第9話:法律という名の盾
王都から派遣された「増税監督官」ヴォルザック伯爵が、重装歩兵百名を率いて領主館の門を叩いたのは、タックスヘイブン宣言から三日後のことだった。
「エリシア! 貴様の反逆行為は目に余る。王太子の命により、ノアール領内の全資産を没収、貴様を国家反逆罪で拘束する!」
門前でがなり立てるヴォルザックに対し、私は執務室の窓から、冷めた紅茶を一口飲んで応じた。
隣には、呆れたように爪を磨くベルベットと、書類の山と格闘するセラフィナがいる。
「カイルム。彼らを応接室へ。ただし、武器は『管理コストの無駄』ですので、入り口で没収しておいてください。抵抗するなら、不法侵入罪として即時、領地裁判にかけます」
「承知いたしました」
十分後。応接室で机を叩くヴォルザックの前に、私は一通の古びた羊皮紙を提示した。
「……なんだこれは。こんな紙切れに何の意味がある!」
「アストライア王国建国憲章、第十二条付随条項。通称『辺境自由統治令』です。……ヴォルザック閣下。あなたは、このノアール領が、初代国王から『王室の介入を一切受けない永久不磨の特区』として認められていることをご存知ないのですか?」
「そんな化石のような法、今は誰も守っておらん!」
「いいえ。法は法です。破棄するには議会の三分の二の賛成と、領主――つまり私の合意が必要ですが、記録によれば過去三百年、一度もその手続きは踏まれていません。つまり」
私は、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた。
「現在、あなた方が行おうとしている『没収』は、王国の法に照らしても完全な『強盗行為』です。国際商業ギルドにこの事実を通報すれば、王国の信用格付けは『デフォルト(債務不履行)』から『国家公認海賊』へと格下げされます。そうなれば、隣国からの融資は完全に途絶えますが、よろしいですね?」
「ぐ……っ、黙れ! 法律がどうあろうと、王太子の命令は絶対だ!」
「感情的な叫びは、議事録のノイズになります。……ところで閣下。あなたの『時給』は今、いくらですか?」
唐突な問いに、ヴォルザックが呆然とする。
「……何だと?」
「あなたが連れてきた兵士たちの給与、および今回の遠征費用。すべて王都から発行された『新紙幣』で支払われる予定でしょうが……。残念ながら、私がたった今、市場でその紙幣を『紙屑扱い(ゼロ評価)』に設定しました。……ベルベット」
ベルベットが妖艶に微笑み、最新の相場チャートを突きつける。
「閣下、残念なお知らせよ。あなたが王都を出発してから三日間で、王国の紙幣価値はさらに四十分の一に暴落したわ。あなたが今持っている軍資金では、兵士一人にパンの耳一つ買うことすらできない。……ねえ、後ろにいる兵士さんたち。給料、実質ゼロだけど、まだ戦うつもり?」
背後の歩兵たちが、ざわめき、互いの顔を見合わせる。
「……お、おい、どういうことだ!」
「簡単な計算です。ノアールに留まり、私の下で『物流警備』に転職すれば、現在の百倍の価値がある『ノアール・クレジット』で給与を支払います。……反対に、王太子の無益な略奪に加担するなら、今日この瞬間から、あなた方の故郷に住む家族への『送金ルート』をベルベットが遮断します」
ヴォルザックの顔から、急速に血の気が引いていく。
彼は気づいたのだ。目の前の令嬢は、剣ではなく「数字と生活」で自分の軍隊を解体しているのだと。
「……エリシア、貴様は……悪魔か!」
「いいえ。私はただ、市場の原理に従っているだけです。……カイルム、ヴォルザック閣下をお出口へ。お帰りの際の馬車の燃料費は、彼個人の債務として請求しておいてください。あ、それから」
私は、真っ白な顔で立ち尽くす閣下に、最後の一撃を加えた。
「王太子に伝えてください。『あなたが私を捨てた瞬間に、この国の資産価値はゼロになったのです』と。……次の四半期決算では、私は王国の『国債』をすべて買い叩き、王都そのものを差し押さえる準備に入ります」
追い出されるように去っていく「かつての支配者」たちの背中を、私は一瞥もせずに見送った。
「さて、セラフィナ。ノアール領の人口が今日だけで百名増えました。兵舎の改修コストを予算に計上して。……ベルベット、王都の貴族たちの離反工作の進捗は?」
「順調よ。みんな、自分の金が紙屑になるのを恐れて、お嬢様に『口座を開かせてくれ』って泣きついてきてるわ」
「完璧です。……世界は愛ではなく、正しい帳簿で回るべきですから」
第9話をお読みいただき、ありがとうございます。
武力での侵攻を「法規」と「通貨価値の暴落」で無力化する。
エリシアが最も得意とする「非対称戦闘」の回でした。
兵士たちもまた、家族を養う労働者である以上、
価値のない紙幣をくれる王子より、価値ある通貨をくれるエリシアを選ぶ――。
この残酷なまでの合理性が、本作の骨子です。
次回、第10話。第1章クライマックス。
ついにノアール領の第1四半期決算が発表されます。
圧倒的な黒字と、王国の完全なデフォルト。
そしてエリシアの元に、ある「意外な人物」が商談に訪れます。
この物語の結末を見届けたい投資家(読者)の皆様、
ぜひブックマークと評価をお願いいたします!




