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第7話 人というもの

 母の手帳は、思っていたよりも淡々としていた。

 祈りの記録。

 神殿での務め。

 光の祭儀の手順。

 けれど、その合間に挟まる小さな文章が、イーリャの指を止める。

 ーー今日、市場で子どもが泣いていた。

 ーー飴を落としただけで、世界が終わったように泣く。

 ーー拾ってあげたら、無邪気に抱きついてきた。とても愛おしい。


 イーリャは、頁をなぞった。

 母は、魔王城でそんなことを書いたのだろうか。

 さらにめくる。

 ーー人は弱い。

 ーーだが、弱さを理由に手を伸ばす。

 ーーそこが好きだ。


「……好き」


 小さく呟く。

 魔族の城では、人間は『餌』だ。餌用に飼っている人間だっている。

だか、本質は敵だ。光に与する者。

 

 だが、母の手帳の中の人間は、違う。

 飴を落として泣く子ども。

 祈りを忘れて居眠りする見習い巫女。

 雨の日に洗濯物を取り込み忘れる老人。

 どれも、弱くて、少し愚かで。

 それでも、どこか温かい。


 ーー人は、選び続ける生き物だ。

 その一文に、イーリャは目を止めた。


 選ぶ。


 母もそう書いた。

 選んでいい、と。


「人は、選ぶ……」


 魔族はどうだろう。

 血に縛られ、力に縛られ、人間の精気なしでは生きられない。

長命ゆえに変化を恐れる……

 滅びかけているのに、それでも誇りを手放せない。

 それは強さか? 硬さか?

 

窓の外、魔王城の外は静かだった。


 もし、人間が弱いのだとしたら。

 弱さを抱えたまま、選び続けるのだとしたら。

 それは、強さではないのか。

 

イーリャは、そっと手帳を閉じる。

 母は、なぜ闇の城へ来たのだろう。

 光の神殿を捨ててまで……?

 そこに『人』を見たのか?

 それとも、『選ぶ自由』を守りたかったのか。


「……会ってみたい」


 ふと、そんな言葉が零れた。

 敵としてではなく。

 滅ぼす相手としてでもなく。

 ただ、人というものを。

 飴を落として泣く子どもを。

 弱くて、愚かで、けれど手を伸ばす存在を。

 胸の奥に、小さな火が灯る。

 憎しみではない興味

 

 知りたい、という衝動だった。

 それは、魔族の王子としては危うい感情だった。

 だが、消えない。

 母の文字が、背を押している。

 ーー人は、選び続ける。


「……ボクも、選ぶ」


 その選択の先に、人がいるなら、

 それを知らずに、橋になどなれない。

 イーリャは、立ち上がった。

 闇の城の窓から、遠い光の方角を見つめる。

 敵ではなく、未知の世界として。

 その夜、初めて。

 魔王の末子は、人間という存在に心を向けた。


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