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迷宮世界  作者: 傍観者
8/40

影の通り魔5

 いつも通りの日常。それは毎日変わり映えなく物事が進んでいく。


 そんな日常に不満は無かった。

 刺激が無く退屈だと感じる人もいるが、それでも幸せだと思えていた。


 朝起きて家族の朝食を作る。夫と子供達を起こし、たわいもない会話と共に朝食を食べ終える。子供達がワイワイと騒いでいる中、洗い物を済ませ洗濯機のスイッチを入れる。どこか頼りない夫のネクタイを結び、忘れ物がないか確認を取る。それぞれ弁当を持たせ、元気良く出掛けていく子供と夫を笑顔で見送る。それから洗濯物、掃除、買い物とテキパキとこなす。


 確かに変わらぬ日常であるが満足出来る日々を送っていて何の不満があるだろうか。


 頼りない夫ではあるが二人の子供も授かり、すくすくと成長していく様子も楽しく毎日が過ごせる気持ちの一部だった。


 それが崩れていったのはいつ頃からだろうか。


「ねぇ〜、パパは〜?」


 六歳になる息子が、帰って来ない夫の所在を尋ねる。

 いつもははしゃいでいて騒がしい息子も今は静かにしている。


「パパね、急なお仕事が入ったの。もう少しで帰って来るからね」


 妻は夕食の準備を一旦止め、息子の頭を優しく撫でる。


 込み上げる不安感を持っているのは妻だけではなかった。一つ下の娘もソファーに座り何をするわけでもなく静かにしている。


 いつもより信じられない程元気の無い子供達だったが、その理由を尋ねる事など恐くて出来なかった。


 この不安を言葉にするだけで身体が震えてくるような居心地は何なのか?いつから不安というものが芽生えたのか?


