夢界ノ彼方へ 第五話 戻れたはずの世界
夢界ノ彼方へ 第5話:戻れたはずの世界
――ピッ、ピッ、ピッ……
規則正しい電子音が、どこか遠くから響いてくる。
津奈は、重たいまぶたをゆっくりと開けた。
白い天井。ほんの少しだけ黄ばんだ蛍光灯の光。消毒液の匂いが鼻腔を満たし、皮膚に触れるシーツの感触が現実のものだと告げていた。
「……帰ってこれた……?」
声はかすれ、喉が焼けるように渇いていた。
カーテン越しに、誰かの足音が聞こえる。すぐ近くに人がいる。機械の音も、シーツの肌触りも、すべてが“本物”だった。
津奈はそっと起き上がり、周囲を見渡す。
ベッドの横には点滴スタンドが立ち、針が自分の腕に差し込まれているのが見えた。
「津奈……?」
カーテンの向こうから、Eくんの声がした。
彼もまた、同じような病院着に身を包み、ベッドに座っていた。
「……Eくんも……」
2人は見つめ合い、同時に言葉を失った。
数秒の沈黙のあと、津奈がぽつりと呟く。
「……夢じゃ、なかったんだよね……」
Eくんは無言のまま頷く。
あの異様な世界。歪んだ校舎、赤黒い空、野獣先輩の笑み――
すべてがあまりに鮮明で、消えてほしい記憶ほど、皮膚に刻まれていた。
「病院の人が言ってた。二人とも、高熱のせいで“意識が混濁していた”って。しかも、同時に……」
Eくんが言葉を濁す。
同じ日、同じ時間に同じような夢を見ていた――そんな偶然が現実に起こり得るのか?
「……でも、“あの人”は……」
津奈の脳裏に、あの目がよぎる。笑顔の下に張りついた異常な“何か”。
恐怖、という言葉では足りない“存在の圧”だった。
――アッー……
思い出したくないのに、音が、感触が、にじむように蘇る。
「……“名前を忘れろ”って、言ってたよね。Nさん」
「うん……忘れるって、簡単に言うけど、無理だよ……思い出すなって言われるほど、思い出す」
2人の間に、また沈黙が落ちた。
けれどその静けさは、ほんの数秒しか続かなかった。
――ガタッ!
廊下の向こうから、カートが倒れるような音。
それに続いて、ナースコールが遠くで鳴る。
不自然な沈黙のあと、ゆっくりと足音が近づいてくる。
パタ……パタ……パタ……
普通の歩き方ではない。
不規則に、片足を引きずるような足音。ゆっくり、でも確実に病室の方へと近づいてくる。
津奈の体がこわばる。
Eくんもベッドの端に手をかけて、立ち上がろうとしていた。
「……まさか……」
津奈はベッドから降り、恐る恐る病室の扉を見た。
その下、ドアの隙間から、黒い液体のような影がじわりとにじみ出てくる。
まるで、意識の隙間から漏れ出す未練のように。
まるで、“名前を忘れていない証”のように。
「嘘でしょ……?」
扉が、きぃ……と軋む音を立てて開いた。
誰もいない。
でも、廊下の奥に“それ”が立っていた。
照明の下、逆光に浮かぶ黒い人影。焦げたような肌。
赤黒い目。口元に――あの笑み。
「津奈……!」
Eくんが叫ぶ。2人は無意識に後退りし、病室の奥へ逃げ込む。
だが、その存在は一歩、また一歩と確実にこちらに近づいてくる。
夢は――終わっていなかったのか?
それとも、現実に“あれ”が滲んでいるのか?
再び、あの声が囁くように響いた。
「……ボクハ……ココニイル……」
その言葉を聞いた瞬間、津奈の意識が――再び、白く染まっていった。