第二話 代理母の反抗
アブラムがそう疑問に思うのは正解だった。
実は、サライが突然、第二夫人の案を言い出したのはハガーが原因だった。ハガーはサライをえらく感心させるほど古風で品格ある女を装っていたが、彼女がそれほど作法にこだわったのは一重に彼女の旺盛な向上心、つまり野心の所為だった。
貧しい家庭に育ったハガーはそんな家庭環境から何としてでも抜け出したい一心でこれまで随分と努力して独学でいろいろと作法を身につけ、その能力を買われてアブラムの家に仕えるまでになった。アブラムの家は外国人家庭とは言え、この地方のみならずエジプトでもよく知られた資産家であり、戦争でも軍功を上げたほどの有名人とも言われていたので大した後ろ盾(=コネ)もなかったハガーにしてみれば結構な就職先だった。だが、ハガー自身はそれで満足していたわけではない。
そこで、品行方正で慎ましやかな召使女は、すっかり彼女に気を許してしまった女主人との世間話の合間に調子よくアブラム一家を持ち上げる一方で、「家の格式をきちんと守っていけるのはやはり血のつながった子孫でないと務まりません」とか「遺産をこのまま召使頭にお譲りになさっては、だんな様も奥様もご心配でしょう」と先行きについて不安を感じさせる言葉をあれこれと女主人の耳に少しずつ垂らしていった。その上で、「自分ならば奥様に代わってだんな様のお子を宿してみせましょう」とまんまとサライに自分を売り込んだのである。
サライとしては、子供を産めない自分に女として多少、引け目を感じていたのと、何より自分の所為で夫に子供や家族を築いてやれなかったのだと“見当違いの罪悪感”を抱いていた。そこへ、そんな女主人の弱みにつけこんだハガーが逆にサライからアブラムの妾になるお墨付き(承諾)をもらったのだった。
こうして、内心では嫉妬と敵愾心の対象としていた女主人を味方に引き入れ、その若さと当たる(妊娠できる)確率が高そうな自分の生殖機器を武器(商品)にしてハガーは見事、アブラムの第二夫人の座に収まった。
ところが、まもなくしてハガーが首尾よくアブラムの子を身ごもると、アブラムが最初に抱いていた嫌な予感も的中した。
自分が妊娠した途端、ハガーは手の平を返したように女主人に反抗しだしたのである。
サライがいつもの調子でお茶を頼むと、
「わたくしはだんな様のお子を宿した大事な身体です。これからは奥様が逆にわたくしにお茶を出してくださるのが筋でしょう」と言い出し、
サライがそれに文句をつけると、
「ああ、奥様。何てひどいお言葉でしょう。わたくしのお腹にいるだんな様のお子がそんな下品な言葉を聞いて口が悪くなったらどうしてくれるんです? それに、サライ様、わたくしはあなたやだんな様に希望の光をもたらし、あなたの悩みを救って差し上げた女なのですよ。もっとわたくしを大切にしてくださらないと」などと口答えする始末だった。
これにはサライもあきれて何も言えなくなってしまった。
だが、あれほど自分に忠実だったハガーがこうも楯突いてこようとは予想もしていなかっただけに、サライはかなり困惑してしまった。そうして彼女がどうにもたまりかねて自分の悔しさをぶつけられる相手は、やはり、安易に妻の提案を聞き入れてしまい、そのハガーを“つい”妊娠させてしまった夫アブラムだった。
「ええ、確かにわたしが言い出した事ですし、わたしがあなたの腕にあの子の身体を押し付けたようなものですからあなたに非があるなんてわたしは言ってません。
でも、わたしをないがしろにしてまであれほどハガーが増長するのもあなたが少しは身の程をわきまえるようあの子にちゃんと注意してくださらなかったからじゃありませんか。なのに、わたしだけがあの子の我がままにこれほど我慢して苦しむなんてあんまりです。
夫として、この家の家長としてあなたにだって責任があるんですから、少しは奥の事情ってものも考えてくださらないと。ですから、どうか神がこの事に関してあなたとわたしとの間を公平にご判断くださいますよう」サライがそうして目を真っ赤にさせながら早口でまくしたてるので、アブラムは彼女の勢いに押されて言葉に詰まった。
「・・・それほど言うのなら、お前の好きにしたらいい。それに元々、彼女はお前が雇った召使だ。
女主人であるお前が奥にとって一番いいと思った方法を取ってくれたらわたしもそれに従うよ」と、アブラムは結局、そんな逃げ口上しか言えなかった。
恐らくこうなるんじゃないかとアブラムは何となく予感していた。
いかにも割り切って重婚や浮気を受け入れたつもりでも、女というのは殊、性に関してそう寛大にはなりきれないところがある。まして、子供が欲しくてたまらなかった女が、自分の夫の子を宿した女から面と向かって馬鹿にされるのは死ぬほど屈辱的なことだろう。
