夢界の裂け目 第四話 裂け目の先
夢界ノ彼方へ 第4話:裂け目の先
光が揺れていた。
廊下の突き当たり、ほんのわずかな隙間から漏れてくる、白く冷たい光。
それはまるで月明かりのようにやさしく、それでいて現実の存在を証明するような、確かな“出口の兆し”だった。
「……あれが、“裂け目”?」
津奈が息を切らしながら問いかける。
後ろからは、黒い霧がじわじわと迫ってきていた。視線の気配が増えている。足音も、風のような低い唸り声も、どんどん耳に近づいてくる。
「そうだ。あそこから現実へ戻れる……かもしれない」
Nの言葉は慎重だった。完全に保証されているわけではないのだ。
「“かもしれない”って……!」
Eくんの声がかすれる。額には冷たい汗。どんなに走っても、廊下はねじれて距離が縮まらない。
「この世界は、君たちの“深層意識”をベースにして形づくられている。つまり、“迷っている者”ほど、出口が遠ざかる」
「……私たちの“迷い”? それが……あの存在を呼んでるってこと……?」
「そう。名前を呼ぶだけじゃない。恐怖、不信、罪悪感……すべてが“彼”を引き寄せる」
津奈の足が一瞬止まりかけた。
心の奥で何かが軋む。ここに来る前、病室で感じていた漠然とした孤独。誰にも話せなかった弱さ。ずっと抱えていた“自分の中の闇”。
――そのとき。
背後で空間が破けたような音が響いた。
ビリッ。
何かがこの世界の布を裂いて、向こう側から現れようとしている。
その裂け目から、ねっとりとした“笑い声”が漏れてくる。
「アッー……イクイク……」
――まただ。あの声。
笑っているのに、全身の毛が逆立つような嫌悪と恐怖を感じる。
津奈は思わず振り返りそうになったが、Eくんが彼女の手を強く引いた。
「見るな! 名前も言うなって言ってただろ!」
「ごめん……っ、でも、声が……近いの……!」
「もうすぐだ、走って!」
裂け目に近づくにつれ、空間がぶわっと広がる。
まるで時空そのものが膨張し、2人を包み込もうとしていた。
だが、逃げ道のすぐ横――その“光”のすぐ傍に、何かが立っていた。
人間のような形。だが、肌は灰色にただれて、髪の毛はまるで焦げた繊維のように縮れている。
赤黒い目と、異常に鮮明な笑顔。
「うわっ!」
Eくんがよろけて立ち止まった。
その“存在”――野獣先輩は、2人の動きを見計らったように、ゆっくりと笑った。
くっきりとした唇が、異様なまでに滑らかに動く。
まるで粘土を練ったように歪んだその顔は、人間のようでいて、何か決定的に違う。
「……やっと、会えたね」
声は、低く、濁っていた。
けれど、まるで長年の友人にでも語りかけるような“馴れ馴れしさ”を孕んでいる。
津奈は一歩、後ずさった。背中がEくんの腕に触れた瞬間、彼の体も震えていたのがわかった。
「Nさん……っ、どうすればいいの……!? このままじゃ――」
Nは、津奈たちをかばうように一歩前に出た。
彼の手には、あの銀色の装置。先端に細い針が伸び、青い光が断続的に点滅している。
「時間がない。津奈、E、お前たちは“裂け目”を通って先に行け」
「え? でもNさんは――」
「俺の仕事は、“ここを閉じる”ことだ」
言葉の後、Nはスーツの内側からもう一つの装置を取り出す。
それは、旧式の懐中時計のような形をしていたが、文字盤の代わりに歪んだ数式とカウントダウンが浮かんでいる。
[時空シール機構:起動準備中]
「裂け目を開いたままにしておくと、奴が現実世界に滲んでくる。閉じる必要があるんだ。“野獣先輩”は、夢の中の存在じゃない。あれは、名前と意識に寄生する――“認識型の霊存在”だ」
「寄生……?」
Nは頷いた。
「誰かに思い出されるたび、語られるたびに強くなる。最初はただの“ネットミーム”に過ぎなかったんだ。けど、“恐怖”という感情を取り込んだときから、奴は“存在”になった」
Eくんが低く唸ったように言う。
「だから、呼んだら来る……忘れなければ、消えない……」
その言葉を聞いた途端、野獣先輩の顔がぴくりと動いた。
瞳が細くなり、表情に“怒り”の色がにじむ。
「……イレテ.イイヨ」
その瞬間、廊下の壁が一斉に崩れた。
内側から手のような影が無数に伸び、2人の足元を絡め取ろうとする。
「逃げろ!」
Nの叫びと同時に、津奈とEくんは最後の力を振り絞って光の中へと走り出した。
裂け目は、目の前にあった。
その中は、白く発光する霧のようなものに包まれている。見慣れた現実の教室の風景が、断片的に映り込んでいる――病室、布団、点滴のチューブ、誰かの声。
現実がそこにある。
「津奈、行こう!」
Eくんが津奈の手を取り、引き込むようにして裂け目へ飛び込んだ。
背後から、世界が崩れる音がした。
空間が悲鳴のように軋み、叫び、歪む――。
最後に、Nの声が遠く聞こえた。
「――絶対に、“名前”を忘れるな。忘れて、記憶の底に封じろ。それが唯一の鍵だ……!」
そして、世界は暗転した。