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深夜二時のオムライス

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/03

人は、人生に疲れたとき何を求めるのでしょう。

お金でしょうか。

恋でしょうか。

それとも、誰かの優しい言葉でしょうか。


けれど時々、人を救うのは湯気の立つ一皿だったりします。


バターの匂い。

フライパンの音。

深夜二時の静かな店内。

誰かが「うまい」と呟く声。


この物語は、料理で人生を変えられた人たちの話です。


空腹の時に読むと、少し危険かもしれません。



 深夜一時四十分。

 駅前の明かりはほとんど落ち、終電を逃した人間だけが街を歩いていた。


 瀬尾悠真は、コンビニの白い袋を片手に、宛てもなく路地を歩いていた。


 六月の湿った夜風がシャツに張りつく。

 自販機の光だけがやけに眩しく見えた。


 会社を辞めてから二週間。

 朝起きる理由も、誰かに必要とされる感覚も、もうどこにもなかった。


 広告会社で働いていた頃は、毎日終電だった。

 上司に怒鳴られ、数字に追われ、クライアントの機嫌を取り続けた。


 それでも「頑張れば認められる」と思っていた。


 けれど、ある日の会議で、自分が三ヶ月かけて作った企画書を部長に破られた。


「こんなの誰でも考えられる」


 その一言で、何かが切れた。


 次の日、悠真は退職届を出した。


 引き止める人はいなかった。


 コンビニのおにぎりを食べる気にもなれず、悠真は袋をぶら下げたまま歩き続けた。


 すると、細い路地の先に、小さな灯りが見えた。


 古びた木の看板。


『キッチン・ミナト』


 昭和から時間が止まったような洋食屋だった。


 営業中、と書かれた札が揺れている。


 こんな時間に。


 悠真は吸い寄せられるように扉を開けた。


 カラン、と鈴が鳴る。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から低い声がした。


 白髪の老人がフライパンを握っていた。


 店の中は狭い。

 カウンターが六席。テーブルが二つ。


 壁には色褪せたメニューが貼られている。


 ナポリタン。

 ビーフカレー。

 ハンバーグ。

 オムライス。


 どれも昔ながらの洋食だった。


「何にする」


 老人が言った。


「……おすすめ、ありますか」


 老人は悠真の顔を見た。


 まるで何かを見透かすみたいに。


「オムライス」


 それだけ言って、老人は卵を割った。


 ジュワ、とバターが溶ける音が響く。


 悠真はぼんやりその音を聞いていた。


 卵がフライパンの上で揺れる。

 ケチャップライスの香りが立つ。


 それだけで、空っぽだった胃が急に痛いほど空腹を思い出した。


 数分後。


 目の前に皿が置かれる。


 半熟の卵が、とろりと光っていた。


 真ん中には赤いケチャップ。


「熱いうちに食え」


 悠真はスプーンを入れた。


 ふわり、と卵が開く。


 一口食べた瞬間。


 涙が出そうになった。


「……うまい」


 自然に声が漏れた。


 優しい味だった。


 派手じゃない。

 高級でもない。


 でも、冷え切った身体の奥に、ゆっくり熱が入ってくる。


 悠真は夢中で食べた。


 気づけば皿は空だった。


「ごちそうさまでした」


 老人は頷くだけだった。


「……また来てもいいですか」


「店が開いてりゃな」


 その日から、悠真は毎晩のように店へ通った。


 深夜営業のその店には、変わった客が多かった。


 夜勤明けの看護師。

 家に帰りたくなさそうな高校生。

 仕事帰りのOL。


 みんな、疲れた顔で店に来る。


 そして料理を食べると、少しだけ顔が柔らかくなる。


 ある夜、悠真は店で一人の女性と隣になった。


「いつも来てますよね」


 黒髪を後ろで束ねた女性だった。


「……はい」


「私は美琴。出版社で働いてます」


「瀬尾です」


 彼女はハヤシライスを食べながら笑った。


「ここ、不思議なお店ですよね」


「不思議?」


「マスター、その人に合う料理出すんです」


「え?」


「落ち込んでる人には甘い料理。イライラしてる人には濃い味。なんか、心読まれてるみたい」


 悠真は厨房を見る。


 老人――湊源三は、無言で包丁を動かしていた。


「昔はすごい料理人だったらしいですよ」


「そうなんですか」


「ホテルの総料理長とか」


 源三は聞こえているのかいないのか、黙って鍋を振っている。


 だが、その横顔はどこか寂しそうだった。


 それから悠真は、少しずつ店を手伝うようになった。


「皿洗いくらいならできるだろ」


 源三がぶっきらぼうに言ったのが始まりだった。


 洗剤まみれになりながら、悠真は久しぶりに誰かの役に立っている気がした。


 忙しい夜だった。


 高校生の恒一がナポリタンを頬張っている。


「母ちゃんとまた喧嘩した」


「毎週してるな」


 源三が言う。


「うるせぇな」


 でも恒一は少し笑っていた。


