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白いリボンがほどけるまで  作者: 芦名 雅


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16/16

エピローグ 不明

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。

特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません


八十余年後。

青凪島の六月は暑かった。

資料館のガラス扉が開くたび、冷房の冷たい空気と外の湿った熱気が入れ替わった。駐車場では観光バスのエンジンが低く唸り、海の方から明るい蝉の声が聞こえる。八十余年前と同じ季節だったが、誰も空の音に身を伏せなかった。

県立青凪平和資料館に修学旅行の高校生たちが入っていく。

「暑い」

「このあと海?」

「集合何時?」

どこにでもいる高校生たちだった。

二年三組の佐伯真帆も、その一人だった。

真帆は歴史が嫌いではなかった。ただ、年号と地名を覚えるのが得意なだけで、自分と過去がつながっている感覚はほとんどなかった。戦争についても、試験に出る言葉なら知っていた。動員、撤退、終戦。

けれど展示室へ入って最初に気になったのは、古い制服の小ささだった。

「これ、私でも着れそう」

隣にいた友人の莉奈が言った。

真帆も頷いた。

教科書の写真の中では「女学生」とひとまとめに見えた人たちが、急に自分たちと同じ肩幅を持つ人間になった。

展示室の最後に、一枚の集合写真があった。

女学生十三人と女性教師。

全員が笑っていた。

写真の横には名前が並んでいる。

宮里灯子。

真栄田千鶴。

新垣澄江。

比嘉夏子。

城間律子。

金城初江。

与那嶺朝子。

山城かな。

上原美代。

宮城富美。

仲宗根良子。

大城文。

喜屋武節子。

仲村昌子。

その下に、小さな文字で記録が続いていた。

『生徒十三名、引率教師一名。帰還者なし』

死亡場所が分かっている者。

推定しかできない者。

遺骨が見つかった者。

遺品だけが見つかった者。

何も見つからなかった者。

死亡日時の欄には、『不明』がいくつも並んでいた。

展示ケースの端には、調査記録の複製もあった。遺族への聞き取り、発見場所の略図、照合できなかった遺品。文章は事務的だった。

『推定』。

『確認できず』。

『証言なし』。

真帆は、記録が詳しくなるほど過去が分かるのだと思っていた。けれどここでは、詳しく調べた結果として「分からない」と書かれている。

誰かが怠けたから空白なのではない。探しても、聞いても、残っていなかった。

その空白そのものが、戦争によって失われたものだった。

真帆は「不明」の二文字が、どの名前にも同じ大きさで印刷されていることに気づいた。けれど、その二文字の向こうには、呼ばれても返事をできなかった時間、誰にも見られなかった場所、何を思ったかさえ残らなかった瞬間が一人分ずつある。資料の整った文字が、かえって空白の大きさを際立たせていた。

『最終確認地点 不明』

『死亡状況 不明』

『最期の言葉 記録なし』

真帆は、その「不明」という文字を何度も見た。

隣のケースには、茶色く変色したノートがあった。

泥と焦げ跡が残っている。

戦後、旧東谷道付近で発見されたものだった。

記録された名前は二百名を超えていた。

しかし最後の数頁はほとんど空白だった。

途中から、誰かの名前だけが並んでいる。

『山城かな 十六歳』

その下は空白。

『上原美代 十六歳』

『宮城富美 十六歳』

『仲宗根良子 十六歳』

『大城文 十六歳』

『喜屋武節子 十六歳』

五人の横には、『撤退時行方不明』とだけ書かれていた。

それ以上はない。

昌子についても、名前と年齢だけだった。

最後に何を言ったかは書かれていない。

初江も。

朝子も。

律子も。

千鶴も。

澄江も。

夏子も。

灯子については、本人が最後まで持っていたため、自分の死亡記録など当然なかった。

ケースの端に、一本の白いリボンが置かれていた。

説明にはこうあった。

『旧東谷道付近でノートとともに発見。学徒の所持品とみられるが、持ち主は特定できていない』

誰のものか分からない。

リボンは黄ばんで、端が少し裂けていた。写真の中では十三人の髪に同じ白が並んでいる。目の前の一本がそのうち誰のものだったのか、もう決めることができない。真帆はその分からなさに、説明板のどんな文章よりも長い時間を感じた。

