第1話 魔王城に現れた光の巫女
魔王城に、人間が足を踏み入れたことはない。
少なくとも、門を通って入った者は。
黒曜石の塔を取り囲む結界は、魔族の誇りだった。
その夜、結界がーー静かに揺れた。
砕けたのではない。
拒んだのでもない。
ただ、水面に指先を落としたように、波紋が広がったのだった。
「……人間だと?」
門番の低い声が震えた。
城門の前に立っていたのは、人間の女だった。
銀糸の衣装に、金糸で織られた紋章は、胸元には輝く光の神殿の印。
夜の闇の中でその姿だけが淡く輝いていた。
光の神殿の巫女。
魔族と最も相容れぬ存在だった。
槍が向けられる。
だが女は微動だにしなかった。
「魔王さまにお目通りを」
声は柔らかい。だが命令の響きを持っていた。
「わたくしは、戦いに来たのではありません」
その瞬間、結界の光が淡く彼女を包んだ。
まるでーー許可を与えるように。
門は、ひとりでに開いた。
玉座の間の魔王は、目を細めた。
「面白い」
低く落ちる声に、空気が震えた。
左右に控える側近たちが殺気を滲ませる中、女は一歩、踏み出した。
闇の城に、光が入った瞬間だった。
「名はなんという?」
魔王が問う。
女は、優雅に礼をした。
「レイシア・ロイルと申します」
光の神殿に連なる、古い家系の名前だ。
ざわり、と魔族たちの魔力が揺れた。
「何の用だ」
「あなた方、魔族の人口が三千人を切りましたわ」
「存じておる。人間や魔法使いに多くの同朋が殺された」
「でもイリアスさまは、沈黙なさいました」
玉座の間を静寂が包んだ。
誰も言葉を返せない。
光の神ーー
光の神イリアス。
人間を守護すると謳われる存在。
その神が、沈黙したとーー
「それが、我らに何の関係がある」
魔王の声は冷たい。
レイシアは顔を上げる。
「関係があります」
揺らぎのない瞳。
「神の声が消えた今、人間と魔族の均衡を失います」
玉座の間の燭台が、ひときわ大きく揺れた。
「均衡など、もとより在らぬ」
「いいえ」
レイシアは言い切る。
「在ったのです。見えないだけで」
その言葉に、わずかな怒気が走る。
魔族にとって人間は、餌でありながら、脅威であり、敵であり、いずれ滅ぼすべき存在。
だが巫女は、恐れない。
「わたくしは架け橋になるために来ました」
静かな声が、広い間を満たす。
「戦いを続ければ、いずれ滅びます。それとも……別の道を探りますか?」
ただの問いであった。
魔王は立ち上がる。
漆黒の外套が床を擦る。
「魔族選択を迫るのか?」
「いいえ、ともに考えるのです」
レイシアは、首を振って言った。
「共に、考えましょう」
その言葉は、闇の中であまりに異質だった。
だがーー
誰も、彼女を斬れなかった。
斬れば簡単に終わる。
魔王城に現れた光は消える。
「命を懸けて、ここに来ました」
静かに告げた。
「あなたたちが、滅びぬために……」
魔王はしばし黙した、
やがて、わずかに口角を上げた。
「滅びぬ、ためだと? 人間にしては、胆が据わっているな」
その視線が、まっすぐに彼女を射抜いた。
「良いだろう。話を聞こう」
闇の城に、光が留まる。
それがどれほど大きな波紋を生むのかーー
その夜、天はまだ静かだった。
だが、静寂は長くは続かない。
やがて生まれる半魔の子の人生もーー




