01
田舎に住んで居た、ただ一人の家族である祖母が亡くなったのはもう数年も前になる。それなのに祖母が亡くなってすぐは気落ちしてしまって、なかなか祖母の遺品を整理することは出来なかった。
雪乃は山間の田舎から出て働く会社員である。勤続五年が経過してリフレッシュ休暇が貰えたことを良い機会として、久しぶりに今は誰も住んでいない田舎の実家へやって来た。そしてようやく祖母の死と向き合うことにしたのである。
「おばあちゃん、全然荷物残してくれてないんだから」
しかしながら、いざ遺品を片付けようとしても祖母の私物と呼べるようなものはかなり少なかった。まるで近々自分が亡くなるとでも分かっていたようである。しっかり者で優しい祖母らしいと言えば、祖母らしいとも言える。だが、祖母の物が少なくて寂しいのも事実だ。
そしてあっという間に荷物を片付け終えて、残ったのは長い休暇である。しかし、ここは高校を出るまでは祖母と一緒に暮らした懐かしい実家。最近は休暇を取るために根を詰めて仕事をしていたこともあって、久しぶりにゆっくりしてみるのも良いかもしれない。祖母は家の裏手にある山を散策するのが好きだった。祖母を思い出しながら、同じように散策してみるのも良いかもしれない。そんなことを思いついて、雪乃は懐かしい裏山に足を伸ばした。
「――あれ。こんなところに祠なんてあったんだ」
しばらく歩いて、湧き水の流れる小川の側の倒木に腰を掛けた。久々の山道に荒くなる息を整えながら見る視線の先には、石を組み立てて作った小さな祠がある。ぱっと見ただけでも、何十年も前に作られたのだろうと思われるような古びたものだ。
もしかしたら、亡くなった祖母も散策をする時にはここへお参りをしていたかもしれない。そんなことを考えながら、何気なくリュックに入れていたお菓子と近くの湧き水から汲んだ水を祠に供える。軽く手を合わせてから立ち上がると、雪乃は再び散策を再開した。
「……よ。目覚めよ」
雪乃に囁きかけるその声に、重く沈んでいた意識を浮上させる。水のせせらぎのようにしっとりと落ち着いた美しい女の声だった。
声に導かれるように重かった瞼をようやく開けてみると、眩しい光が飛び込んで来る。明るさに目が馴染んだ頃ようやく上体を起こして声の主を見れば、そこにはこの世のものとは思えない美しい女が立っていた。
美しい彼女は平安貴族の姫でもなければ着ることができないような鮮やかな色の着物を幾重にも重ねて纏い、その綺麗に結われた御髪には美しい髪飾りが当たり前のように飾られている。その姿を見ただけで、彼女がただの人でないことは簡単に見て取れた。
「あなたは……?」
「我が名は白瀧津姫神。所謂龍神じゃな」
「え?龍神って、神様の?あの……えっと、私?」
「そなたはどこまで覚えておる?」
「どこまで?ええと、私……山を散策していて……水場で……足を滑らせたんだ……。私、死んだんですか?」
「うむ」
「そんな……」
「ふむ。のう、そち。妾に仕えてみてはせぬか?」
「……私が、ですか?」
愕然とする雪乃に白瀧津姫神は少し考え込んだ後、にっこりと微笑んで尋ねた。
雪乃がその言葉を自分に向けられていると気付くまでに少しの時間を要したのにも無理は無い。白瀧津姫神に仕えるというのは、神に仕えるということである。先ほど、ようやく死んだことを理解したくらいだ。神に仕えるということを考えたことは無い。
「そちの祖母はよく妾に菓子を供えてくれた。いつも孫のことを祈っておったよ」
「おばあちゃんが……」
「そしてそちも最後に菓子を供えてくれたな。美味であった」
そう言って、真っ赤な紅を塗った唇は美しい弧を描いた。
「あの、もし仕えなかったとしたら私どうなるんですか?」
「そちはすでに死して魂だけの状態だ。そのまま天に召されることになるだろう」
「もう死んでるんですもんね……」
「うむ」
