第10話 架け橋の決意
「内緒とは感心しませんね」
闇の中から現れたのは、エリンだった。
月明かりに照らされた黒髪が、静かに揺れる。
イーリャの変身は、まだ解いていない。
鏡の中には、人間の少年の姿。
その隣に、凛とした魔族の姉。
「……姉上」
とっさに魔力を解こうとして、エリンが手を上げた。
「そのままでいいわ」
低く、しかし怒鳴らない声だった。
「どこへ行くつもり?」
逃げ道はない。
イーリャは、ゆっくりと向き直った。
「……人間の世界です」
「観光? ……ではないでしょう?」
「はい」
一拍。
「人間を見てみたいんです」
エリンの瞳が、わずかに揺れた。
イーリャは続けた。
「母上の手帳を読みました。人間は、敵だけじゃない! 餌でもないんです!」
「……知っています」
「でも、今のままでは、魔族は滅びます……だから、ボクは魔族と人間の架け橋になりたいんです」
その言葉は、子供の声にしては静かすぎた。
「だから僕は、向こうを知る。見て話して、確かめたいです」
「父上には?」
「……言っていません」
沈黙が続いた。
波のように、重たい沈黙のあとエリンは、ゆっくりと弟に近づいた。
人間の姿のイーリャの前に立つ。
じっと、見つめた。
「変身は、合格点」
「え?」
「でも甘い。感情が揺れると、魔力が波打っているわ」
指先が、イーリャの額に触れた。
ひやりと冷たい魔力が流れ込む。
「抑えるのではなく、均すの。王族の魔力は『押し殺す』と歪むわ」
イーリャは息を呑む。
「……姉上」
「私が気づいたということは、他も気づくわ」
目が、優しく細められる。
「だから、放っておけない」
その一言に、イーリャの胸がぎゅっと締まった。
「怒らないのですか?」
「怒っています」
即答だった。
「あなたは、まだ十歳ほどの大きさ。身体も魔力も完全ではない」
「でもーー」
「でも、行くのでしょう?」
エリンは、ふっと息を吐いた。
「あなたは止めても行く」
図星だった。
「はい」
しばらく考えて……エリンは、弟の額に軽く額を合わせた。
魔族の、古い仕草だ。
「ならば……」
ゆっくりと離れる。
「私が、あなたの盾になる」
「……え?」
「あなたが城を抜ける夜は、私が父上の前に立つ。光の神殿にも関わらせないわ」
淡々と言うが、それは大きな決断だった。
「姉上、それは!」
「代わりに条件」
鋭い視線が、イーリャを貫いた。
「一人では行かないこと!」
「え?」
「最低限の護りはつけるわ。私の選んだ者を」
イーリャは迷った。
だが。
「……分かりました」
「もう一つ」
エリンは、微かに笑った。
「必ず、帰ってくること!」
王族としてではない。
姉としての言葉だ。
イーリャは、深く頷いた。
「はい」
その瞬間、変身がふっと解けた。
金色の瞳が戻り、角が現れる。
魔族の王子の姿。
エリンは、その姿を見て、静かに微笑んだ。
「母上に似てきたわね」
イーリャの目が、少しだけ揺れる。
「前にも言われましたね?」
「だから……困るのよ」
そう言って、背を向ける。
「準備を始めなさい、イーリャ」
扉の前で、足を止める。
「あなたが魔族と人間の『架け橋』になるなら」
振り返らずに。
「私は、その『橋』を守る盾になるわ」
扉が静かに閉まる。
鏡の中で、イーリャは初めてーー
少しだけ、泣きそうな顔をしていた。