 そう――あれは半年前からだ。


 夫が何かを隠すようになった時から、少しづついつもの日常が変わっていった。


――ゴロゴロゴロ……


 そんな事を思考している時、暗くなった空が一瞬明るさに包まれ唸るように音を響かせる。


「……雷? 今日は一日中晴れの予報だったのに……」


 空からはポツリ、ポツリと雨粒が落ちていた。

 予報とは全く逆の天候に底知れない不安が増す。


――早く帰ってきてよ……あなた


 妻はそんな思いをただ祈るだけであった。








 筋肉質の男は管から大きめのナイフを引き抜いた。


 胸からは(おびただ)しいほどの血が溢れ、管はまるで人形のように崩れていった。


 急所を外すなど野暮な手段は選ばない。失敗した時の危険因子はこうして排除していくと言わんばかりに、寸分の狂いも無く心臓を貫いていた。


 生死を確かめるまでもないこの状況で、筋肉質の男は高らかに笑った。


 ポツリポツリ降っていた雨もいつの間にか本降りになり、管の周りを血の海に変えていく。


 誰が見ても悲惨と思える現状の中、浩介は拳を握り締めた。


「……それがお前等のやり方か?」


 怒鳴る事もせず、牧師と男を睨む。

 それに牧師はフンッと鼻で笑った。


「そうだ。こいつをこのまま生かしておくにはリスクがあるのでな」


 そう言って牧師は倒れている管を足で蹴り、仰向けにさせた。

 既に絶命している事を確認し、筋肉質の男の肩に手を置いた。


「そして勿論、君達にも死んで貰う」


 当然と言えば当然である。


 管を殺しておきながら、浩介達を生かしておく筈は無い。ましてやそこまで追い込んだのは全貌を暴いた浩介達に他ならないのだ。


 この逃げられない状況に浩介は腹を括り、いつでも動けるよう楽に構えた。

 注意すべきは筋肉質の男だけだ。一度戦闘になってしまえば牧師など輪の外だ。


 綾華に少し下がるよう伝え、浩介は筋肉質の男を凝視していた。


「知っての通り、この男は組織に鍛えられたメンバー。加藤沙耶という女を殺した依頼屋だよ。君も抵抗しなければ楽に死ねる」


 牧師の言った事は大方の予想はしていた。

 出しているオーラ、管を殺した身のこなしを見てもかなりの実力者だと分かる。この場所に来ている事も考えれば、事件に関与している人物だ。

 管を依頼者という立場に置けば、牧師は計画犯、残すは実行犯ということになるのだ。



「悪いが最大限に抵抗させてもらう。そう簡単に死ぬ気は無いんでね」


 身構える浩介に男はベットリと血の付いたナイフをポケットから出した布巾で丁寧に拭いていく。

 その布巾をその場に捨てると一歩浩介に近ずく。


「まあそう警戒すんなよ。あんたを殺すのはもう少し後なんだからよ」

「!?」


 それに驚いたのは牧師のほうだった。


「何を言ってる!?こいつらをここで殺す為にお前を連れて来たんだ!みすみす逃がすつもりかっ!!」


 組織の概要を世間に知られたくない。その為の手段として抹殺という方法を決めたのは紛れもなく依頼屋組織そのものだ。

 ここで浩介達を生かしておくことはその組織自体にリスクを背負わせる事になる。


 男は苦笑しながら短髪の髪をボリボリと掻いた。


「そうじゃねーよ。こいつらはここで殺す。それは間違い無い。だが、その前に問題はあんただよ」

「何っ!?」

「あんたの計画でそもそもこうなったんだ。金欲しさに下らん依頼を俺に頼んだお前の落ち度は大きいぜ」


 牧師の顔は見る見る青ざめていく。


 組織がそんな牧師を野放しにしておく訳がなかった。


 一般人から取れる金額は限られる。闇の組織なだけにその金額は微々たるものである。ましてやその計画も見抜かれたことで組織は牧師をも危険因子と判断した。


 下らない依頼――


 男が言ったように組織にしたらメリットの少ない、ましてや無いと言っても過言ではない依頼だった。そして結果が全てであるという理念の元、この結果は到底許されるものではなかった。


「何故だ!私はどれだけ長い間あんた達の組織に手を貸したと思っているっ!? たった一回……たった一回ミスをしただけで私から手を切る気かぁ!!」

「あぁあー、うっせーな!ガタガタ騒ぐな」


 男は騒ぐ牧師に対し耳を塞ぐポーズをすると、さぞかしめんどくさいといった表情をした。


「あんたがどう足掻こうが、これは上からの命令なんだ。それに、一回ミスをして生かしておく程組織はあんたを重要視してないんでな」


 ストレートに言い放った男は牧師にナイフの切っ先を向けた。

 牧師は思わず腰を抜かし、雨で濡れたコンクリートの床に尻餅を付く。


「あんたに恨みはないが、死んで貰うぞ」

「ちょっと待てよ!!」


 その言葉で男は牧師から声を出した相手へと視線を移した。その相手は勿論浩介である。


「あんたら組織の事情なんて知らないが、そういった手段を取っていると知った以上尚更そいつは殺させない!」


 組織をこのままにしておく訳にはいかなかった。

 今まで犠牲になってきた人達は計り知れない。ならばその全容を表に出させなければ何も変わらない。その為には牧師に生きて全てを話して貰う必要があった。


 浩介は男に一歩近付いた。


「高崎浩介。安易な正義感からものを言うのは止めとけ。結果は変わらないぜ」

「ただあんた等がカスの集団だと認識しただけさ。正義感なんかじゃない。それに……俺を殺したいんだろ?」


 浩介は笑みを浮かべ男を挑発した。


「……ほう」


 身体が疼く――


 男はそんな感じを抱いていた。今まで何人も殺して来たがこんな感情は久し振りだと笑みが零れる。


 静寂の中コンクリートに打ち付ける雨音だけが聞こえてくる。


 張り詰めた緊張感に綾華も声を呑む。

 大きな組織が絡んだ一つの事件から始まりどういう結末を迎えるのか、綾華は無意識に胸の前で祈るように両手を絡めていた。


 そして先に動いたのは男だった。


「ぶはっ!!」


 男は近くにいた牧師の腹を力一杯蹴り上げた。

 地面に座る形になっていた牧師は突然の事に受け身も取れず、三メートル飛ばされ苦しそうに倒れ呻いている。


「こいつは後でいい……。高崎浩介。俺を失望させるなよな」


 浩介に向き合う男からは闘争心が溢れ、正に戦闘狂といった感じだ。


 浩介もゆっくりと戦闘姿勢で構えた。


「安心しろ。お前に屈辱を与えてやるよ」

「……それは楽しみだ」


 男は構えもせず突っ立つ形を取った。だが隙は無い。


 状況では浩介が圧倒的に不利だ。

 相手の手に握られているナイフをチラッと見た浩介はそう自覚した。不用意に近付けばあっと言う間に殺られる。だが近付かなければ勝算は無い。この間合いを失敗すれば命の確証は出来ない。