ここで死んでも後悔らしい後悔は思い浮かばない。今交際中の恋人もいなければ、家族はすでにもういない。仕事だって少しの間は困るだろうが、それでも何が何でも自分でなければならないような仕事ではなかった。しかし、自分のことを大事に思っていてくれた祖母のことを言われると、その気持ちは水面に漂う木の葉のように揺らぐ。生前の祖母であれば雪乃がまだ生きていることを祈るだろう。
「分かりました。……白瀧津姫神様。誠心誠意、お仕えさせてくださいませ」
「うむ。では、そちは今から妾の神使じゃ。期待しておるぞ」
そう言ってぽんと雪乃の肩に手を置いた瞬間。激しい勢いの水流が、まるで全てを洗い流すかのように頭からつま先までを駆け巡る。
そしてそれが終わった時、雪乃は自分が「人」ではなくなったことを悟った。視える世界、聴こえる音、感じる匂いの全てが知っているものとは異なっている。以前よりもよく視える目は数里先でも易々と見渡せそうだし、よく聴こえる耳は遠くの音も、数種類の音も簡単に聞き分けられそうだ。それなのに、自分の感覚にまるで薄い絹を挟んだかのように他人事のように鈍く感じるのである。そしてそれと対照的に目の前の女性の力の強さを肌で感じるようになった。その力は圧倒的で、自分がいかに矮小な生き物であったのかを痛感してしまうほどである。
「我が主様。お仕えできることが何よりの喜びでございます」
「そう堅くなるな。これから長いのじゃ。ゆるりとな」
それが雪乃が人を辞して、白瀧津姫神の神使となった日のことである。
あれから数百年。人の身には決して短くない時間だが、すでに神使となり人から離れた身である。神使となった際に意識が鈍くなったが、そのせいかこの永いはずの時もあっという間に過ぎてしまった。
姫神の社で働き始めた雪乃は初めに仕事の適正を調べられる。すると雪乃は水辺で亡くなったせいなのか、水を使うことに長けていた。初めは社の床掃除から始まった神使としての仕事は、数百年と経つうちにいつの間にか炊事場のまとめ役に収まっている。そんな日がいつまでも続いていくと思っていた。
「――雪乃様。主様がお呼びです」
その声にかまどから顔を上げれば、姫神の身の回りの世話をする美人の神使が雪乃を見ていた。彼女は雪乃と同じ神使であるのだが、神使になる前はやんごとなき姫の手鏡であったという付喪神である。一度見せてもらった本性は、鼈甲に金で描かれた椿が見事な煌びやかな品であった。
「椿様。主様が私をですか?どのような用かはおっしゃっておられましたか?」
「いいえ。出雲からお帰りになって、すぐでしたので……」
「分かりました。すぐに向かいます」
雪乃は側にいた同じ炊事場で仕事する後輩たちに声をかけて、前掛けを置くと手鏡の椿の後を着いて行く。古い神の一柱であるという姫神の社はとても広い。雪乃も主の部屋の場所を知ってはいるが、身の回りの世話をする彼女の後を着いて行くのが一番の近道であるのだ。
たおやかな椿の背中を見ながら姫神に呼ばれた理由を考えてみるが、その尤もらしい理由はいまいち思い浮かばない。姫神の供物を料理して、彼女の口に入れるものに作り上げるのが雪乃の仕事だ。だが、それは料理を作るところまでで、彼女の目の前に出すのは椿のような身の回りの世話をする神使の仕事である。そのため思い起こしてみれば、姫神と直接顔を合わせるのはかなり久しぶりであるらしいと気付いた。以前顔を見たのは炊事場のまとめ役を任されたときの挨拶の時だったので、それでも五十年は前かもしれない。
「――主様。雪乃様をお連れ致しました」
「入られよ」
「失礼致します」
しばらく歩いた先の襖の前で椿が三つ指をついて声を掛けた。すると、部屋の中からは美しい声が入るように促す。その声に椿が視線で雪乃を合図を送り、雪乃も同じように三つ指をついて声を掛けてから、その襖をそっと開けた。
「顔を上げてこちらへ。急に呼びたててすまぬな」
「いえ、私はいつでもかまいません。姫神様は出雲でのお勤め、お疲れになっておられませんか?」
「問題ない。それでな、その出雲で少し話が出たのだが」
「話、ですか?」
