夢界ノ彼方へ 第六話 深淵の記憶
夢界ノ彼方へ 第6話:深淵の記憶
――水の中にいるようだった。
何かが耳を塞ぎ、空気を遠ざけ、視界をぼやかしていく。
津奈は、真っ暗な空間に浮かんでいた。
目は開いているはずなのに、何も見えない。
ただ、冷たい。皮膚に直接“意識の冷気”のようなものがまとわりつき、感覚の境界を削っていく。
「……っ……どこ……ここ……?」
声は泡のように小さく、喉の奥で消えた。
耳を澄ますと、遠くからかすかな音がした。
――パタ……パタ……パタ……
あの足音。まただ。どこに逃げても、どれだけ現実に戻ったと思っても、やつは追ってくる。
「Eくん……どこ……?」
誰か、誰かいてほしい。そう願った瞬間。
――ざぱぁん
音もなく、闇の底から誰かが現れた。
水面が割れたような感覚。
視界がぐにゃりと歪み、その先に“教室”の風景が浮かび上がる。
中学校の教室。夕焼けに染まるはずの窓。
だが空は、やはり赤黒い霧に覆われ、太陽は見えない。
「また……夢の中……」
津奈が立ち上がると、机の上に一冊のノートが置かれていた。
見覚えのある自分のノート。表紙には、自分の名前がある。
しかし、そのすぐ下に、妙な書き込みがあった。
――「わすれてはいけないひと」
誰かの筆跡で、そう書かれている。
“わすれてはいけない”? いや、忘れなければいけないはずだ。あの人は、名前で寄ってくる。思い出すほど、近づいてくる。
ページをめくると、白紙だった。
……いや、違う。
白紙に見えたページに、じわりと黒いインクのようなものが滲みはじめる。
最初は文字だった。だが、それは次第に人影のように変化していき、
あの焦げた肌、あの目、あの――笑みが、ノートのページいっぱいに広がっていく。
「やめて……やめて……!!」
津奈がノートを閉じようとすると、ページがひとりでにめくられ続ける。
風は吹いていない。けれど何かが、“続きを見ろ”と命じてくる。
そして最後のページに、こう書かれていた。
—
「Nは、存在しない」
「助けなど、最初からいなかった」
—
「……うそ」
その瞬間、世界が傾いた。
床が崩れる。教室の壁がゆっくりとねじれ、空間が真っ黒に溶けていく。
闇の中にまた、足音が響く。
――パタ……パタ……パタ……
津奈は教室から飛び出すように走った。
廊下の端、扉がひとつ開いている。
中を覗くと、そこにはEくんがいた。
「Eくん!」
津奈は叫びながら駆け寄る。
しかし、彼は振り返らなかった。
「ねえ、聞こえてる? ここ、また夢なんだよ!」
それでも、彼はじっと黒板を見つめたままだ。
津奈が横に立って視線の先を追うと――そこには、チョークでこう書かれていた。
—
「きみが彼を思い出したから、戻ってきたんだよ」
—
Eくんの唇が、ゆっくりと動く。
「……お前が……名前を思い出したから……もう、逃げられないんだ……」
その言葉とともに、Eくんの目が、赤黒く染まっていく。
「やめて……やめてよ……!」
津奈は後退りしながら首を振った。
「……わたし……思い出してなんか……!」
だが背後の扉が閉まり、鍵が勝手にかかる音がした。
そして、スピーカーのような場所から――聞き覚えのある“声”が流れ始める。
「……アッー……ココニ、イタヨ……」
黒板の文字が血のように垂れはじめ、部屋全体が赤黒く染まる。
“夢”ではなかったのか?
“現実”に戻ったのではなかったのか?
そして、“N”とは――本当に、存在していたのか?
津奈の意識は再び揺らぎ、今度は“落ちる”ように、真っ逆さまに崩れていった