ろうにも、ディノが急かすように声を掛けてくる。

 粘る?何故だと思いつつも、ざわざわと胸が騒ぐのを止めることはできない。


「まだ、頬の傷が。傷薬を」

「いらん。男前になっただろう?これまでのこと、感謝する。これを」

「これは……。こんなもの、困ります」


 何故そうしようと思ったのかは分からない。でも、唯一身に付けていたピアスの片方を押し付けるように渡す。やっぱり迷惑そうな、困った顔をしているが、それすらも可愛かった。


「また来よう。全てが終わったら迎えに来る」

「お断りします」

「それでも探す。ユキノみたいな女は二人と居ないだろうからな」


 その後はディノに再び急かされて、万全ではない体で馬に乗って走った。

 兄を討ち、姉の不正を暴き、そして戦場を掛け抜けた。いつの間にか城は風通しの良い場所となり、王国だった場所は帝国に変わったのは何年前のことだったのか。

 あの小さな小屋を出てすぐ、ユキノのことを部下に訪ねさせたが、そこはただの古い小屋でしかなかった。すでにユキノの姿も痕跡もなく、近隣の村に聞いてもそんな女のことは知らないと口を揃える。

 十年という月日が経ち、あれは幻だったのかと思い始めた頃だった。


「アグニスト教に女神が降りた?ディノ、あそこは男神だろうが」


 神なんてものは信じていない。だから、ディノが話し始めたことにも鼻で笑ってしまった。国としての体裁のために帝国の国教はアグニスト教と定めているが、それは信仰している人間が多い、それだけのためである。


「はい。そうなのですが、その女神は黒髪の若い女の姿をしていて、その名前は『ユキノ』と言うそうです」

「……行くぞ」

「ソルノディオです。親書は送ってあります」

「そうか。ソルノディオか……」


 あの日々の出来事は幻か、それとも現実だったのか。ただ、一つだけになったピアスは変わらずに耳に飾られていた。

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