肘置きにゆったりと凭れて、姫神が雪乃を呼んだ。雪乃はその向かいに静かに寄って、姫神の許しで顔を上げる。先日まで出雲に出かけて、つい先ほど帰ってきたばかりだ。神使としてその体調を伺えば、姫神は少し言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「のう。雪乃、そちは妾に仕えてどのくらいになるのじゃ?」
「ええと、三百年ほどにはなるかと思いますが……詳しい年数がお知りたいのであれば、神使長が持っている書付に書いてありますので聞いて参りましょうか?」
「よいよい、かまわぬ。それにしても、もうそんなに経つのか。つい先日、雪乃が神使となったような気さえするのにのう」
「それは姫神様ほどの方で在らせられるのであれば、百日も百年も変わらないのでございましょう」
正式な年数は雪乃自身もはっきりと把握はしていないが、三百年は経ったはずである。詳細の年数はこの社に仕える神使たちを取りまとめる神使長が管理している、書付に書かれているはずだ。それを思い浮かべて姫神を見れば、彼女はふるふると首を振った。
「よい。ええと雪乃、今日はそういう話をするために呼んだのではなくてな」
「はい。なんでございましょう?」
どこか歯切れの悪い言葉である。もしかしたら雪乃が作る食事が口に合わないのかもしれない、そんなことを考えながら次の言葉を待った。
「――そち、神にならぬか」
そして姫神が口に出したのは、雪乃が想像にもしていない言葉であった。
「……私がでございますか?」
「出雲でな、頼みごとをされてのう。こちらではあまり名の知られる神ではないが光粒より生まれし創造神というのがおるのだが、それが作った地で神が不在なのだそうじゃ」
「神が不在、ですか……?」
「うむ。今まではそやつがそこに留まっておったのだが、そろそろ次の地へ参らねばならないのだそうじゃ。それでの、その地を管理する神を紹介して欲しいと頼まれての。妾はそちの名を推薦したのじゃ」
「わ、私をでございますか?」
姫神が名の知られた神ではないと言った通り、神使として三百年過ごしてきた雪乃でも聞き覚えの無い名前である。
しかし、大事なのは姫神が雪乃をその地を管理する神として雪乃を推薦したという言葉の方だ。平坦な日常を送り感情の揺れ幅が小さくなった雪乃ですら、思わず声を上げずにはいられない。わっと驚くように姫神を見れば、彼女は雪乃を安心させるように頷いた。
「八百万の神が居るとは言え、この地は少々飽和状態じゃ。このままここに留まっても、いつ神になれるか分からぬぞ。それであれば、他の地に旅立つというのも策ではないかのう?」
「それは、そうかもしれませんが……」
確かに姫神が言うのは尤もだ。この地では神が多い。それ故に消えていく者も多いが、それでも神になれる者は以前よりもかなり少なくなったのだと言う。昔は百年の時間で神になれたと言うのに、今では数百年経っても神になれることは少ない。
「勿論断わっても良い。だが妾はそちであれば、かの地で上手くやれると思っておる」
「そんな……勿体無いお言葉でございます」
「考える時間をやろう。少し考えてみてはくれぬか?」
「……いえ」
優しげに微笑んだ姫神に向かって、雪乃ははっきりと首を横に振った。
「やはり断わるか?」
「そうではございません。姫神様にそこまでおっしゃっていただいて、断わるなんてできません。私で良ければ、是非やらせてくださいませ」
「ほう。では、そのように伝えるぞ。良いな?」
「はい。謹んでお受け致します」
そう言って指をつくと、姫神に向かって頭を下げた。頭の上からは姫神の喜ぶ声が降って来る。
「そうかそうか。そなたであればやってくれると思っておった。しばらくは慣れぬだろうし、妾も手助けしよう。かの神には連絡しておくからしばし待たれよ」
「はい」
姫神はそう言うと楽しげに側仕えを呼んで、水鏡を持って来させる。すぐにでも連絡を取ろうということなのだろう。
そしてそれからはあっという間の出来事だった。水鏡でかの地を管理している神に連絡を取ると、すぐに雪乃の採用が決まったのである。そうして雪乃は人の身から神使となり、そして異世界で女神となることになったのであった。