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 雪乃がゆっくり瞼を開くと、朝日に照らされた天井が瞳に写った。眠るという習慣が無くなって数百年が経つが、人の暮らしに馴染んできたということかもしれない。神殿に来たばかりのことは全く眠りを必要としなかったが、最近では夜になると自然に眠くなる。特にすることが無い日はそのまま眠気に身を任せることも多い。

 そんな雪乃がまどろみから覚醒するタイミングを見計らったかのように、雪乃の部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「――ニーグです。入室してもよろしいでしょうか?」

「大丈夫。どうぞ」


 ささっと服の乱れを整えると、そのままニーグに声をかける。

 いつものように僅かな果物と水を盆に載せたニーグが部屋へ入ってくるが、その小脇には見慣れないものを抱えていた。


「失礼致します。こちらは新しい水と、ユキノ様への手紙を預かって来ております」

「ありがとう。手紙?……って、これ」

「はい。ガイウス帝からでございます」

「うん。断わっといて」

「かしこまりました」


 手紙には予想通り、再びの謁見を求める内容が書かれていた。だが、彼に会う理由はもう無い。元々、神が人にそう簡単に顔を見せることの方がおかしいのだ。その成り立ちのこともあり、雪乃は人間に近い存在である。だから人も雪乃の存在を認識し、見ることができるが、これがアグニストであれば人はその姿を見ることも叶わないだろう。

 雪乃が断わるようにニーグに伝えれば、ニーグはそのまま異言はないとばかりに粛々と頷いて手紙を預かった。


「ニーグ。今日は外に出てこようかな」

「……そうですね。それが良いかもしれません。ここ数日、ずっと部屋に篭り切りでございましたから」


 基本的に神殿内は自由に歩いている雪乃であるが、ガイウス帝が滞在している今は鉢合わせする可能性を考えてそれを控えていた。それをよく知っているニーグも少し考えて頷く。


「それなら早速出かけようかな」

「では、神官専用の通路を案内致しましょう。万が一、顔を合わせるやもしれません」


 そして雪乃はニーグに伴われて、こっそり神殿の外に出ることに成功したのであった。

 神官専用の通路は一見してそこに扉があるとは思えないように隠されて作られていて、たくさんの聖書が保管されている小さな小部屋に扉はあった。本棚の細工を弄ると、びくともしなかった本棚が横に動いて細い通路の出入口が現れるのだ。人がようやくすれ違えるかどうかという程度の広さで、光の届かない暗い通路である。たまに人の出入りがあるらしく、通路はそれなりに綺麗だった。背の高いニーグが窮屈そうに体を屈めて歩く後ろを雪乃も続く。

 そして町に出てみると、そこはガイウス帝が来ていることなど知らないようにいつも通りの賑やかな町の風景が広がっていた。出店を冷やかしながらニーグと町を歩いていると、一つの店の前で足が止まる。


「あら!神官様!」

「女将さん?」


 その声に顔を上げると、そこに居たのはイリアの母である宿屋の女将だった。宿屋とは言っても、ここから離れた場所にある小さな町のそれである。ソルノディオの出店の女将ではないはずだった。驚いて見れば、彼女も驚いたようにしながらニーグと雪乃の顔を見つつ大きく頭を下げた。


「先日は本当にありがとうございました。イリアも私達も本当にその、あなた様には感謝してもしきれなくて……!」

「え?もしかして、私のこと?」

「はい。実は、その、泉の側で夫がその……見てしまいまして」

「……なるほど。どうか、彼女のことは心のうちに留めておいていただけますか?」


 イリアに存在がバレていたのは神殿関係者であるからかと思っていたが、どうやらそれも違ったらしい。気まずそうに経緯を話す女将に、ニーグは頷きながら静かに口の前に人差し指を当てた。


「は、はい!もちろん!……そうです。こんなもので申し訳ないのですが、果物のジャムを中に入れたお菓子なんです。良かったら皆さんで召し上がってください」


 目の前にはフレッシュな果物の香りがするお菓子がある。水饅頭のように透き通ったお菓子の中には色とりどりのジャムが詰まっているらしく、涼しげで美味しそうだ。彼女はそれを雪乃とニーグの前に差し出し、にっこりと微笑む。


「ありがとうございます。せっかくなのでいただきますね」

「いえいえ、こちらこそ!――はい。後ろの男前さんも!」

「……後ろ?」

「女よ、悪いな」


 女将は雪乃とニーグにそれを私、そして引き続き後ろへ顔を向けた。雪乃とニーグは二人連れである。後ろの男前と揶揄されるような連れに心当たりは無い。首を傾げながら後ろを振り向けば、そこには堂々とした出で立ちの男前が立っていた。

 男の服装こそはこの場に馴染めるように平民が着ているそれと変わりないが、着ている人間の威厳というものはそう簡単に隠せるものではない。どこからどう見ても、平民の男などではないことが見て取れた。


「ガッ……あなたは!」

「そう大きな声を出すな。お忍びなのだろう?」


 にかりと悪びれもせずにニーグに向かってガイウスが言うものだから、ニーグはまるで毛を逆立てるように嫌悪の表情を隠そうともしなかった。


「――それで、どうしてあなたがここに?」


 目立つ往来の通りから離れ、三人がやって来たのは人気のない町外れの公園の片隅。ひっそりとしているせいなのか、日中の公園だと言うのにほとんど人の姿は見受けられない。

 ニーグは苛立ちを隠そうともせず、じっとガイウスを見つめながら問う。


「神殿の中を探るのは難しいが、町の中に間者を紛れさせるのは易い。それだけのことだ」

「分かりました。それで用件は?」

「ユキノはせっかちだな。まぁ、それも悪くないが。――単刀直入に言おう。惚れた。結婚してくれ」

「断わります」

「早いな」


 ガイウスはそう言って、気分を害した様子も見せずにくつくつと楽しそうに笑う。しかし、そんなガイウスに気分を害しているのは隣に居るニーグの方だった。


「当然でしょう。なぜ、ユキノ様がそのような戯れ言に付き合わねばならないのです?理解に苦しみます」

「話がそれだけならこれで失礼致します」

「――あなたはどうすれば俺のものになる?」

「なりません」


 雪乃はきっぱりと言い切ると、ガイウスに背を向ける。そのままそこから去ろうとすると、後ろから天気でも語るような穏やかな声で語りかけてきた。


「ソルノディオ、良い町だな。人が神の下、生きる喜びを感じている」

「……何を言いたいのですか?」

「この町を落とすのは簡単だろうな。誰をも受け入れる町は、敵を拒むこともできまい」

「ガイウス帝!?何ということを!」

「それでも私は頷きません」


 キッと睨み付けるニーグの横で、雪乃は淡々と返す。しかし、その返答すら予想の範囲とばかりにガイウスの表情は変わらない。


「そうか。では、頷いてくれなけば死ぬと言えば?」

「勝手にどうぞ。それを止める権利は私にはありませんから」

「――はははっ。そう言うと思った。あなたは、あの時もそうだった……」


 ガイウスはそう言うと、力が抜けたように木の幹に体を預けた。

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