――ならば……


 浩介は地面を強く蹴り一気に男までの距離を詰めた。あくまでも自分の間合いへと男を入れることを意識し、絶妙なタイミングで顔目掛けて拳を振り抜いた。


「――っ!?」


 予想以上のスピードと無駄の無い動きに男は驚いたが、迫る拳を寸前のところで顔を後ろへ逸らし回避した。


 あくまで躱されることは想定内だった。今度はそのまま体を反転させナイフを持つ右腕に回し蹴りを放つ。

 蹴りは見事に命中し、男はその衝撃でナイフを落とし体勢を崩した。

 浩介はその好機を見逃さず、再び顔を殴った後体を蹴り飛ばした。


 落下防止の為の網状のフェンスにぶつかる事で勢いが止まった男は、崩れ落ちる事なく張り付けのような格好でフェンスを掴み、浩介に顔を向けニヤリと笑う。


 そして何事も無かったかのように体勢を直し、殴られた時に切った口元の血を親指で拭き取った。


「成る程……大口を叩くだけの事はある。お前、何か格闘技でもやってたか?」

「いや、何もしてない。それに格闘技じゃお前に勝てないだろ?」


 逆に浩介は質問を返し、そりゃそうだと男は肯定した。


 格闘技のような動きでは型が決まり簡単に男に見破られる。あくまでスポーツでの動きの為、訓練を重ねた強者であろうとそこにはルールが存在する。

 しかしルール外となるとその動きは極めて単純なものに変わり、それ以外の動きは僅かではあるが鈍ってしまう。


 これは命を賭けた殺し合いだ。その僅かな鈍りでさえ致命的となることを浩介は知っていた。だからあくまで殺し合いの中での動きを実践していた。否、それしか知らなかったのだ。


 型にはまらない浩介の動きは相手にとっても予測が付け難く、パワーとテクニック、スピードと感覚全てをその場の状況で変化させ、自分流の戦闘スタイルで戦っていた。


 その一般人とはかけ離れた戦闘能力に男は驚いていたのだ。


「お前もこっち側の人間か?」

「一緒にするな。その一線は見極めているつもりだ」

「なら、その一線を踏み出す覚悟もしとけよ!!」


 今度は男から仕掛けた。


 同じように距離を詰め、流れるような動きで攻撃を繰り出す。浩介と同じ――いや、それ以上のキレの良い動きで多種多様な技を繰り出す。そして圧倒的なパワーで全て急所になる箇所を突いて来る。


――このままじゃマズい!!