だから、アブラムはこの時、とりあえずサライの肩を持ったのだが、事はそう簡単には済まないだろうと覚悟した。
案の定、嫉妬や憎悪に苛まれて人が変わったように癇癪持ちになったサライは、ハガーが妊娠しているにも関わらずわざと彼女をいたぶるようになってしまった。そして、今度はハガーの方がサライの度重なるいじめに我慢できず、とうとうアブラムの家を飛び出して行ったのである。
しかし、元々、行く当てのない貧しい召使女だったハガーが大きなお腹を抱えて家を出たところでどうすることもできない。結局、砂漠近くでふらふらしているところを偶然、オアシスの傍でテントを張って休んでいた商人が優しく彼女に声を掛けてきた。
「あのぉ、奥さん、大丈夫ですかい? さっきからあんたの姿を見てたけど、どうやらお腹も大きいようだし、それにこんな日照りのきつい道を歩いていたら大事な赤ちゃんにも毒でしょう。もし、良かったらしばらくこの日陰で休んでいきなさい」
「・・・えっ、いいんですか?」のどがすっかり渇ききっていたハガーは少し恥ずかしそうに商人の持っていたコップに目をやった。
「ええ、どうぞ、どうぞ。ああ、水もたんとありますからね。すぐに差し上げましょう。・・・ほら、ゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。ちょうどのどがすごく渇いていたところだったので本当に助かりました」
礼を言ってハガーは商人が差し出してくれたコップにかぶりつき、中の水をごくごくと飲み干した。
「そんな身体でずっと歩いてたら大変でしょう。奥さん、どこに行かれるんです? もし、わたしと行き先が同じなら近くまでこのラクダに乗せて行ってあげましょうか?」偉く親切な商人はそう言ってハガーを気遣った。その優しい言葉にハガーは思わず涙がこぼれた。
「奥さん、本当に大丈夫ですか? どこか具合でも悪くなったんですか?」商人は突然、泣き出したハガーにおろおろして彼女の背中を恐る恐る撫でたが、ハガーは見知らぬ人から思わぬ親切を受けたことでますます泣き出してしまった。
その様子からして、商人はどうやら何か事情がありそうだと察し、彼女が落ち着くのを見計らってからそれとなく彼女の話を聞いてやることにした。
「じゃあ、奥さん。何ですか、あなた、本妻さんに我慢できないからってんで家出したって言うんですか?」
「・・・ええ。だって、わたしがだんな様のお子を産むのにいくら本妻でもあの方にいつまでも“召使扱い”されるのはどうしても納得できなかったんです。それに、わたしはもう正式なだんな様の“妻”ですし、それは奥様だって認めたことですもの」
「まぁ、奥さんの言いたい事も分からなくはないけど、本妻さんの方にも言い分はあるでしょうしね。
どっちにしたって奥さんがその子のお母さんである限り、“生まれてくる子が一番、幸せになれそうな道を取ってあげるのがお母さんの務め”ってもんじゃないですかね?」
「・・・ええ、それは分かっています」
「だったら、こんなところでフラフラしててもお腹の赤ん坊が可哀想ってもんですぜ、奥さん。
“その子はそんな事情なんて何も知らずに生まれてくる”んだから、親御さんは何より子供の為に安心できる家庭ってものを作ってやらないと。
悪い事は言わない、奥さん。不本意だろうが、家に帰ってよぉく本妻さんに非礼を詫びて機嫌を取った方が賢明ってもんです。あなたの事情からしてその本妻さんもあなたの子供さんのお母さんになるんでしょうし、その人にその子を可愛がってもらうだけでなく、あなたに何かあった時にちゃんと後見してもらいたければ、たとえあなたが嫌でもその本妻さんを敬って立てるのは第二夫人であるあなたの務めってもんじゃないですかね?」
身も知らない商人からそう諭されて、ハガーも何となくその時、素直にその話を受け入れることができた。
そうね。この人の言う通り、このままこの子と一緒にここで野たれ死ぬなんてあまりにも惨めだし、ましてこの子には何の罪もないしね。少なくともこの子はアブラム様の正統な子供なんだから母親であるわたしが本妻の意地悪にひるんだりして弱気になっていては駄目だわ。何としてでもこの子にアブラム様の世継ぎになってもらわないと・・・。
そう考えたハガーは再び恥をしのんでアブラムの家に戻り、自分の子を必ずやアブラムの世継ぎにしてみせるという目標に向かってライバルであるサライにも一応、ひれ伏してみせ、その後、無事にアブラムの子を出産したのだった。
この時、アブラムは既に齢86歳、その彼とハガーとの間に生まれた男の子はイシュマエル(ヘブライ語で「神はわたしの惨めな思いを聞いてくれる」の意)と名づけられた。
だが、これほど野心家のハガーがいつまでも大人しく引き下がっているはずはなかった。




