第2話:時速100キロの撤退劇
パーティー会場から馬車に乗り込むまで、要した時間はわずか4分12秒。
私は馬車の座席に深く腰掛けると、膝の上に広げた魔導端末に指を走らせた。
「エリシア様、本当に……よろしいのですか? あのような、着の身着のままの状態で」
御者台から馬車内へ声をかけてきたのは、カイルムだ。
彼は先ほどまで王国の近衛騎士団長という、武人の最高位にいた男である。だが今は、不当な解雇通知を突きつけられ、私の「私設秘書兼警護員」としての雇用契約書にサインしたばかりの身だ。
「カイルム、誤解しないで。私は『着の身着のまま』ではありません」
私は端末の画面を彼に見せた。
「公爵家の私財のうち、換金性の高い宝石類は3日前までにすべて匿名オークションで処分済みです。残る不動産についても、王太子が『没収』を宣言するより先に、隣国の商会へ信託統治という形で実質的な売却を終えています。現在、私の個人口座には金貨8万枚相当の流動資産が確保されています」
「……3日前、ですか。では、あの夜会での出来事はすべて予測の範疇で?」
「予測ではなく、確定事項としての処理です。殿下の女性関係の推移と、マリア嬢の承認欲求の増大曲線を計算すれば、今日がデッドラインであることは明白でしたから」
私は端末を叩き、ノアール領までの最短ルートを算出する。
「さて、現在の最優先タスクは『王宮からの物理的距離の確保』です。殿下が私の不在による実務上の不都合に気づくのは、明日の午前9時。定例の予算承認会議が始まる時刻です。追っ手が差し向けられる可能性があるため、時速20キロを維持して夜通し走ります。カイルム、交代の御者は手配してありますね?」
「はっ、私の伝手で信頼できる退役兵を3名、先行する中継地点に待機させています」
「素晴らしい。コストに見合う働きです。あなたの時給を5%上乗せしましょう」
馬車が王都の城門を抜ける。
その瞬間、私は手帳に一本の線を引いた。**「アストライア王国:損切り完了」**。
――同時刻。王宮執務室。
エリシアの去った部屋に、王太子の側近の一人である財務官が踏み込んでいた。
彼は冷や汗を流しながら、エリシアの机の上に置かれた「唯一の資料」を手に取った。
「な、なんだこれは……」
そこには、エリシアの美しい筆跡で、たった一行だけ記されていた。
> 『今後の予算管理、および外交決済については、愛と情熱をもって対処してください。 ――エリシア』
「ふ、ふざけるな! 魔法障壁の維持予算、国境警備隊の給与、隣国への賠償金支払い……。これらすべての承認印が、彼女の魔力署名なしでは押せないんだぞ!」
財務官が慌ててエリシアの魔導端末を起動しようとするが、画面には無機質な文字が表示される。
『Error: User not found. This system will be initialized in 72 hours.』
「初期化!? これまでの全会計データが消えるというのか!? おい、誰かエリシアを連れ戻せ! まだ遠くへは行っていないはずだ!」
だが、彼らは知らない。
エリシアが手配した馬車は、通常の輸送馬車の3倍の維持費をかけて整備された、特注の「高速移動仕様」であることを。
そして彼女が、すでに王都の徴税圏を脱し、法的に手出しができない「ノアール領直轄路」に入っていることを。
――馬車内。
「エリシア様、一つ伺っても?」
カイルムが、暗闇の中で光る私の眼鏡を見つめながら尋ねた。
「何かしら」
「ノアール領は、地図上では不毛の地とされています。なぜ、あのような場所を選ばれたのですか。あなたの知能があれば、帝国へ亡命して高官の座を狙うことも容易だったはずだ」
私は、窓の外を流れる夜の荒野を指差した。
「カイルム。ここは不毛の地ではありません。**『既得権益という名のゴミが、一つも存在しない空き地』**です」
私は鞄から、一通の古い羊皮紙を取り出す。
それは、アストライア王国建国時の古法規。現代では誰も顧みない、死文化した法律だ。
「ノアール領は、初代国王が『外敵からの防波堤』として、代々の領主に独自の通貨発行権と関税決定権を認めた特殊特区。王太子は勉強不足でこれを知らなかった。……いい、カイルム? 私はこれからあそこで、王国よりも巨大な『富の心臓』を作るの」
私は微笑んだ。それは、恋に落ちた少女の微笑みではなく、完璧な事業計画を書き終えた経営者の微笑みだった。
「まずは明日の午前中、領地到着と同時に『ノアール自由貿易経済圏』の設立を宣言します。……寝ている暇はありませんわよ?」
「損切り」という言葉の響き、いいですよね。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
有能な人間が去った後の「現場のパニック」を描くのは、執筆していて非常に爽快です。
王宮側が「愛」でどうにもならない現実に直面する描写は、今後も適宜挟んでいく予定です。
このままエリシアと共に、不毛の地を黄金に変える旅を見守ってくださる方は、
ぜひブックマークと評価をお願いいたします。
次話、いよいよ領地経営の実務が始まります。




