第4話 母のこと
その日、エリンが囁いた。
「イーリャは、義母上似ね」
外から来た人間だと聞いていた。 魔族にとっては、『餌』であり『敵』。その血の混じるイーリャに、母の話を自分から振る者はいなかった。
でも、エリンの言葉には懐かしさが込められた気がした。
それで、イーリャも興味を持ったのだった。
その日の遅くイーリャは、父王の執務が終わってから母のことを聞くことにした。
父は黙ってあとをついてくるように命じた。
魔王城の奥には、時の止まった部屋があった。
重い扉の前で、イーリャは足を止めた。
「……ここだ」
父王の声は低く、いつもより少しだけ柔らかい。
扉が開く。
薄青い魔石の灯りが、室内を淡く照らしていた。
誰もいない。
だが、確かに『誰かがいた』気配だけが残っている。
机の上に積まれた本。
窓辺の椅子。
整えられたままの寝台。
使われなくなって久しいはずなのに、埃はない。
「……母上の、部屋?」
父王は大きく頷いた。
「レイシアの部屋だ」
名をはっきりと呼ぶ。
その瞬間、胸の奥がひどく熱くなった。
――母上、ではなく。
レイシアと……
机の上に、小さな木箱が置かれている。
父王はそれを手に取り、イーリャへ差し出した。
「彼女の遺品だ。多くはない」
受け取ると、驚くほど軽かった。
これだけなのか、と喉が詰まる。
箱を開く。
中には、銀のペンダントがひとつ。
赤い糸で綴じられた小さな手帳。
そして、薄く透き通る白布。
イーリャは、そっと布に触れた。
ひやりとするはずの布が、なぜか温かい。
「巫女装束の一部だ」
父の声が、背後から落ちる。
「ペンダントは加護の印。……もう、力は残っていない」
手帳を開く。
整った文字が並んでいた。
祈りの記録。
光の神殿の日々。
けれど途中から、言葉が変わる。
魔王と話したこと。
この城で見た空の色。
魔族の笑い声。
そして、最後の頁。
ーーこの子が、笑って生きられる世界を。
ーー光にも、闇にも縛られず。
ーー名前は、イーリャ。
視界が滲んだ。
ぽたり、と頁に雫が落ちる。
涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
「……父上」
振り返る。
「母上は、幸せでしたか」
沈黙が落ちる。
王としてではなく、男として考えている沈黙。
「……ああ」
それだけだった。
だがその一言に、嘘はなかったと確信ができた。
「最後まで、笑っていた」
イーリャは白布を胸に抱き寄せる。
ほんのわずかに、指先に光が残る。
消えきっていない。
母の祈りは、まだどこかにある。
「僕はーー」
かすれた声が出た。
「選びます」
光か。
闇か。
それともーーどちらでもない道か。
父は止めなかった。
「それが、レイシアの望みでもある」
部屋を出る直前、イーリャは振り返る。
窓辺の椅子に、白い影が座っている気がした。
幻だろう。
それでも。
「……レイシア」
初めて、名を呼ぶ。
風が、やわらかく吹いた。
遠く、光の神殿の最奥の部屋で、かすか光がに揺れた。




