EastEndQuest_T3
「カトウとタケモトと……サエキだっけ?」
「また、唐突ね?」
翌朝、深夜まで飲み過ぎた護衛対象が二日酔いで部屋から出てこない状況で、ホテルの朝バイキングの席を琴葉と共に梧桐兄妹の席にご一緒していたセツナが、そんなことを唐突に口にした。
ブレッドをちぎる手を止め少々思案した後に、神州からの留学生の歓迎会で勇とそんな話をしたことを思いだす琴葉。
「記録によれば、昨年、武本翠が死去したことで全員の死亡が確定された、らしいわね」
「あれ、そうなの? サエキという人が生きてるんじゃ? 行方不明という話だったような気もするけど」
あの時、琴葉と勇の会話を聞いていたセツナはそういう話だったはず、と記憶を遡る。
「佐伯四郎に関してはアスガルドで把握していたわ。神州に情報を公開していないだけなんじゃないかしら?
アスガルドの幹部クラスからは、そこそこ大事には思われているようだったから」
「へえ」
「それで、何故今その話をするのかしら?」
「や、そう言えば、スイオウって名前に聞き覚えあるなと」
「それはまあ、あるでしょう」
ガタッ。
その音は秋とセツナの隣から、琴葉の正面から響いたもの。
秋は吐息、セツナは「ん?」と顔を向け、琴葉は一瞥しただけ。
「あ……ごめんなさい」
澄が謝りながら着席した。
「朱翠が使っている刀の名前よ」
「そうだっけ?」
セツナの反応に、琴葉は吐息で応じる。
「桐生夏紀と相対して暴発事故起こした結果、その修理にあなたのマテリアルハンドのデータを流用したでしょう?」
「……あ、あぁ、うん、思い出した」
うんうん、と頷くセツナ。
確かにそんな流れで、朱翠の予備武器に触れる機会を得ている。
「神州マニアのレンが開発に関わった刀だから、剣聖の称号から名前を付けてもおかしくない、とはあなたが言ったのでしょうに」
「確かに言った。いやあ、もう、ついうっかり」
テヘリとやったセツナと呆れて紅茶を口にする琴葉。琴葉と一緒だと、セツナは若干だらしなくなる。
以前、秋はセイジと話した後、ホリンから「セツナとコトハを見ているようだ」と言われたことがあるのだが、果たして「こんな感じ……かぁ?」と首をかしげた。
それからしばらく静かな時間が流れ、着席者の前の皿はすべてが空となる。
口元を拭った琴葉が最初に立ち上がる。
「先輩は予定通り、ここに押しかける駐日のエージェント相手に忙しくなるから、今日は自由行動にしてくれとのことよ。とはいえ、私はここに残るから護衛面は気にしなくていいわ」
好きにしろ、と。そう言って、相方二人を見下ろして、琴葉は二人の次の行動を見守る。
「護衛が自由行動、という奴ね?」
つまり、護衛というの名の自由行動である。
国のVIPの護衛を学生だけに任せることなく、学院の卒業生で構成されるSPもちゃんとついてきている。
(私が自由行動というより、秋と刹那が自由に動けるように手配されているとしか思えない。そんな風に思えてしまうくらい、今回のクエストは不自然なことが多いわね。原案は一体誰かしら?