 防ぎ、躱しの防戦一方の浩介は男の動きが徐々に早くなっていくのを感じていた。


 攻撃しようにもそのタイミングさえ与えない男は不適に笑う。


「どうした!?こんなもんか!?」

「クソッ!!」


 浩介は強引に拳を放ったが、簡単に防がれそれが隙を作る羽目になった。


「オラァァ!!」


 男の一撃が浩介の顔に直撃し、その反動で倒れそうになるが直ぐにバックステップをとり倒れる事はなく距離を取った。


「寸前で後ろへ跳び衝撃を弱めたか。そのままなら致命傷だったな」


 それでも口の中を切った浩介は溜まった血を吐き出し男を睨む。


「桁外れの力だな。危なかったよ」

「楽しいねぇ。普段は下らん奴らを相手に依頼を遂行するだけだが、こんなに楽しい戦闘は久々だぜ」


 いつもなら相手はもう戦闘不能になっている。だが浩介はまだ致命傷を貰っていないばかりか、一撃を与えている。


 それを男は快感に捉えていた。


「俺は東野和樹(とうのかずき)。依頼屋組織実行部に所属している」

「どんな気の変わり様だ?」

「冥土の土産だ。楽しい戦闘をしてくれるお前にな」


 東野は最初に落としたナイフを拾うと、濡れた取っ手を脇の下で拭いた。


「当然だが俺は本気で殺しに行くぜ」


 拒否権の無い浩介は構える事で承諾した。


 東野は直ぐ攻めに出る。


 ナイフを駆使し怒濤(どとう)の攻撃を仕掛けていった。



 隙のない動きをするのは相変わらずであるが、浩介も思考を全て戦闘に集中させ東野を凌ぐかのような機敏な動きでそれらを躱し、反撃さえ繰り出していた。


 軽い切り傷は少しずつ増えていくが、浩介の攻撃も東野の胴体を捉え始め、その痛みで少しずつ動きが鈍っているのは明らかだった。


 勝算を見た浩介は一気に猛攻を仕掛け攻撃が当たる回数も増えていった。


「まだまだだぜ……まだたんねーよ」


 強気の言葉を出すが顔に余裕は無い。


「……強がりやがって」


 ナイフの突きを出してきたのを避けると同時に脚に強烈な蹴りを入れ体勢を崩させた。だが東野はそれすら気にする事無く、そのまま浩介の腹にナイフを突き刺そうとする。


――クソッ


 まだ躱せる。だが躱せばこの好機を潰す事になる。

 浩介は一瞬悩んだが、予定通り崩れた体勢の東野の顔面を渾身の力で殴りつけた。


 東野は吹っ飛び、フェンスにぶつかり崩れ落ちた。


「――うっ! くそ……」


 そして浩介もまた地面に膝をついた。脇腹からは真っ赤な血が雨と共に地面に落ちる。


「浩介!!」


 そう叫び走って来たのは綾華だ。


 雨なのか泣いているのかは分からないが、顔は今にも泣き出しそうに崩し浩介の前でしゃがみ込んだ。


「心配無い。掠めただけだ」


 突き刺さりはしなかったが、それでも傷は深い。綾華に心配させないよう軽めに言ったが、溢れ出る血の量から軽傷でないことは綾華も分かっていた。


「今すぐ救急車を呼ぶから!」


 携帯を取り出そうとした綾華だったがそれを浩介が手で抑えた。


「何で――?」


 浩介が見ていたのは綾華では無かった。綾華もその視線の先を追うとそこには立ち上がっている東野の姿があった。

 鼻血を流し、形からして骨も折れている。


「それなりに打たれ強さもあるって訳か……」


 会心の一撃だった訳ではない。ナイフで横腹を突かれた事によりその分威力は落ちたのだ。それでも十分な手応えはあったが東野には致命傷には至らなかったようだ。

 浩介も脇腹を押さえ、激痛で顔をしかめながら立ち上がった。


 東野は鼻に手をやり、顔を振ってポキッと骨の形を直す。


「ふぅ……効いたぜ、お前のパンチ」

「ならそのまま寝といて欲しかったな」


 東野は笑みを浮かべた。


「それはできねぇ相談だ。俺も負ける訳にはいかねぇからな」


 それを最後に両者は再び戦闘態勢になる。お互い身体に負担があり本来の動きは出来ない。つまり長期戦は無いと自覚していた。


 死にたくないというのは誰でも同じだが、浩介が死ぬことは綾華も死ぬことに繋がる。それだけは防がなければと思考しながら、じわりじわりと東野への距離を詰めていった。


 だがその時、予想もしていなかった事態が起こった。


 落ちていたナイフを拾い、東野に刃を向ける牧師が立っていたのだ。

 手足はブルブル震え、ナイフの照準さえ定まっていない。腰は引け恐怖の顔を向けている牧師に浩介は舌打ちをした。


「あぁ?お前はお呼びじゃねーよ、牧師さんよぉ」

「何してる!?早く逃げろ!!」


 依然動かない牧師に浩介は叫んだ。


「だ、黙れ!……殺される前に……こ、殺してやる」


 だが、恐怖心が体を支配された牧師は一歩も歩けなかった。


 一方の東野は躊躇無く牧師に近寄って行く。


「くそっ!」


 ここで牧師を殺される訳にはいかない。東野を止めようと走ろうとした浩介の脇腹が激痛を伝え、浩介はその場に倒れた。


「逃げろ!!」


 倒れても牧師に向かってもう一度叫ぶ。


 東野は牧師から簡単にナイフを奪い取ると、牧師の顔に両手を挟んだ。


「じゃあな、牧師さん」


 一言そう言い残し、牧師の顔を思い切り捻った。


――ゴキッ!


