夢界ノ彼方へ 第八話 夢界の構造
夢界ノ彼方へ 第8話:夢界の構造
白の空間に、音はなかった。
まるでこの場所が、“すべての始まり”であり、記憶の最奥であるかのように。
津奈は立っていた。
今しがた見た、小学生の自分が書き殴ったノート――そこに刻まれた名。
無意識に繰り返されるその名前が、今のすべてを形作っていた。
「わたしが……呼び出した……?」
思い返せば、そのころからだった。
夜ごと、知らない声が耳元でささやくようになったのは。
夢の中で誰かに見られているような、背筋を撫でる感覚。
笑い声。囁き声。視線。冷たい手。
それは、すべての“始まり”だったのだ。
「やっぱり、君が原因だったか」
静かな声が後方から聞こえた。
振り返ると、Nが立っていた。
灰色のスーツ。額に浮かぶ汗。以前より少し消耗しているようにも見える。
「N……さん……? でも、あなた……」
「“存在していない”と思ったかい?」
彼は苦笑した。
「君たちが見た“あのメッセージ”……『Nは存在しない』。あれは夢界が見せた“罠”だよ。君たちの不安を煽り、記憶の蓋を開かせるための仕掛けだ」
「罠……?」
Nは手のひらを開き、宙に浮かぶホログラムのような図を表示させた。
それは**“夢界の構造図”**だった。
幾重にも重なる階層。渦を巻くように連なる記憶の層。
中心には――ひとつの“核”があった。
「これが、“野獣先輩”だ」
津奈は図の中心にある“黒い球体”に目を奪われた。
まるで空間そのものを喰らっているかのように、周囲のデータが引きずられ、歪んでいる。
「野獣先輩は、夢界に発生した思念型の霊的自己増殖構造体だ。発生源はおそらく、君。君の記憶の中の孤独、恐怖、そして――好奇心が作った存在だ」
「じゃあ……全部、わたしのせい?」
「正確には、“きっかけ”だ」
Nは歩み寄り、静かに言った。
「だが、君のせいだけではない。ネットの中で無数に囁かれ、恐れられ、揶揄されてきた“名前”。
それは集合的な記憶としてこの世界に流れ込み、“意識体”として独立した。
だから奴は、“思い出される”たびに力を得る」
「……じゃあ、忘れなければいけない。でも、思い出すことさえも、餌になる……」
Nは頷いた。
「現実世界では、君はタミフルによって境界感覚が不安定になっている。そのため、夢と現実の接続が強くなっている。
この“夢界”の構造を崩すには、君が自分自身の記憶を再構築するしかない」
「記憶を、再構築……?」
「つまり――“彼”との最初の接点を、自分の中から消去する。
その“場面”を上書きし、記憶のルートそのものを封印するんだ」
津奈は黙った。
――最初に、あの名前を呟いたとき。
誰にも相手にされなかったあの日。紙の上にいた“だれか”にだけ語りかけた、自分。
あれが、すべてだったのか。
「それをするには、リスクがある」
Nの声が低くなった。
「君は、自分の記憶の一部を失うことになる。
幼い頃の自分。孤独な感情。逃げ道だった“空想”。
それもまた、“津奈”という人間を構成していたピースだ」
「……消さなきゃ、いけないんだよね」
「選ぶのは君だ。だが――選ばなければ、“Eくん”は戻らない」
津奈の瞳が揺れた。
そうだ、Eくん。彼はまだ、あの黒い霧の中にいる。
取り込まれ、意識を支配され、笑わされていた。
「彼を、取り戻すためなら……私の一部なんて……」
強く、津奈は拳を握った。
Nは小さく頷き、彼女の手の中に**“記憶キー”**と呼ばれる銀の装置を渡した。