秋は分からないけれど、刹那なら気づくのでは……)
護衛対象としている先輩からの不自然な自由行動推奨命令。よほど浅慮でもないかぎり、不自然さに気づいてもおかしくはない。
「んじゃ、俺達は心置きなくアキバに行けるってもんだな」
「少しくらいの心は置きなさい」
秋の楽観にはとりあえずつっこんでおき、さっさと自室へと帰る琴葉。
秋はそれを見送って「それで、どうするの?」というセツナの問いに、うん、と一つ頷く。
「俺はちょっと飯の前に行きたいとこあっから、お前ら適当に時間潰して13時に万世橋だ。店はそっからさして遠くない。澄はこいつを連れてきてくれ。学校ねえだろ?」
「ん。分かった」
その後三人は少し雑談を交わしてからそれぞれの部屋に戻った。
琴葉は自室への移動中に電話を受ける。
液晶で表示された名前に、出る前に少し喉を整えた。
「あなたのお願い通りに仕向けたから、安心なさい」
開口一番、琴葉は電話の相手にそう言った。
「あなたにしては珍しい"お願い"だった。それだけで私は力を貸してあげるわ。それが約束ですものね」
そう言う琴葉は心なしか嬉しそうに見える。
「国のVIPが国外に出てまで協力しようとするクエストの内容に興味がないわけではないけれど……ええ、それは私の受けたクエストではないから、どうでもいいと思うことにするわ」
そこで一旦話を止め、周囲に誰もいないことを確認してから告げる。
「無茶だけはしないでちょうだい」
それへの答を耳にして、やや呆れ気味に吐息。
「ホリンといい、あなたといい、こういう場面での『分かってる』が空々しく聞こえてしまうというのは如何なものなのかしら。――それじゃ」
電話を切って窓から南の空に数秒顔を向け、肩を小さくすくめてから、再び歩き出した。
陽の届かない暗く淀んだ路地裏が、一瞬、カッと赤光で照らされて、狼とも人とも思える幻獣は叫び声一つ挙げる間もなく炭と化して消え去った。次いで、パリンと何かが割れる音。音源には人影が一つ。
人影は幻獣がいた場所を一瞥。踵を返して路地裏を後にする。
路地を抜ければ日を浴びて、人影が、緋色のブレザーを着た特徴的な濡烏色の長髪を揺らす少女であったことが分かる。――――天宮璃央である。
(あれが最近、秋葉原周辺に出る特殊な幻獣? 確かに、この国特有というものがない)
神保町での用事の前に、フラリと立ち寄った秋葉原。
ふとしたきっかけで感じた嫌な気配を追って路地裏に追い詰めてみれば、漫画やアニメ、ゲームでおなじみの狼男がいた。そこら辺のジャンルに疎い璃央でも、神州臭さがない存在ではある。
右手中指に嵌めた銀の指輪に視線を落とす。本来であれば、そこには護身用のマテリアルがあるはずだが、それを用いて狼男を倒したため、今はただの輪っかである。
吐息。
平日通り、桐生夏紀か水城雛を護衛に連れておけば良かったという後悔を持つが、この後の用事を考えれば、マテリアル一つで済んで良しとする。
ここはちょうど秋葉原。マテリアルの補充がそこら中できく街である。
腕時計で時間を確認すれば、11時30分を少し過ぎた。約束は正午だから、時間はまだある。
とりあえず表通りへ出ようと歩き出すが、璃央はその足をすぐに止めた。通りの向こうを夏紀と雛の二人が横切るのが見えたからだ。
(何故ここに?)
揃って遊びにきた。それは可能性の一つだが、それが雛のみであれば頷ける。しかし、夏紀のイメージには合いそうもない。彼は用事がなければ鍛錬で時間を潰しそうだからだ。
知らず、二人を見かけた大通りに足が向き、周囲を見回してみるが、既に姿はない。
しばし通りに佇み、何かモヤッとした心を残してその場を立ち去った。
服の下――勾玉が微かに光るのを気づかずに……。
セツナは至福の溜息を吐いた。
目の前の膳は食べ尽くされ、溜息の主は満腹且つご満悦である。
「あぁ、うん……これはいい」
兄の言い分通り、確かに、父の自慢は正しかった。
――見た目は芸術品。おっかなびっくり壊してみれば破壊者の汚名を着たくなる。
最初は何言ってるか分からなかったが、セイジが「なるほど確かに」と頷くのを見て同じものをと望んでみれば――超ご満悦。
視界の中では、澄が口元をフキンで拭いて「ごちそうさまでした」と言い、秋が老年の板長に頭を下げている。
(イタチョー……シェフのことだったっけ?)
「ごちそうさま。すごくおいしかったわ」
「さようでございますか。ありがとうございます」
(あれ?)
