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アブラムの苦悩  作者: ダストブランチ
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第四話 不倫の代償

しかし、そんな喜びとは裏腹に、まさに犬猿の仲のようなサライとハガーの二人が、どちらも息子を産んでしまったことで話はもっとややこしくなってしまった。こうなれば、遅かれ早かれ、遺産争いが起きるのは目に見えていた。

しかも、野心家のハガーの性格からして、第二夫人の子だからと言って正妻の子に相続権を譲るどころか、生まれてきたばかりの赤ん坊を殺してでも我が子をアブラムの世継ぎとして据えたがるだろう。

そして、そんな懸念を裏付けるように、とうとう事件は起こってしまった。


その日、アブラムはサライの子イサクがようやく離乳食を食べられるようになったのでそれを祝って盛大な祝宴を開いた。

それは子供が育っていく節目を祝う上で内外の客達を招いての大切なお披露目式であり、我が子がアブラムの正統な子として世間からはっきりと認められる日でもあった。そのため、サライは随分と骨を折ってイサクの為にいろいろと準備していた。

ところが、祝宴の半ばで、もうそろそろ15歳になろうとしていたハガーの子イシュマエルが突然、アブラムにこんな事を言い出した。

「お父さん、僕はこの子が自分の本当の弟だなんて思ってません。もちろん、お父さんは男だし、強いから誰かをその歳でも妊娠させられるだろうけど、でも、お義母さんはどう考えたって子供が産める歳じゃないでしょ?だから、これには何かからくりがあって、お義母さんが僕の母を妬んできっとよその子をお父さんの子に仕立てたのかもしれません」そう言ってイシュマエルがイサクの出生(しゅっしょう)を疑わせるような話をこっそりアブラムに吹き込んだので、サライはついに我慢の限界が来て祝宴が終わると早速、アブラムのところへ怒鳴り込んで行った。

「もう、我慢できません! あの奴隷女と息子をさっさとこの家から追い出してください。あんな嘘つきの奴隷女の息子なんかにあなたの遺産の一欠けらでも差し上げたりなどしないでください!」

「何を急に言い出すんだ。イシュマエルはわたしの息子だぞ。追い出すなんてそんなこと、できるわけないじゃないか」アブラムは激怒しているサライを何とか落ち着かせようとしたが、サライの怒りはそう簡単には収まらなかった。

「いいえ、もう嫌です。これ以上、あの人達と一緒に住むのなんて我慢できません。あの人達はわたしだけでなく、まだ小さいイサクにだって容赦なく攻撃してくるでしょう。このままだと私達が力を合わせて築いてきたこの家でさえあの人達は好き勝手にしてつぶしかねません。どうかお願いです、あなた。たとえ今は非情と言われようと、すぐにハガーを離縁してください」


まさかここで離婚にまで話が進むとはアブラムも思っていなかった。

だが、ハガーという女を抱いた時からアブラムは何となく彼女との結婚生活がそう長くは続かないだろうと予感していた。

まだ若くて熟した実のような身体をした女がいつまでも年寄りの男を相手に満足しているわけはない。そのうち、もっと若い男と遊びたい気持ちだって少なからず出てくるだろうとアブラムもハガーを冷めて見ていた。そうなった時にどうしたものかと考えると、アブラムの脳裏にはやはり「離婚」という言葉がちらちらと浮かんだが、ハガーが実際に裏切ったわけでもないのに、もちろんそんな話をこっちから切り出すわけにはいかない。まして、ハガーはアブラム達の希望通り、息子をこの家に授けてくれたもう一人の妻だった。だから、アブラムとしては今後、どうハガーが我がままを言って振舞おうとも黙って見守るつもりでいた。

そこへサライが突然、離婚話を持ち出してきたのでアブラムは自分がハガーを“安易に抱いて妊娠させてしまった”ことを今更ながら深く悔やんだ。


あの時、もっとサライの申し出をよく考えてはっきりと断っていたら、こんな事にはならなかった・・・。つい、その場限りの情事に身を委ねたことでまさかこんな厄介な事になるなんて・・・ああ、どうしたらいいのだろう? 

イシュマエルを捨てるなんてわたしにはそんな事はできない。イサクも我が子なら、イシュマエルも我が子だ。

だが、この問題をうやむやにしておくことはもうできないだろう・・・。


そうしてアブラムの苦悩はその後、ずっと続いた。

しかし、何日か経ってアブラムはとうとう一つの考えにたどり着いた。


恐らく、わたしが一時の情に流されてハガーとイシュマエルをこの家に残したとしても、今度は逆にサライとイサクを捨てるようハガーがわたしに言ってくるだろう。だが、イサクはまだ生まれたばかりの赤ん坊だ。あの子を今、捨てるわけにはいかん。

そうアブラムは心に決めると、翌朝早く、ハガー達を家の表に呼んで女の肩に乗せられるだけの急場しのぎの食糧とわずかな水だけを与え、息子イシュマエルと共に離縁を言い渡した。

