夢界ノ彼方へ 第三話 時空の裂け目
足音が廊下に反響する。重く、乾いた音が空間に吸い込まれるたび、津奈の心臓は強く鼓動を打った。
校舎の構造は見覚えのあるはずの中学校と似ているのに、まるで異なる。窓の外には空が広がっているはずだった。けれど、そこには赤黒く染まった霧のようなものが漂い、雲はまるで逆再生のように流れていた。
津奈とEくんの2人だけ。誰の気配もしないはずなのに、視線を感じる。
振り返れば、空っぽの廊下。だが、確かに“何か”が後をつけてきていた。
「この場所……本当に学校?」
津奈がつぶやいた。
「わからない。でも……“似せて作られた何か”だ。夢なのかもしれないけど、普通の夢じゃない。痛みもあるし、温度も感じる」
Eくんの声は冷静だったが、わずかに震えていた。足元を見れば、床のタイルがねじれるように波打っている。歩くたびに、靴底が妙な感触を伝えてくる。柔らかい……まるで肉の上を歩いているような、湿った嫌な感触。
そして、あの声がまた聞こえた。
――ギイ……ギイ……
遠くから響いてくる、金属のきしむような音。さっきから、同じ調子で鳴り続けている。
音はだんだんと近づいてきていた。
「……また来る……あれが」
津奈の声が震える。先ほどの“教室”で見た“あの存在”――黒い霧に包まれた、目だけが赤く爛れ、口元だけが異様にくっきりした男の影――野獣先輩と呼ばれる存在が、再び近づいてくる。
その時だった。
「――やっと見つけたぞ、君たち!」
突如、軽快な声が響いた。2人は同時に振り返る。
廊下の角に立っていたのは、茶色のスーツを着た男だった。
肩幅は広く、だが表情には威圧感はない。胸元には「時空探偵」と記された金属バッジが光っていた。
「誰……?」
Eくんが身構える。津奈も一歩下がりながら問いかけた。
「Nだ。香川県出身の時空探偵。……まあ、君たちの世界じゃあまり聞かない職業かもしれないけど」
Nと名乗る男は、ポケットから名刺のようなものを取り出した。それには、こう書かれていた。
—
時空探偵局・特務第11課
N(時空探偵)
出身:香川県高松市
担当:異次元迷宮、深層夢界、存在干渉事案
—
「夢……の中ってことでいいんですか、ここ?」
津奈が声をひそめて尋ねると、Nは小さく頷いた。
「そうだ。ただし、ただの夢じゃない。“重層夢界”だ。意識の深層に存在する異常空間で、現実に極めて近い。特に薬物や高熱の影響で意識が不安定になったとき、人間はこの層に迷い込むことがある」
津奈の脳裏に、病室の記憶がよみがえった。
インフルエンザ。39度を超える熱。タミフルを飲んでベッドに入った夜。
「あれって……やっぱり、関係あるの?」
「君の体質と薬の相性が最悪だったんだ。“Y-11層”というこの夢界は、深層意識のなかでも極めて危険な領域。しかも……」
Nが廊下の奥を見やった。そこでは、空間が静かに震えていた。
黒い霧が生まれ、膨張し、その中央に“人型”の何かが浮かび上がる。
「出るぞ……名前を言うなよ。あれは名前を媒介にして現れる“意識存在”だ」
霧の中からゆっくりと姿を現す影。
焼けただれたような肌。真紅の目。異常に鮮明な口元が、不自然に笑っている。
――アッー……
その音とともに、蛍光灯が一斉に割れ、廊下の空間がねじれた。
「走れ!!」
Nの叫び声と同時に、津奈とEくんは駆け出した。
背後から闇が迫る。重力すら歪むような感覚。時間の流れが加速と減速を繰り返す。
「まだ“裂け目”は閉じていない。早く抜けるんだ! この夢が完全に閉じたら、現実にはもう戻れない!」
廊下の奥に、微かに光が見えた。
その向こうには“扉”がある。そこだけが、まだ現実の気配を残している。
けれど、足元の床が――黒く、蠢いていた。
追ってくる“存在”は、音もなく、しかし確実に2人を捕まえようとしていた。