妙な違和感に、セツナは顔色を変えず、ただ疑問を持つ。
(今、Englishで話そうとして、普通に神州の言葉で会話した? これは……)
抱く感覚はブリテン連合国内でのモノと同じ――バベルである。
(近くにアークセイバーがある? ふうん、セイジ達のクエスト、この近辺なんだ)
秋頃にメルカードで改修を受けたセイジのバイクは、搭載されているバベルの機能が向上し範囲が広がったと聞いている。と言っても3キロ圏内が限界とのことだが。
ふと、視線を感じて顔を向けてみれば、板長がセツナのことを懐かしそうに眺めていた。
「失礼しました。ある方にとても似てらしたものですので」
「そりゃ間違いなく日崎教官のことだな、うん。先代の九曜頂・日崎司でそいつの親父だよ」
「どおりで」
なにやら嬉しそうに納得される。
セツナとしては父にどこかしら似てると言われるのは悪い気はしないから、少し誇らしげである。
「日崎の若様は、浅草の本店に天宮の璃々様とよくいらっしゃっていました。懐かしいですな」
板長は、本当に懐かしそうに目を細める。
「ああっと、教官が若様で璃々様っつうと?」
兄の視線を受けた妹が「璃央のお母さんだね」と答えた。
「あぁ、世代同じだったもんな。うちの親父の一コか二コ下だったか」
「アオギリ、タカミヤ、あとウチのヒザキ、親の代で妙な繋がりを持ってたようね」
「妙っつうか、天宮と日崎で婚約とかしてて、んで、うちの親父は両家の当時の頂にとっては先輩だっただけ……いや単純に"だけ"とも思えないんだが」
つまりは"妙"である。
「ま、その妙さえも、更なる日崎当主の妙な国外逃亡でばらけちまったわけで」
秋が、日崎司の"妙"を父に尋ねた時、梧桐葉月はただ「その結果は既にお前の知るところだ」と答えただけであった。
「俺の知るところとか言われてもなぁ。手っ取り早く、国外逃亡の結果で星司と刹那が誕生したとでも思えばいいのかと」
「つまらない答ね」
「じゃあ、お前はもっと面白い答でもあるのかよ?」
そうね、とセツナはアゴに指を添える。板長が頭を下げて退室し、室内が静かになった。そこで澄が「こういうのは?」と口を挟む。
「子供の代で惚れた腫れたの運命的な出会いを……とか」
「そういうネタの漫画をリマから借りはしたけどね」
「え? 璃摩が漫画を?」
「おかしなことでも?」
「あ、いえ」
澄の記憶上の天宮璃摩は、家にも姉にも従順で到底漫画などといったものとは無縁であった。無論、御門の学生としての璃摩のことは知らないから、璃摩が雛や夏紀、それに勝利といった面々とそれなりに学生生活をしていたことまでは把握していない。
「あの子がセイジにまとわりつくのが、先代の恋愛のやり直しとかだったらまだ分かりやすいものを」
「いやあれは……」
璃摩が転生者であることは分かるが、学院内でその神名までを正確に知る者は少なく、セツナは知らない側に入る。だから、兄と後輩の間に互いの親の何かしらの情報がやりとりされたと見ているのだが、秋はセツナとは違った判断を持つようで、セツナの言葉に何か口に出そうとして言葉を濁す。
(奴のアレは、大方、長く会わなかったことの衝動か)
「あれは?」
「あ? あぁ、いや」
妹が首を傾げたのに対し、秋は誤魔化しの言葉を探す。そして適当に言った。
「母親の感情が娘に遺伝でもしたんじゃね?」
秋がそんなことをどうでもよさげに口走ったその時、襖がスパーン! と両開きに、勢いよく開いた。
「その話、詳しく聞きましょうか!」
威勢の良い登場をしたのは、緋の和装をした妙齢の女性だった。
「でたーーーーーーーーーーーーーーーーー」
「え校長?」
超驚きの兄とちょっと驚きの妹に、セツナは「ん? ん?」と女性と梧桐兄妹とを交互に見て、女性を指差した。
「誰?」
「今回の会合はここまでだな」
「そうですね」
烈士隊制服の青年こと不破正義と天宮学園制服の少女こと天宮璃央は、空いた席を共に見つめてそう口にした。
そこに座っていたのは九曜頂の一人である鏑木弦遊老人で、先刻、一本の電話をきっかけに席を辞している。
璃央の左にも席が一つ空いているが、こちらは母・天宮璃々が数分前に私用で席を立って空いたものである。
「ところで九曜頂・不破殿? 先程から気になっていることを尋ねても?」
璃央は視線を正義に移してそう口にする。