ハガーのこの時の衝撃は計り知れなかっただろう。

これまで第二夫人としてずっと権勢を振るってきた上、息子もアブラムの跡継ぎとしてこのまま安泰に暮らせるだろうと(たか)をくくっていただけに、今になって自分達が追い出される身になろうとはハガーはどうにも信じられなかった。だから、いつもの調子でしおらしくしていたらきっとアブラムの機嫌は直るだろうと思って、ハガーはアブラムに泣いてすがってみせたが、アブラムは離縁の言葉以外、何も言わず冷たく彼女の手を振り払った。



そうされて初めて、ハガーはアブラムが本気で自分と別れたがっていることにようやく気がついた。

ハガー自身、これまでアブラムとの結婚生活を振り返ってみようとはしなかったのでそれほど深く考えていたわけではなかったが、ただ、元々、打算で始まった結婚なのだからたとえアブラムから別れを切り出されても大した衝撃にはならないだろうとハガーはずっと思っていた。だが、実際に今、アブラムからそれを告げられると、ハガーは平気でいられるどころか、まるで大きな雷が自分の頭上めがけて突然、落とされたようなそんな激しい動揺を感じていた。

そして、ハガーはまるで気が狂ったみたいに乱暴にイシュマエルの手を引っ張ると、そのままアブラムの家から飛び出していき、昔、サライにいじめられて家出した時と同じように、いつの間にか砂漠近くの道をフラフラと彷徨(さまよ)っていた。



「お母さん、ねぇ、お母さんってば」イシュマエルがハガーの腕を引っ張って立ち止まると、そこでハガーはようやく我に返ることができた。


わたし、どうしてここにいるの・・・?


「お母さん、もう(うち)に帰ろうよ。僕、そろそろお腹がすいてきた」何も知らない息子はいつものように母親の前でそう言って駄々をこねてみせた。

「・・・イシュマエル、イシュマエル」ハガーはその我が子の姿にどうにもたまらなくなり、思わずイシュマエルの身体を抱きしめていた。

「やめてよ、お母さん、こんなところで。誰かが見たらみっともないだろ。ねぇ、早く(うち)に帰ろう。さっきお父さんとけんかしてたようだけど、きっとお父さんの機嫌だってもう直ってるさ。だから、ねぇ、早く(うち)に帰ろ」

息子は再びそう言ってハガーの腕を引っ張った。


この子は自分が一体、どういう経緯(いきさつ)で生まれてきたのか全然、分からないでしょうね。

ハガーはイシュマエルの顔を他人でも見るような目つきで無表情に見つめながらそう考えると、その時ふと、かつて家出した自分を助けてくれたあの商人の言葉が彼女の脳裏にどこからか浮かんできた。


― その子はそんな事情なんて何も知らずに生まれてくるんだろうから

  親御さんは何より子供の為に安心できる家庭ってものを作ってやらないと。



ああ、わたし、一体、何て間違いを犯してきたんだろう。

この子を産んでしまえば、“この子を産みさえすれば”きっとアブラム様はわたしを追い出したりなどしやしないってずっと思っていた。

この子がいるだけできっと幸せな家庭や暖かい家族ってものが築いていけるんだろうって勝手に信じ込んでいた。


でも、そうじゃない。


“わたしが”この子の為に安心できる家庭を作ってやろうとしたわけじゃない。

わたしはただ、“この子にわたしの幸せを運んできて欲しかっただけ”なんだわ。


何としてでもこの子をアブラム様の世継ぎにさせなければと思っていた時でも、わたしが考えていたのはあのサライ様の鼻をへし折ってやることだけ。


だから、この子の為なんかじゃなかった。

ええ、全然、“この子の為なんかじゃない”。


そして、わたしに一体、何が残ったの?

・・・何も、何も残らなかったわ。

「誰よりもいい暮らしをして見せる」って故郷を出た時からずっとなりふり構わず頑張ってきてそれでわたしに一体、何が残ったと言うの?

確かにアブラム様のめかけにはなれたわ。そのおかげでそんじょそこらの奥様方とは違ってダイヤだのルビーの指輪だのって好き放題に身につけてこれたし、食べ物に困ることなんてちっともなかった。でも、そのわたしが今ではたったパンの一欠けら、水の一滴すらも我が子に与えてやることができない。

ふふ、何て愚かだったんだろう。

あはは、わたしって何て馬鹿な女だったんだろう・・・。


そうしてハガーはイシュマエルに「食べ物を探してくる」と嘘を言ってとりあえず彼を(やぶ)の中に残して少し離れたところで一人、さめざめと泣いた。

既に追い詰められていたハガーは、本気でこのまま親子心中するか、それとも誰かに息子だけでも拾ってもらう方がいいだろうかとずっと迷っていた。

そうやってハガーが悲嘆に暮れていると、いかにも恰幅(かっぷく)の良い武人のような格好をした男が泣いているハガーの傍に近寄ってきた。

「もし、奥さん。あそこで叫んでいるのはあなたの息子さんですか?」

「えっ?」ハガーは自分の考えに(ふけ)っていて気づかなかったが、どうやら置いてきぼりにされたイシュマエルが母親のただならぬ様子からさすがに不安になってきてとうとう泣き叫んでいた。