かなのものかもしれない。

灯子のものかもしれない。

別の誰かのものかもしれない。

一本だけ残った。

残る理由があったわけではない。

燃えなかった。

土に埋まらなかった。

誰かが拾った。

それだけだった。

真帆は別の説明板を読んだ。

学校に残った作文や家族の証言から、卒業後の希望が分かっている生徒もいた。

教師。

洋裁師。

小説を書くこと。

役場で働くこと。

美容師。

郵便局員。

しかし数人の欄には『記録なし』とあった。

何になりたかったのか。

誰を好きだったのか。

何が嫌いだったのか。

戦争が終わったら何をしたかったのか。

もう誰にも分からない。

死んだことで夢が叶わなかっただけではない。

夢が何だったのかまで消えた。

館内放送が流れた。

集合時間まであと十分。

真帆の友人が来た。

「行こう」

「うん」

真帆はもう一度写真を見た。

写真の中で、夏子だけが少し横を向いていた。黒糖を食べていたせいだと説明には書かれていない。当然だった。そんなことは公的な記録に残らない。

千鶴が灯子のリボンを直したことも、かなと初江が髪のことで言い争ったことも、律子が細かいことで皆を叱ったことも、資料館は知らない。

記録に残るのは、生年月日、学校名、動員先、死亡推定地。

人間一人の生活に比べれば、驚くほど少なかった。

真帆は初めて、「覚える」というのは全部を保存することではないのだと思った。全部は残せない。だから、残らなかったものがあったことまで忘れないしかない。

十三人は笑っている。

その笑顔だけでは、このあと全員が死ぬことなど分からない。

資料館の外へ出る。

車が走っていた。

学生がジュースを買っていた。

誰かがアイスを食べていた。

小学生が先生に叱られていた。

何でもない一日だった。

途中、青凪女学校跡の近くで信号に止まった。道路脇に大きなガジュマルが見えた。幹は太く、枝は何本も道路側へ伸びていた。

莉奈が窓へスマートフォンを向けた。

「大きいね」

「うん」

それだけだった。

木は八十余年前にもそこにあり、十四人が写真を撮る後ろに写っていたという。けれど木そのものが何かを証言するわけではない。ただ伸び、葉を増やし、季節が来れば影を作っている。

真帆は、その無関心な長さを少し怖いと思った。人が十六歳で途切れても、時間の方は途切れない。

横断歩道の信号が変わり、制服姿の生徒たちが笑いながら走った。アイスの包み紙が風で転がり、店員が拾いに出てきた。叱られた小学生はすぐ友達のところへ戻っていった。どの出来事も記録に残らない。だからこそ、真帆にはそれがひどく贅沢なことに見えた。

真帆は、その何でもなさを見た。

あの十四人にも、本来ならこういう日が続くはずだった。

それを奪った死に、後から立派な意味をつける必要はなかった。

必要な犠牲だったわけではない。

美しい最期だったわけでもない。

ほとんどは、何の準備もない死だった。

誰かの人生の途中に、砲弾や病気や一発の銃弾が割り込んだだけだった。

数週間後。

真帆の家で、中学生の妹がスマートフォンのメモを見つけた。

そこには十四人の名前だけが打ってあった。

「これ、誰?」

真帆は少し黙った。

「昔、この島にいた人たち」

「何した人?」

真帆は答えようとして、やめた。

何かを成し遂げたから覚えるのではない。

立派に死んだからでもない。

「何もできなかった人たち」

妹が首を傾げた。

真帆は言い直した。

「何もできないまま、死なされた人たち」

妹は画面を見た。

「なんで?」

真帆は答えられなかった。

資料館にも、その答えはなかった。

だから名前から話すことにした。

一人ずつ。

分かっていることだけ。

分からないことは、分からないまま。

分からないことは、分からないまま残った。それでも名前だけは、次の人の口へ渡っていった。

(完)


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