不破正義。先代である父が病に倒れてから、九曜頂の立場を継いだ新参である。もっとも、九曜頂としては新参であっても烈士隊では"武神"の称号で呼ばれる有名人だ。新参であることを理由に彼を軽んじる者はいない。
「かの武神を負傷させたのは、どちらさま?」
正義は「ふむ」と自らの胴を見下ろす。制服の下は包帯が巻かれているが、外から見て分かるものではないが……。
「熱を視られたか」
熱を視るだけで他者の異常を察する。
天宮璃央は、間違いなく、夏前の"ただの九曜頂・天宮璃央"だった頃よりも、あらゆる面で強い。敵にまわすのは得策ではない。それが、鏑木派と呼ばれる政治家達の出した答である。
九曜・不破も鏑木派に属しており、夏以降、九曜頂・鏑木弦遊に接触するようになった璃央と弦遊の行う会合には、九曜・不破の代表代理――今はもう代理ではない――として出席している。
「後れを取った。それだけだ」
正義は結果を隠さず素直に答えた。その解答を璃央は少し意外そうな顔で受け取った。
「多くの戦士は遅れを恥として他者には漏らさないものだと思いましたが?」
「遅れても命があれば、次に先んずればいい。
恥なのは、遅れを認めないことだ」
間を置いて、正義は「持論だがな」と付け加え湯飲みを手に取った。
「遅れを認める……ですか」
正直、意外である。
「恥によって失敗をしたこともあれば、こおもなる」
璃央の顔を見ていた正義が溜息混じりで口にした。
「こおなったところで、今、奴に勝てるかと聞かれても結果を想像出来ないのだが」
「奴?」
「そう、奴だ」
奴が何者かは言わず、正義はただ、茶をすすった。言うつもりはないらしい。
「しかし、遅れを認めて先に進むとは、文科省に言い聞かせたい言葉ではありますね」
正義にはこれ以上突っ込まず、話題を微妙に反らす。反らすというより、この場では話題を戻したとも言える。
今回、九曜頂が三人揃ってした会合の内容とはズバリ、魔法学への文部科学省の対応についてである。
夏にもたらされた西の技術を来年の教科書にはまだ反映しない、というのが文科省の出した解答だが、これに対して神祇院から疑問の声が上がり、九曜を通して抗議しろと通達があり、通達に関してどうするかと頭を付き合わせていたのが、ほんの三十分前のことである。
「どれほど学会が震撼しようと、文科省の上が変わらなければ教科書に反映すらされないというのは悲しい話だ」
「民間での結果を待つとする意見も出ているようですが、昨今の対外関係を鑑みるに、新しい魔法学の浸透は学生間だけではなく軍部においても推し進める必要はあるかと思います」
「まあ、な」
軍部に関しては、正義が既に推し進めているものがあるが、それを知る者はまだ少ない。
(留学生の彼らは短期間でかなりの成長を見せている。彼らが受けた訓練を軍の一部に行えば民間の成功例を待つ必要はないだろう)
どのような訓練をしたかは既に伝わっている。問題は、それを他者に教授出来る教育者が不在であることか。
(凛が神和の私兵にかかりきりでなければ、な)
正義のかつての同級生は、天宮の学生の他にも実家の私兵への技術教授に忙しくて、烈士隊そのものへの技術提供までは出来ていない。そこには九曜・神薙の分家長である神和辰哉の妨害もあるようである。
(国内で横の繋がりが足を引っ張り合うのは、LR以前も以降も変わらぬこの国の在り方だが、アジア連合の動きを見るかぎり、それをする時間はもったいない。アメリカの動きも不気味だ。
頭を切り換えるだけの危機感が必要という鏑木老人の言葉も分からなくもないが……)
「九曜頂・天宮殿は幼少に日崎司から学んだと聞くが?」
「私が先生に教わったのは基礎の基礎ですし、星司さんに魔力操作を教わるまではほとんど忘れていました。他者に教えられるほどではありません」
璃央は正義が続けるであろう烈士隊への教育を先に読んで断る。
「願わくば、あの人が……」
璃央が言いかけた時、璃々が戻ってきた。
「まったく、梧桐の男は……」
どこまでも深い溜息と共に。
「あおぎり……浅草の梧桐、ですか?」
娘の問いに、母は「その梧桐です」とくたびれたように応じる。しかし、母の様子を見た娘のかける言葉は違うもの。
「何か嬉しいことでもありましたか?」
かけられて、母は動きを一瞬止めて、何もなかったように席に着く。ただ、動きを止めたことには璃央は気づかず、気づいたのは正義のみ。
「他人を説教することが趣味と誤解されるようなことを言うのはやめなさい」
「……すみません。