 首から上があらぬ方向に曲がった牧師は白眼のまま倒れていった。


「……っ!!」

「何だ、そんなに助けたかったか?あいつはあんたらにしたら敵なんだぜ?」


 俯いたまま地面の上で握り拳を作る浩介に、冷めた口調で問い掛けた。

 その言葉で浩介は顔を上げた。


「……そうじゃない。そいつは確かに敵で許すことは出来ないが、死ぬことじゃ何も解決しない」

「それは意見の不一致だな。俺達組織の人間はあいつを殺したい。リスクがあるからだ。だがその組織を暴こうとしているお前達は牧師を生かしたい。それだけの情報を持っているからな。要は、俺達は交わることのない敵だということだ」

「分かってる。だから今度はお前を檻の中へぶち込む」


 浩介はゆっくりと立ち上がり今までにない冷ややかな眼差しで東野を睨んだ。


「浩介……」


 綾華は浩介が戦うことに不安を抱いていた。

 これ以上深手の傷を負えば間違い無く命に関わる。だが浩介の顔を見ればそれすら覚悟しているのだ。浩介が勝とうが負けようが、どの道『死』というものが思い浮かぶ現状に底知れぬ不安があった。


 そんな綾華の思いとは裏腹に浩介が動いた。


 傷を負っているとは思えない程のスピードで距離を詰め、攻撃を開始した。


東野も流石というべきか、一瞬の攻撃を見切り、避けながら浩介の首にナイフを振りかざす。


――()った


 躱すことは不可能なタイミングだ。東野も終わったと思っていた。


 だが浩介は左腕を間に入れることで防いだのだ。


 止まることのないナイフはそのまま浩介の左腕に突き刺さり、首に到達する事は無くそのまま東野の頬を殴り飛ばした。


「ぐっ!お前……」


 東野はよろめきながら呟いた。


 浩介は左腕からナイフを抜き取り、息を一つ吐き出した。


「これが俺の覚悟だ。俺が倒れるのが早いか、それともお前か。これからは持久戦だ」

「おもしれぇ!」


 東野は滅多に味わう事の出来ない高揚感を覚え、口元を吊り上げながら向かって行った。

 そして完璧な間合いで素早く浩介の顔へ左拳を振り出した。


 東野の利き腕は右である。じゃあ何故左手でパンチをしてくるのかと疑問に思う浩介だが、考える時間も無く咄嗟に右腕でガードした。

 しかし振り出した左手は直前でピタリと止まり、次は右手を振り出した。


――なっ!?こいつ!!


 そこで浩介は理解した。


 ガードに使っている右腕を解除して再びガードするには間に合わない。ならば左腕でガードするしかないのだがナイフの突き刺さった左腕が素早く動く筈も無い。そして東野の右拳がそのまま浩介の左腕に直撃した。


「ぐあぁぁっ!!!」


 ピンポイントに捉えた傷口から血が噴出し浩介は膝を付いた。更に東野は浩介の脇腹に蹴りを入れ追討ちをかけた。


 浩介は軽く飛ばされ地面に仰向けで大の字になって倒れた。


「――っ!!」



 悲痛な面持ちの綾華も、対する東野も終焉(しゅうえん)を迎えたと思った。ぴくりとも動かない浩介から流れ出す血液がそれを物語っている。


――身体が軽い……


 だがそれが今の浩介が感じている異変だった。


 頭の中は余分な考えも無く何故かスッキリとしていて意識もはっきりしている。次に右手の指を少し動かし、左手の指も動かす。


――左腕は危ういが、体はまだ動く!


