第11話 王の沈黙
「エリン」
呼ぶと、影から長女が現れた。
「はい、父上」
「最近、城の結界がわずかに歪む夜がある」
「……存じませんでした」
完璧な声音。
だが、魔王は娘の鼓動の速さまで知っている。
しばし、沈黙が続いた。
「イーリャは……」
言葉を切った。
「あれは、まだ十歳の大きさだ」
「はい」
「それでも……」
玉座の肘掛けに置いた手が、わずかに握られる。
「我が子だ」
エリンの睫毛が揺れた。
「止めぬのですか?」
「外の世界を見せることは必要なことだ」
即答だった。
「世間知らずの王子に、未来はない」
それは父ではなく、王の判断だった。
だがーー
「……護りはつけよ」
「承知しております」
魔王は、ゆっくりと目を閉じた。
「帰る場所だけは、残しておけ」
「仰せのままに……!」
エリンは深く頭を下げる。
その背を見送りながら、魔王は独りごちた。
「行け、イーリャ」
声は誰にも届かない。
「『架け橋』になれるなら、なってみせよ」
玉座の背後で、古い紅玉が静かに光った。
※
ーー人間界。
夕暮れの街道は、橙色に染まっていた。
小柄な少年が、荷物を背負って歩いている。
黒髪、茶色の瞳。
角も、魔族の気配もない。
イーリャは、初めて自分の足で大陸を踏みしめていた。
(……本当に、来てしまった)
胸が高鳴る。
そのとき。
「うわっ!」
前方で、荷車が石につまずき、横倒しになった。
荷が転がり落ちた。
反射的に、イーリャは駆け出した。
「大丈夫ですか?」
転がる木箱を受け止める。
思わず魔力を使いかけ、ぎりぎりで抑えた。
「助かったよ、坊主」
振り返った男は、旅装の青年だった。
陽に焼けた肌。
軽装の鎧。
腰には使い込まれた剣があった。
「ありがとうな。俺、ちょっとよそ見しててさ」
人懐こい笑み。
「君も街に向かうのか?」
「は、はい」
おずおずと答えるイーリャ。
「奇遇だな。俺もだ」
青年は荷をまとめながら、さりげなくイーリャを観察する。
魔力の揺らぎ。
呼吸のリズム。
――王族特有の気配。
ほんの一瞬、瞳の奥が鋭くなった。
だが、すぐに消える。
「俺、ラドっていうんだ。冒険者見習いだ」
差し出された手。
「旅は一人か? 物騒だぞ、この辺」
偶然の申し出だった。
だが、その配置は計算されている。
青年の瞳が、ほんの一瞬だけ金色に揺れた。
だが夕陽のせいかもしれない。
「……イリヤです」
本名に近い、偽名。
小さな手が、握り返す。
「じゃあ、街まで一緒に行くか」
夕陽が、二人の影を長く伸ばす。
その影の重なりを、遠く離れた魔王城の紅玉が、静かに見守っていた。
ーー偶然。
だがそれは、
王の沈黙が選んだ、必然だった。