それで、梧桐の男とは? 梧桐葉月さんでもいらっしゃっていたのですか?」
聞いてはみても、母が遭遇したのが澄の父・梧桐葉月とは思っていない。今まで、璃々が梧桐葉月と会って、嬉しそうに見えたことなど一度もないからだ。
(かといって、梧桐の"男"といえば……渡君? 神祇院で問題視されても、あの子は先輩と違って母様達にウケもいいし……)
「あそこの長男が一時帰国しているのよ」
「え、そっち?」
「残念なことに」
別段、残念でもないが「そうですね」と応じておく。
正義は「そう言えば」と彼にとっての些末事を口にする。
「昨日、ブリテン連合のVIPがこちらへ到着された際、護衛の中にそれらしき人物がいたとのことだが……」
情報に、璃央は「あぁ、なるほど」と頷く。
「ミスロジカルのクエスト、ですか」
(来るなら"あの人"が来ればよかったのに)
秋の存在に納得しつつ、どうせ来るならと本心を胸の内で呟いておく。
「アイザック・アルバートの護衛とのことだが……」
「九曜頂・不破殿の情報網に引っかかる相手なのですか?」
秋の護衛対象を知っているかのような正義の反応に、璃々が問う。
「ミスロジカル魔導学院十二期生で第二位の実力者だ。
その実力は極めて高く、卒業後すぐにグレナディア連隊に配属されている」
「ぐれなでぃあ?」
璃央の反応に正義は小さく首を振る。
「ブリテンの近衛兵団だ。
魔法戦が主力の今の世にあって、ようやく魔構が揃いだしたロイヤルズ・ドラグーンよりも戦いの中枢となっている」
正義は湯飲みを置いて続ける。
「各軍のエリートを揃える軍に卒業即配属され、尚且つ、一度市井に出た血を女王命令で王室に戻して爵位さえ与えている。
異例とも言える立場を考えれば護衛は必要かもしれないが、実力から言えば護衛は不要。
監視はつけているが、今のところは目立った報告はない」
「今、しれっと対外的な問題発言が聞こえましたが」
「気のせいだ、天宮先生」
説明の末尾を聞き咎めた璃々相手に、中等部時代の教え子は「問題ない」と両手を開いてみせた。
と、建物全体を揺れが襲う。揺れは数秒で、微震を残さず唐突に消える。そして、この一帯のどこかに設置されたスピーカーからサイレンが響き渡った。
「幻獣速報か」
落ち着き払った正義が手酌で茶を注ぎながら口にする。
サイレンを聞いていた璃々が「また秋葉原かしら?」と北と思しき方角に首を巡らせる。
「揺れの発生源が幻獣だとして、その後の微震がないのは結界か何かで封じたということか。良い手際だ」
「手際は褒められても、そういう人材のいない軍の長が褒めてもねぇ」
「ぐっ……。天宮先生も人のことは……、どうしましたかな?」
雑談に走りつつある正義と璃々は、無言で立ち上がった璃央へと視線を向ける。
「――野次馬です」
解答に、正義と璃々は「は?」と口を開けた。照れ笑いと二人の大人を残して廊下へと出た璃央は表情を引き締める。
(先程のはアナウンスがなかった。とすれば"緊急"幻獣速報のはず)
緊急すぎてアナウンスの準備が間に合わない場合、サイレンだけを先に鳴らすようにしている、というのは秋葉原自警団に所属する同級生から得た情報である。
つまり、今、自警団にとって切羽詰まった事態に直面していることになる。それがどういった事態なのか個人的に気になる。所謂一つの興味本位。だが、興味の対象は事態一つに対してだけではない。
(梧桐先輩が帰ってきているなら、きっと今回の騒動に首を突っ込むはず。性格上、絶対に)
ミスロジカルの在校生の実力を星司以外にも知っておきたい。それが野次馬の理由でもあった。秋ならば、中等部での実力を知っているだけに現在との差を計算することも可能かと即座に考えたのだ。
料亭を出て秋葉原へと走って移動する璃央の目に、秋葉原から逃げてくる人々の姿が映る。それは奇しくも、末広町での一件を想起させる。人の数も悲鳴もあの時とは比べものにならないくらいに少ないけれど、万世橋手前の高架下で足が止まる。
項垂れて、視線が向くのは足下。こういうパニックを見るのは二度目だが、慣れるものではない。一度目の光景があまりにも酷すぎた。この場に来たのは自身の好奇心だから、ここで足踏みするのはある意味恥だ。だから、一度強く目をつぶり、首を振ってから頭を上げ、正面をちゃんと見て歩き出そうとして――逃げてきた人の肩が当たって大きくよろめいた。
「っつ……?!」
転びそうになった璃央は、そっと、その背中を支えられた。