夢界ノ彼方へ 第九話 反転する街
夢界ノ彼方へ 第9話:反転する街
――空が、上下逆だった。
地平に浮かぶはずの建物が、空中にぶら下がっている。道路は斜めにねじれ、時間の止まった人影が無音で彷徨っている。
そこは、“夢界”のさらに奥、パラレルワールドと呼ばれる反転領域だった。
「ここが……“反映世界”……?」
津奈は、Eくんと並んで立っていた。
彼はまだ完全には戻っていない。瞳にはかすかに赤黒い残滓が揺れ、言葉も少ない。
だが、彼は今、自分の意思でここにいる。――それだけで、津奈の胸は締めつけられた。
「Nが言ってた。“ここに、真実の残像がある”って……」
彼女はポケットの中にしまった記憶キーを強く握る。あれは、記憶の中の“起点”を書き換えるための装置。
だが、Nは言っていた。この世界のどこかに、野獣先輩の“原型”が封じられている、と。
「……あそこに、何かある」
Eくんが指をさす。
歪んだ街の中央、“記憶の塔”と呼ばれる黒い構造物が、空を貫くように聳え立っていた。
歩き出すと、周囲の空間が揺れ始めた。
ビルが反転し、文字が逆さに浮かび、時計が逆行を始める。
「すごい……この世界、“記憶の法則”でできてるんだ」
津奈は目を細めた。
道端に落ちたノート、電柱に貼られた落書き、行き交う人々の囁き声――すべてが、過去に見たことのある“何か”だった。夢、記憶、妄想。自分とEくんの断片的な記憶が、この世界を構成している。
「……気をつけろ。来る」
Eくんが低く言った。
次の瞬間、“塔”の入口から黒い靄があふれ出した。
その中に、確かにいた。
――焦げた肌。裂けた唇。
あの赤黒い目と、歪んだ笑み。
「……野獣先輩」
“彼”は、こちらを見た。
にやりと笑い、声を発した。
「……ヨク……ココマデ……キタネ……」
声というより、脳髄に直接響く音のようだった。
空間が裂け、背後の風景が“音もなく”崩壊していく。
「津奈、逃げるぞ!」
Eくんが手を引く。
二人は塔の回廊を駆け上がる。背後からは足音――“パタ……パタ……”という、例の不気味な追跡音が忍び寄る。
塔の中は螺旋階段のように永遠に続いていた。
壁には、これまで見た夢の風景がパネルのように並んでいる。教室、病室、白の空間、鏡の部屋――そして、あの日の小学校の記憶。
「ここに……あの名前を呼んだ“最初の瞬間”があるんだ……!」
津奈はひとつのパネルに手を伸ばす。
パネルが光り、記憶の断面が浮かび上がった。
――ひとりぼっちの少女。
ノートに名前を書き殴る姿。
「……やじゅうせんぱい……」
その声を、野獣先輩は聞いていたのだ。
ただの空想だったはずの存在が、呼び出された“瞬間”。
「ここを……書き換える!」
津奈は記憶キーをパネルにかざした。だが――
「……ダメダヨ……」
背後から、野獣先輩が現れた。
彼は今、塔の内部にまで入り込んでいる。夢界のルールを無視し、自我を持ったまま拡張している。
「ワタシハ、イチバン……キミノナカノ“ほんとう”……」
Eくんが津奈をかばうように前に出た。
「お前なんか、現実じゃない……記憶の歪みでしかない!」
「デモ……キミハ……ナマエヲ、ヨンダ……」
そう言って、野獣先輩が手を伸ばす。
次の瞬間、塔が倒壊し始めた。世界が傾く。壁が剥がれ、空間が反転し、二人は床から宙へと“落ちて”いく。
「Eくん!!」
津奈は彼の手を掴もうとする。だが、重力が逆転し、声も、音も、全てが引き剥がされていく。
野獣先輩の笑い声が響く。
――アッー!!
その声とともに、塔が崩壊し、白と黒が混ざり合う。
そして――津奈は、目を覚ました。
見慣れた天井。揺れるカーテン。窓の外では、朝日が昇っていた。
「夢……だった……の……?」
隣のベッドには、Eくんが眠っていた。
だが――その顔に浮かぶ微かな“笑み”に、津奈は息を呑む。
あの笑みは、本当にEくんのものなのか?
夢は終わったのか。それとも――まだ、続いているのか。
静かに、記憶キーが彼女のポケットの中で脈打った。