「イシュマエルっ! お母さんはここよっ! 大丈夫、心配しないで、すぐそっちへ行くから」ハガーはとりあえず息子に叫んで声を掛けると、目の前の男の方を向きなおった。

「すいません。わたしが取り乱していたので少し離れていただけなんです」

「何か事情がありそうだが・・・、それはともかく、息子さんは今、おいくつですか?」突然、現れて変な事を尋ねる男にハガーは不審そうに見つめた。

「もうすぐ15歳になりますけど・・・、何か?」

「申し遅れました。わたしはこの一帯を治めている領主に仕える弓引きでして、突然、こんな事をお願いするのも何ですが、わたしは自分の弓を継いでくれる男の子をこれまでずっと探していました。そこで奥さん、もし、良かったら、息子さんを弓引きになさる気はありませんか?」

「は?」

「それほど悪い話ではありません。私達、弓引きは領主から一応、毎月のお手当てをもらうのでまぁ、食いっぱぐれることもありませんし、いい弓引きになればどこの領主でもこぞって息子さんを雇いたがるでしょう。わたしもこれまで弓一本であちこちの国をまわってきましたが、その所為(せい)で結婚もできませんでしたので、残念な事に子供がおりません。このままだとわたしが会得した弓の技術を誰にも継承できずにこの世から消し去ることになってしまいます。ですから、ぜひともあなたの息子さんにわたしの弓を残していってもらいたいのです。どうでしょう、奥さん。お子さんの将来の為に一度、お考えいただけませんか?」


人の縁とは本当に不思議なものである。

今、死のうと思っていた自分を“神”は再び生へと引き戻してくれた。

あの時も・・・、あの商人の言葉がなかったら、もしかしてわたしは今、こうして生きていなかったかもしれない・・・。

ハガーはその男の申し出を聞きながら、しみじみとこれまでの人生を振り返り、もう一度、生き直す決心をした。

ただし、この出会いを神の奇跡と思った読者には夢を壊すようで申し訳ないが、恐らく家出した時にハガーが商人と出会ったのは偶然だろうが、この時、弓引きと出会ったのは偶然ではない。

現代でもスカウトやヘッドハンティングなんて上手い話はそう転がっていないように、この時、弓引きがハガーに声を掛けたのは実はアブラムが裏で仕組んだことだった。

アブラムが散々、苦悩した末に考え出した結論は、これ以上、自分が表立ってハガー親子を援助すれば、サライやイサクの心中も穏やかではないだろうし、ましてハガーに甘い顔を見せ続けたら彼女はつけあがってまた相続争いの種をアブラムの家に撒きかねない。

だから、アブラムはサライの言った通り、きっぱりとハガーとの縁を切ってみせ、その上で自分の知り合いである弓引きを介してハガー親子の援助を続けていくことにしたのだった。


その後、イシュマエルは生来のやんちゃ振りと父アブラムに似た豪胆なところを発揮して砂漠地帯では名の知れ渡った弓引きとして生涯を過ごし、母親のハガーと同じ出身のエジプトの女性と結婚した。

その彼女とイシュマエルとの間にできた子供は全部で12人だったが、その子達が結婚していくとさらに子孫は増えていき、結局、イシュマエルの子孫はそれぞれの住んでいる地域で部族を築くまでになった。そして、このイシュマエルの子孫こそ現在も砂漠に住んでいるアラブ人達の祖先だと言われている。


こうしてアブラムの苦悩は結局、ハガーとの離婚によってとりあえず解決をみたが、それでも彼らが犯した数々の過ちは何も知らず生まれてきたイサクやイシュマエルの心に決して消えない傷跡を残すことになった。

だが、今日も世界中の至るところでアブラム達と同じように、多くの人達が悲しみと苦しみを繰り返す苦悩を今も続けている・・・。


― 主はお前とパートナーを一つにしなかったか?

  肉においても心においても一心同体になった夫婦こそ

  主の愛する者達である。


  では、なぜ主は彼らを一つにしたのか?


  なぜなら、主は愛と真実をその心に育み、

  “神の子”と呼ばれるにふさわしい

  人間の子孫達を求めておられたからだ。


  だから、あらゆる誘惑に負けないよう

  自分の精神をしっかりと守るんだな。

  そして、一度、結婚の誓いを立てたら

  その約束はちゃんと果たせ。


  「わたしは離婚が嫌いだ」と主はおっしゃっている。


  「だが、わたしはまるで衣服でもまとうように

   人がこそこそと暴力や虐待を働くのはもっと嫌いだ!」

  とも、全知全能の主はおっしゃっられている。

  

  だから、様々な誘惑やら我欲に負けないよう、

  夫であれ妻であれ、その約束はきちんと果たせ。

              (マラキ2章14−16節)



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