 自分の意識と身体を簡単に分析し、まだ戦えると思考した浩介は近場に落としたナイフを握り、ゆっくりと体を起こし立ち上がった。


「こう……すけ……?」

「なっ!?お、お前…まだ……」


 有り得ない!というように綾華は号泣し、東野は驚愕していた。


「まだ……終わってないぞ」


 弱々しく、だがはっきりと口に出した。


「……っち!今度は殺してやるよ!!」


 東野は地を蹴り一瞬にして浩介の懐に入った。だが浩介に焦りは無い。


 研ぎ澄まされた集中力で東野の動きが鮮明に読み取ることが出来、まるでスローモーションになったかのような感覚であった。


 今まで感じたことの無い感覚で東野の攻撃も簡単に見極められたのだ。


「てめぇ!!」


 東野が出した強烈な拳をいとも簡単に避ける。次の蹴りもバックステップで躱した。


 簡単に躱されることに募る苛立ちを隠せない東野は一撃に賭けるかのように大きく右腕を振りかざした。


「ぐぁっ!!」


 ところがそれが届くことはなく、浩介は振りかざした瞬間の隙を見逃さず右肩にナイフを突き刺した。


 東野は距離を取り右肩を押さえながら浩介を険しく睨んだ。


「お前みたいな奴がいるとはな……」

「言っただろ。屈辱を与えると」


 痛みは感じない。良く言えば浩介にとって生きる懸橋となり、悪く言えば死への前兆となる。


 これが死ぬ時の感覚かと思いつつ、何もしないで殺されるより幾分マシだとポジティブな考えであった。


 暫く沈黙が続き決着への道筋を思考する両者の間に、聞き慣れない女性の声が遮った。


「和樹がここまで追い詰められるのは初めてね」


 突然の声で三人は一斉に聞こえた場所、屋上の入口へと目線を移す。


 そこにはラフな格好だが胸元をパックリ開けたスタイル抜群の女性が傘を差し、血の海と化した悲惨な光景を眺めていた。


――新手か……


 一見何処にでも居そうな二十代後半の女性という印象を受けたが、東野を知っているとすれば同業者という考えで間違いない。


 そう判断した浩介は尚更死への確率が高くなったことに、ただ苦笑するのであった。


 それを見た綾華は直ぐに浩介へと駆け寄り体を支える。


 自分がどうにか出来るとは思ってないが、綾華もこの状況になったことで命を懸けることを決意し、浩介の一歩前へと出た。


 一方の東野も怪訝な表情をしている。


「何しに来やがった、玲奈!助太刀なんていらねぇ!!」

「何を言ってるのよ?私があなたの闘いを邪魔したことある?」


 玲奈と呼ばれた女は微笑みながらそう答えると東野に近付いていった。


「……無いな。じゃあ何をしに来た?」


 今まで助けられた記憶など無い。ならどうして此処に来たのか疑問に思いながら女性の言葉を待った。


「撤退命令よ」

「あ!?」


 東野としてもそれは予想外の返答である。


「牧師の真似をするわけじゃねぇが、今更こいつらを見逃せっていうのか?」

「組織として今あなたを失う訳にはいかないし、デメリットも多いと上層部は判断した。百パーセント勝てると保証出来るの?」


 それに東野は答えられなかった。今の浩介と戦っても勝てる自信はあるが、確証は出来ない。もし負ける事があれば組織は大打撃を受けると想定した上での判断だと考える。


 だとすれば東野が勝てると保証しようが、今の状況では個人の東野に集団の組織が任せきる程安心出来るものではない。つまり、東野が何を言おうが決断が覆ることは無いのだ。


 苦虫を噛むような表情で無言の東野の様子から了承したのだろうと判断した女性は満足そうに一度頷き、浩介達に顔を向けた。


「私は烏丸玲奈(からすまれいな)。悪いけど、私達はここで失礼するわ。あなた達が黙認するなら当分組織からの刺客は来ないから安心していいわよ。それとこの惨劇の現場も処理班が綺麗にするわ」


 それだけ言うと、携帯を取り出しどこかに電話を掛けながら校舎内へと消えて行った。


 東野も濡れた髪をボリボリと掻き、やるせないような顔で浩介に視線を向けた。


「……っち!まあしゃーねぇな!楽しかったぜ、高崎浩介。またいずれ決着を付けよう」

「もう会いたくないんだがな」

「………つれねーな」


 そう言って苦笑いを浮かべ、屋上から消えていった。


 二人だけになったことで緊張感が切れたのか浩介の体に痛みが走り、倒れそうになるのを綾華が支えた。


「浩介!大丈夫なの!?」


「悪い、綾華。……肩、貸してくれるか?」


 綾華はコクンと頷くと傷の軽い右腕を自分の肩に巻くように掛けた。


「……無茶しすぎ」


 一歩一歩と屋上の出口へと歩いて行く途中、綾華は小さく呟く。


「悪い」


 浩介は謝ることしか出来なかった。


「……心配かけ過ぎ」


「ああ。心配、かけたな……いや、もうちょっと心配かけるわ……」


 もう少しで意識を失うだろうと自覚し笑顔を見せた。


「……ばか」


 その一言と共に、浩介を支える手に力を込めるのだった。



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