第一話 妻の願い
長期連載中の「奇跡の真実」を早く仕上げたいと思いつつ、筆が進まないのでとりあえず気分転換に書いた作品です。「奇跡の真実」をお待ちの方にはもう少し、お待ちください。何とかしますから・・・。
アブラムが姪のサライと結婚してから数十年、その間、彼女が身ごもる気配は少しもなかった。
アブラム自身はもう子供を持つことをほとんどあきらめていた。
だから、サライを妻にしたというだけで彼は満足していた。何せ彼女は近所でも評判の美人だったし、気立ても良く、何より心根の優しい女だった。しかも、生まれ育った土地や宗教に反発して当ても無いのに故郷を飛び出した時でさえ、彼女は黙って自分についてきてくれた。
なのに、自分は散々、彼女に苦労をかけさせてきた。
ひどい飢饉を逃れようとエジプトに行った時などもう少しでサライをファラオ(王)の側室にしてしまうところだったし、あの時は“神”のおかげでどうにか助かったが、そうでなければ彼女を手ひどく傷つけてしまったかもしれない。
だが、その後も彼女を安心させてやることはできなかった。財産分けで甥の家ともめたり、戦争に行ったりと、いつも争い事が絶えなくて彼女を冷や冷やさせてきた。それでも彼女は愚痴一つ、こぼしたりもしなかった。
だから、段々、年を取って来て寂しさを感じ、一度は自分の子供を見てみたいと思うのは女として止むを得ないことかもしれん・・・。
アブラムがそうやって子供について真剣に考え始めたのはこの前、サライが突然、こんな事を言い出したからだった。
「あなた、ハガーと寝てください」
「なっ、何を突然・・・。 お前、もしかしてわたしを疑っていたのか?」
「いいえ、そうじゃありません。あなたが召使女に手をつけるような方でないことはわたしもよく分かっています。何よりあなたが影でわたしを裏切ったりする人ではないからこそ、神はあなたをいつも祝福なさるのでしょう。ですが、わたしはどうしても子供が欲しいんです。分かってください、あなた。これはわたしの一生に一度のお願いです。だから、どうかわたしの願いをお聞き届けくださいませ。ハガーにはわたしから既に話はつけてあります、『だんな様の子供を産んでくれないか?』と。知っての通り、あの子はエジプト人ですからその辺はよくわきまえています。何せあの国では正妻に子供ができなければ、別の女に子供を産ませるというのが“常識”ですから。ハガーさえ承知してくれているなら、私達、夫婦も子供を持てるいい機会に巡りあえたということではありませんか。あなただってこのまま子孫を残さず朽ち果てるなんてお嫌でしょう? 神はわたしには子供を授けてくださいませんでしたが、ハガーを通じてあなたの血を残すことはお許しくださるかもしれません。だから、あなた、どうかハガーと寝てください」そう言ってサライは何かにとり憑かれたような目をしてアブラムに懇願した。
はっきり言って、女はいざとなったら手段を選ばず、理性よりも感情を優先させる怖い生き物である。だから、自分が「欲しい」となったら、夫をわざわざ他の女に提供してでも子供を産ませることすら平気でやってのける。かと言って、決してサライに夫アブラムへの愛情がないわけではなかった。
“出産する”というのは、自然の摂理(法則)において原則的に女の役目とは言え、時にはそれが女にとって自分の存在意義を証明する道具になったりもする。
― 夫婦は子供を作るからこそ家族としての真の愛情を育むようになる。
とか、
― 女として生まれたからには子供を産むのが“当たり前”で、嫁した家に子孫を残せない女など役立たずの半人前だ、
などと誰が言い出したかは知らないが、そんな根拠の無い迷信的な“常識”が世間には往々にしてはびこっている。そして、その常識からたまたま生理的に外れてしまった女達は、女としてと言うよりむしろ、人間としてまるで欠陥商品のような、あるいは存在している価値すらないかのような、そんな暗黙の重圧にさらされるのである。そのため、中にはサライのように世間の風当たりに耐え切れず、“妙な”強硬手段に訴えたりすることもあった。
つまり、サライがこの時、自分の小間使いのハガーを第二夫人としてアブラムに薦めたのは別に夫に対して不満があったわけでもなければ夫婦としての愛情に冷めていたからでもなく、出産できない自分に代わって子供を産んでくれそうな女を愛する夫に差し出すことで“妻としての自分の存在価値やその意義を世間に向けて高めようとしただけ”だった。
だが、アブラムの方はそんな女心が分かるはずもない。夫として長年、妻を裏切らないよう心がけ、それが夫婦の愛情だと信じてきた自分にまさか妻の方から「どうか自分を裏切ってくれ」と言われるとは思ってもみなかった。
女の気持ちというのはどうもよく分からん。あのハガーと寝てくれなどと・・・。
正直なところ、アブラムはハガーという女にあまり興味がなかった。いつも媚を売るような目つきでこちらを見たり、やたらと自分の前で腰を振って歩く姿は女らしいというよりもどこか嫌らしさしか感じなかった。もちろん、際立って悪い女には見えなかったが、アブラムの印象としてはどうも気の許せない人物のように思えた。
だが、サライの方は女同士の気安さもあってハガーと話が合うのか、奥の事をいろいろと彼女に任せては何でも相談しているようだった。それにハガーの仕事振りもなかなか良かった。若い割によく気がつくし、大した教育は受けていないのに頭も良くてしっかり者だった。
しかし、それにもましてハガーがサライの信頼を勝ち得たのは彼女の徹底した立ち居振る舞いによるものだった。食事を運ぶ時や女主人にお茶を出す時、化粧の施し方から挨拶の仕方まで彼女の礼儀作法は完璧だとも言えた。だから、たとえ夫が妾を取るにしてもハガーならば許せるとサライはよくよく考えて自分に進言したのだろう。
そうまでして女というのは子供が欲しいものなのか・・・。
アブラムはそう思うと何だか少し虚しい気がした。
確かに子供が欲しくないと言えば、嘘になる。ただ、サライが妊娠できないように自分もまた彼女に種を与えてやれなかったという男としてのふがいなさを感じないわけではなかった。だから、子供ができなかったことをどちらかの所為にしてお互い責め合うつもりなど更々なかったし、何より子供がなくてもそれなりに夫婦としてお互い満足していたはずだとアブラムは勝手に思っていた。だが、サライの気持ちはそうではなかったと思い知らされてアブラムは少なからず衝撃を受けていた。
だから、サライとのこれまでの夫婦生活を振り返り、彼女の希望通り、ハガーと床を共にすべきだと思ったが、アブラムの心にはどうしても一抹の不安が残った。
果たしてこれが一番、いい方法なんだろうか? それにハガーは一体、どういうつもりでこんな話を引き受けたのだろう?