 奈々という看護師は、カレーを食べながら泣きそうな顔をしていた。


「患者さん、助けられなくて……」


「食ってから考えろ」


 源三はそう言って、水を置いた。


 誰に対しても必要以上に優しくしない。


 でも冷たくもない。


 その距離感が、不思議と心地よかった。


 ある雨の日。


 店に不動産会社の男が来た。


「契約更新は難しいですね」


 その言葉で空気が変わった。


 店が入っている古いビルは再開発されるらしかった。


「立ち退き、ですか」


 美琴が聞く。


「そういうことです」


 男が帰った後、店内は静かだった。


 悠真は思わず言った。


「別の場所で続ければいいじゃないですか」


 源三はフライパンを磨きながら言った。


「もういい歳だ」


「でも、みんなこの店が必要で」


「店なんてもんはな、なくなる」


 源三は淡々としていた。


「残るのは味を食った記憶だけだ」


 その夜、悠真は眠れなかった。


 自分も、会社を辞めた時に全部捨てた。


 夢も。

 居場所も。


 でも、この店までなくなったら。


 そう思うと苦しかった。


 翌日から常連たちは動き始めた。


 署名活動。

 SNSで拡散。

 閉店反対の声。


 恒一まで学校でチラシを配っていた。


「ガキのくせに偉そうに」


「うるせぇ」


 でも源三だけは、どこか遠くを見ていた。


 閉店まであと三日。


 その夜、源三は悠真に言った。


「お前、料理やってみるか」


「え?」


「オムライス作れ」


 悠真は慌てた。


「無理ですよ」


「いいからやれ」


 震える手で卵を割る。


 ぐちゃぐちゃになった。


「下手くそ」


「わかってます」


 源三は笑った。


 初めて見る笑顔だった。


「料理はな、上手い下手じゃねぇ」


「え?」


「誰に食わせたいかだ」


 その言葉が、胸に刺さった。


 悠真はずっと、自分のためだけに生きてきた気がした。


 認められたい。

 失敗したくない。

 嫌われたくない。


 でも源三は違った。


 ただ、誰かを腹いっぱいにしたかったのだ。


 閉店前日。


 店は満席だった。


 笑い声。

 皿の音。

 バターの香り。


 源三はいつも通り料理を作っていた。


 けれど深夜二時を過ぎた頃。


 突然、源三が咳き込んだ。


「マスター!」


 悠真が駆け寄る。


 源三は壁にもたれた。


「……うるせぇな」


 だが顔色が悪い。


 美琴が青ざめた。


「病院行きましょう!」


「必要ねぇ」


 その時、悠真は気づいた。


 この人、ずっと無理してたんだ。


「なんで言わなかったんですか」


「言ったら、お前ら騒ぐだろ」


 源三は苦笑した。


「……胃癌だ」


 空気が止まった。


「もう長くねぇ」


 悠真は何も言えなかった。


「だから店も閉める」


 源三は静かだった。


「最後まで、普通に終わりたかった」


 奈々が泣き始めた。


 恒一は俯いたまま動かない。


 美琴は唇を噛んでいた。


 源三はそんなみんなを見て、小さく笑った。


「湿っぽい顔すんな」


 翌日。


 最後の営業日。


 店の前には長い列ができていた。


 昔の常連。

 近所の人。

 SNSで知った客。


 小さな店は、最後の夜を迎えていた。


 悠真は厨房に立っていた。


「卵焦がすなよ」


「はい」


 源三の隣で、初めて本気で料理を作る。


 手は震えていた。


 でも、不思議と怖くなかった。


 最後の客が帰る頃には、空が少し白んでいた。


 深夜二時。


 いつもの時間。


 源三はカウンターに座った。


「終わったな」


「……はい」


「瀬尾」


「なんですか」


「お前、料理向いてるぞ」


 悠真は笑った。


「下手でしたよ」


「最初はみんな下手だ」


 源三は窓の外を見る。


「でも、お前の料理はちゃんと人の顔見てた」


 その瞬間。


 悠真は、初めて自分の進みたい道を見つけた気がした。


 数ヶ月後。


 駅から少し離れた場所に、小さな店ができた。


『深夜食堂 ゆうま』


 メニューの一番上には、オムライス。


 夜二時。


 疲れた顔の客が入ってくる。


「おすすめ、ありますか」


 悠真は少し笑った。


「オムライス、どうですか」


 フライパンにバターを落とす。


 ジュワ、と音が響く。


 あの夜と同じ音だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


グルメ小説を書くとき、ただ「おいしそう」を並べるだけでは足りないと思っています。

料理には、その人の記憶や孤独や後悔が混ざるからです。


オムライスにも、ナポリタンにも、カレーにも、誰かの人生が染み込んでいる。

そんな温度を書きたくて、この物語を作りました。


もし読後に、昔通っていた定食屋や、忘れられない味を思い出してもらえたなら嬉しいです。


そして今日の夜、少しだけ丁寧にご飯を食べたくなってもらえたなら――

この物語は完成です。

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